三章:遺品の手がかりを求めて④
気を取り直すためにアナベルは一人で胸を張る。
「ふふふ、さすが私ですね。これくらい朝飯前ってやつですよ」
周囲に聞こえないように小声だ。アナベルは自画自賛に満足すると、改めて温室内の植物を観察し始めた。
どれもこれも見覚えのない植物ばかりだ。東方、あるいはエーレハイデ固有の植物なのかもしれない。図鑑でもあればそれぞれどういった特徴や効能があるか分かっただろう。
(今度図鑑を借りれないか、侍女さんに聞いてみましょうか)
アナベルはふと、気になる低木を見つけた。温室の中でもそれなりの量植えられているその樹木には小さな赤い実が成っている。
少し考えてからアナベルは実を一つ拝借する。そして、そのまま口に入れる。非常に酸味が強い。しかし、食べれない程ではない。アナベルは咀嚼もそこそこに実を飲み込んだ。
(あのハーブティーはこれが原料みたいですね)
実にはエーレハイデにはないはずの魔力が含まれている。原料自体はこれで間違いなさそうだ。
アナベルは樹木が植えられている土を確認する。月明りでは確認しづらいが、普通の土とは異なるように見える。土には黒い小さな粒が混じっている。その粒は月明りを浴びると僅かに反射した。
(この土も影響しているんでしょうか)
出来れば持って帰って明るいところでじっくり調べたいところだ。しかし、今のアナベルは着の身着のままだ。持って帰れる容器も何も持ってきていない。アナベルは止む無く断念する。
アナベルは温室の奥に進んでいく。
温室の奥には地下へ続く階段がある。アナベルは足音を立てないように慎重に階段を下りる。階段の先には扉があった。取っ手に手をかけると、抵抗なく開く。
アナベルはそっと隙間から扉の向こうを覗き見る。
部屋の中は薄暗くて、何があるのかよく分からない。物が乱雑に置いているようにも見えるが、自信がない。
月明りを入れるために、アナベルは扉を全開にする。
そこは小さな研究室のようだった。
奥の壁には本棚が置かれ、たくさんの書物が並んでいる。部屋の中央のテーブルにはガラス瓶や乾燥した植物が無造作に置かれている。アナベルはテーブルの上にランプとマッチが置かれているのを見つけると、それを手に取った。
外に光が漏れないよう、扉を閉めてからランプに明かりをつける。部屋全体は難しいが、アナベルの周辺ぐらいなら見えるようになった。これで室内を調べることが出来る。
アナベルは本棚に並んだ古びた本を適当に手を伸ばす。頁をめくり、内容に目を通す。
記されている文字は活版印刷のものではなく、手書きだ。繊細な細い文字は女性の筆跡に見える。書かれている内容は魔術に関するものだ。しかも、比較的初歩的な内容だ。他にもいくつか本を手に取るが、すべて同様だった。
(ここが先代シルフィードの研究室、だったんでしょうか)
温室の奥にあるという立地、それに本棚に並ぶのが魔術書であることを考えれば間違いないだろう。エマニュエルが使っていたことは間違いなさそうだ。
それにしても本棚に並ぶ本に書かれた内容が簡単すぎる。まるで魔術学院の学生――それも低学年向けに書かれているかのようなものばかりだ。テオバルトはエマニュエルが色々研究をしていたと言った。研究成果らしきことは何も書かれていない。
しかし、ここがアナベルが知る唯一の遺品に繋がりそうな場所だ。何としても手がかりを見つけたい。
まずは全ての本に目を通してみよう。一冊ぐらいは研究に関わることが書かれているかもしれない。そう思って、アナベルが他の書物に手を伸ばしたときだ。
背後から呻き声が聞こえた。
勢いよく振り返ったアナベルは、背中を本棚にぶつけた。音のした方向へランプを掲げる。気づかなかったが薄暗い部屋の隅に、ソファが置いてある。そこに毛布を被ったまま、起き上がった人間がいた。
「――ああ、本当に待ちくたびれたよ。気づかないうちに眠ってしまってたみたいだね」
毛布から顔を覗かせたのは黒髪の男だった。
歳は二十代半ばくらいだろうか。服装は兵士のものでも、使用人のものでもない。上等そうな仕立てを見る限り、王族か貴族の類の人間だろう。
彼は眠そうに欠伸をする。毛布をソファの背にかけると立ち上がった。
その間、アナベルは一切身動きが取れなかった。急いで逃げるべきか、それとも残って言い訳をするべきか。最善策が判断できなかったためだ。結果的にアナベルはその場に立ち尽くすことになってしまった。
青年はこちらを見て、笑みを浮かべた。アナベルは本能的に悟る。――この男は信用できる相手じゃない。
自分の振舞いが相手にどう映るのかを理解しているタイプだ。笑顔を浮かべているのも、相手の警戒を解くためのもの。決して、アナベルに好意を抱いているわけではない。
アナベルがひどく警戒している様子を見ると、男は肩を竦めた。
「酷いなあ。そんなに警戒しなくてもいいんじゃないかな」
「……あなたは、誰ですか」
「それは本来、僕の台詞だと思うけどね。不法侵入だなんてお行儀が良くないと思わないかい? お嬢さん」
「不法侵入だなんて、誤解です。私は夜眠れなくなって、お城を散策していただけです。たまたま見つけた温室が面白そうだからちょっとお邪魔しただけで。鍵もかかっていませんでしたから、入ってもいいのかと思いまして」
「鍵がかかってなくてもね、勝手に人の部屋に入っちゃいけないって教わらなかったのかい?」
「ふふふ、残念ながら育ちが悪いんです。鍵をかけ忘れたおうちは格好の獲物なんですよ? それで何かを盗まれても悪いのは鍵をかけなかった住人です。ご存じなかったですか?」
盗んだ側が悪い、というのは規範を重んじる人々の考えだ。
法律や倫理が蔑ろにされるような場所ではそんな常識は存在しない。悪いのは盗まれるような隙を見せた側だ。
男は頷く。
「確かに鍵をかけなかった側にも非はあるね。そこは認めよう」
「ご理解が早くて何よりです」
「でも、君は考えたことはないかい?」
男は不敵な笑みを浮かべ、アナベルに近寄ってきた。その目が怪しく光る。
「その住人が鍵をかけなかったのはわざとかもしれない。――盗みを働きに来た悪者を逆にひどい目に合わせるために、相手を招き入れようとしたのかもしれないよ?」
アナベルは唾を飲み込む。
気づけば、もう男との距離は体が触れ合う程近い。逃げようにもアナベルの背は本棚に当たっている。どこにも逃げ場がない。
男は最初にアナベルが来るのを予想し、待っていたかのような発言をしていた。ならば、温室の鍵がかかっていなかったのは──この男の罠ということになる。
それなら、この男の目的はなんだ。アナベルを待ち伏せてどうするつもりだったのか。いや、相手の目的が何かなんて関係ない。大事なのはアナベルに危機が迫っているということだ。
この場を乗り切る最善策はなんだ。
大声をあげて巡回の兵士に助けを求めるべきか。力技で男をどうにかするべきか。しかし、両方ともリスクが存在する。どちらのリスクを取るべきか――即断できない。
男は左手を本棚にかける。右手でアナベルの頬、鎖骨をなぞる。男の顔が近づく。お互いの額が触れ合うほど近い。――そして。
「いや、冗談が過ぎたね。あははは、失礼失礼」
一歩後ろに下がり両手をあげると、大袈裟な笑い声があげた。男はアナベルから再び離れると、「よいしょ」とソファに腰かける。
先ほどまでの緊迫感はどこへやらだ。
一方のアナベルは突然の態度の変化に処理能力が追いついていない。とりあえず、先ほどのは男の冗談か何かだったようだ。
「うん、温室の鍵をかけなかったのはわざとだけど、君に何かしたかったわけじゃないよ。ジークハルトに温室に入る許可を貰えなかったんだろう? それなら忍び込むと踏んで、こうして毎晩君のことを待っていたんだ」
「…………はあ」
男はニコニコと笑う。
「安心したまえ。僕は君を兵士に突き出すつもりはないよ。無論、君がここに忍び込んだことも誰にも伝えない。このことは僕と君、二人だけの秘密というわけだ。若い男女の深夜の密会だなんて、妖しい艶美な響きだと思わないかい?」
「……いいえ、全く」
「それは残念だ。ああ、そうだ。お茶でも飲むかい? せっかくの客人だ。もてなさないといけないよね。いやー、僕がお茶を淹れるなんてめったにないんだから。感謝してくれていいんだよ」
「……いえ、お茶は結構です。お気持ちだけいただいておきます」
突然立ち上がり、お茶の準備を始めようとした男を右手をあげて制止する。男は「それは残念だ」と、本当に残念そうに肩を落とした。
アナベルは頭が痛くなってきた。
「それで、あなたは誰なんですか」
「僕かい?」
「あなたは私のことを知っているようですが、私はあなたのことを知りません」
「そういえば名乗ってなかったね」
男はそう言うと、ソファの上に立ち上がる。毛布をマントっぽく羽織り、ポーズをとった。
「何を隠そう。僕はエマニュエル様の一番弟子だよ」
「……ええと、一番弟子とはいったい、何の」
「それはもちろん、魔術に決まっているだろう」
アナベルは目を瞠る。男は言葉を続ける。
「はじめまして、魔術機関の魔術師殿。僕の名前は、ユーリウス。――エマニュエル様から魔術についての知識を学んだ、この国の魔術師の一人さ!」