一章:港町・ヴァルムハーフェン②
それから数日、ジークハルトは訪問の名目通り視察をきっちりと行った。
さすが南部の中心部。見る施設も聞く報告の量も今まで通ってきた駐屯地の比ではない。今までは半日程度で終わっていた軍施設の視察が、三日は必要だった。
すっかりクタクタになったアナベルは、執務室のソファに横になる。
「どーも! お疲れ様! みんな元気にやってる?」
そこにやってきたのはマックスだ。
彼はあの日から毎日のように夕方になると姿を現す。ジークハルトたちは仕事の後に幼馴染と話すのが、ヴァルムハーフェンに到着してからすっかり恒例行事となっている。
時計をチラリと見てから、ディートリヒは訊ねる。
「毎日こんな時間から来てるけど、……マックスお前仕事は?」
「あー! 疑ってんのか? 失礼だなあ。ちゃんとやってるよ。これでも俺は仕事に対しては真面目なんだぜ」
「……士官教育のとき、よく寝て怒られてたじゃないか」
「あのときは本当に助かったぜ! ディーのノートがなきゃ、俺落第してたからな」
彼の悪い癖は話がよく脱線することだろう。疑いの眼差しを向けてくる友人にマックスは返す。
「本当だって。アーちゃん将軍が気を遣ってくれて、お前たちが滞在中は早上がりしていいって許可もらってんの。今日だってしっかり街の見回りをして、街の皆の困りごとを解決してきたの! もう、色んな人に頼りにされて困っちゃうぜ。――ってなわけで、ほら、お土産。街の菓子屋で聖誕祭に向けてシュトーレンの試作をしてるんだけど、お礼にってわけてもらってきたんだよ。皆で食おうぜ」
「シュトーレン!」
彼が出してきた袋に一番に食いついたのはアナベルだ。マックスは嬉しそうに「ああ」と笑う。
「シュトーレンは色んな店が出してるし、家でも作れるけど……俺はやっぱりこの店の奴が一番好きだな。ドライフルーツもナッツもふんだんに使われてるし、何よりシナモンの香りが最高だ」
「き、聞くだけでよだれがこぼれ落ちそうです!」
「だろ? 本当は十二ノ月の初めから聖誕祭にかけて少しずつ食っていくのが醍醐味なんだけど、……皆でわいわい食うっていうのもオツだろ」
マックスは袋から取り出したシュトーレンを自らナイフで切っていく。ヴィクトリアがお茶を用意し、あっという間に執務室は休憩時間のような様相となる。
「ほ、本当に美味しいですね、コレ! お土産に買っていきたいぐらいです!」
「ちっ、ちっ、ちっ! やっぱりまだまだ素人だな、お嬢ちゃん。コレを売ってる店は『パシュケ』って言うんだけど、姉妹店――ってか、本店か。それが王都にあるんだぜ。コレと同じ味が王都でも楽しめるってんだ。最高だろ」
「それは知りませんでした! 情報通ですねえ、マックス尉官は!」
「はは、もっと褒めてくれてもいいんだぜ」
ジークハルトの親友を自称する彼は、幼少期に引き合わされた昔からの友人の一人だそうだ。元帥の幼馴染。その言葉でどうしても思い出してしまうのは――ユストゥス暗殺を目論んでいたエーリクだ。
戴冠式に関連するあの一連の騒動はアナベルにとっても苦い思い出の一つだ。そのため、マックスに一切非はなくとも、最初アナベルは彼のことを警戒してしまった。
だが、その警戒心もほんの一日ですっかり薄れ去った。彼が毎日のように手土産――つまりは食べ物だ――を持参するようになったからだ。彼は手土産に関する小話をしては盛り上げてくれ、すっかりアナベルは彼に餌付けされていた。
一通り話で盛り上がり――ほとんどマックスが喋り倒し、アナベルが合いの手を入れていただけだが――ひと段落つくと、彼は話を切り出した。
「でさあ、明日の待ち合わせなんだけど昼過ぎでいいわけ? 俺は朝から観光案内でも全然かまわねえけど」
明日は一日非番だ。そのため、マックスはヴァルムハーフェン観光を提案してくれた。アナベルはその申し出を喜んで受け入れ、明日はそのつもりでいたのだが――。
「すまない。午前中はアナベルを連れて出かけなければならない」
そう答えたのはジークハルトだ。その話も既に聞いている。アナベルは口を開く。
「なんだったら、私以外で先に始めちゃっててもいいですよ。他の三人は午前中から空いてるんでしょう? 私は途中参加でもかまいません」
出かけるのはアナベルとジークハルトの二人なのに、『私以外』と言ったのにはもちろん理由がある。今回の観光に元帥は不参加なのだ。
ヴァルムハーフェンはスエーヴィルからは遠い。彼の地の刺客を注意する必要はそれほど高くない。
しかし、ここはここで異国に近い。イゾラとは友好的な関係を築いており、王族のジークハルトが狙われる――ということはあまり考えられないだろう。それでも、休みの日に護衛をほとんどつけずに街を出歩けるほど、元帥の命は軽くない。
(……王族ってのも面倒くさいですね)
以前、ジークハルトは王位継承権を破棄したことで、自身はもう元帥でしかないと言った。だからこそ、今回の視察が決行できた。それでも、一を完全なゼロにすることはできないのだ。
もし、本当に彼がただの軍の最高責任者でしかないのなら休日に街を出歩くぐらい許されるはずだ。実際、将軍であるテオバルトや二クラスは街に屋敷があり、日常生活は王都で送っている。ジークハルトの立場が、彼らのように完全に自由になることはない。
思い返せば王都でも巡回などの仕事以外ではジークハルトが王城を出ることはほとんどなかった。休みの日もそうだ。アナベルが街に遊びに行っている間もジークハルトは王城の中で過ごしていた。そのときは温室の手入れや剣の自主訓練など彼にも王城内で色々やることはあったし、外に出かけたいと思わないだけだろうと考えていたが――。
(……そういった自由がジークになかっただけなんですよね)
そういった訳で、今回のマックスに案内してもらうのはアナベルとヴィクトリア、リーゼロッテにディートリヒの四人だ。そして、ジークハルトはジークハルトでどうしても訪れたい場所があるらしい。
そのため、アナベルは午前中ジークハルトの護衛として付き添い、午後からマックスたちと観光することになっている。しかし、アナベルとしては先に他の四人で観光を始めてもらってもかまわない。
しかし、マックスは快活に笑う。
「そういうことなら待ってるよ。明日のうちに全部回らないといけないわけじゃねーし。アナベルにもヴァルムハーフェンのいいとこ、いっぱい見て行ってほしいしな」
ディートリヒもマックスの意見と同じなのか、頷いている。アナベルも案内に最初から参加できるならそちらのほうがいい。ここは彼らの好意に甘えることにした。