番外編:生誕の祝宴⑧
こんな時間に人が出歩いているわけがない。その思い込みから、最初その人影を見たとき幻か、あるいは幽霊だと思った。薄暗い廊下に長い裾を着た人物が身動ぎもせず立ち尽くしていれば、そんなふうに思ってしまっても当然だった。
しかし、それは幻でもなければ、幽霊でもなかった。
黒髪の青年は見間違いようもなく、ユストゥス――国王その人だ。彼は考え事をしているのか、難しい顔をしたまま、窓の外を見つめている。ふざけた笑顔を浮かべている印象が強いため、一瞬、別人かと思った。
――向こうはまだこちらに気づいていない。身を隠すか、別の道を探すべきか。
いや、そもそも、あの憎たらしい男は忙しいという理由でアナベルの招待を断った。それなのに、執務室でも自室でもなく、こんな寒い場所でぼーっとしているとは何事か。文句の一つや二つ、三つ――いや十ぐらいはつけてやりたい。
しかし、こちらから喧嘩をふっかけたところで言い負かされる気がする。そんなことを悩んでしまった結果、あちらが先に動く。
気がすんだのか、彼は窓から視線を外す。歩き出そうとし、その進行方向にいたアナベルと視線が合った。彼は一瞬驚き、――顔をゆがめた。
「…………うわあぁ」
「なんですか! その反応は! 失礼な人ですね!!」
ただそこにいただけなのに、心底不快そうな反応をするなんて無礼だ。
「なんでこんなところにいるんですか。国王陛下にあらせられましては大変ご多忙とお伺いしておりましたが!」
「……ただの息抜きだよ。すぐに戻るさ」
ついでとばかりに皮肉をぶつけたが、応えた様子はない。涼しい顔で返される。
「そんな君こそ、こんなところに何しに来たんだい? まだ祝宴の最中だろう? 祝いの席の主役がいるべきなのはきらびやかな大広間じゃないかい」
「ジークの様子を見に行こうとしているんです。突発的な仕事が入ってしまったそうで、祝宴を欠席してるんです」
「そうか。それは可哀想にね」
「そうです。そうなんです!」
共感してもらえたことで、気が大きくなる。
「せっかくのご馳走も食べれなくて可哀想ですよね! なので、ケーキだけでもおすそ分けに行こうと思いまして、こうして私自ら出向いているわけです」
しかし、今度は共感も賛同もなかった。少し間を開けて、ユストゥスは淡々と言う。
「可哀想にと言ったのは君にだよ、シルフィード。ジークハルトが不在の祝宴なんてつまらないだろう」
図星をつかれ、アナベルは言葉を失った。
それは祝宴の間、忘れようとしていた感情だった。だって、今回の祝宴は色んな人が協力してくれて成り立っている。招待状を渡した皆も喜んで参加してくれたし、知らない人もお祝いに来てくれた。たった一人、ジークハルトがいないだけでつまらないと思うのは――多分、良くないことだ。
「そんなことないですよ」
せめて去勢を張ってみる。今度は何を言われるかと身構えていると、国王は「まあ、どうでもいいことか」と呟いた。アナベルは怪訝に思う。
――本当にどうしたのだろう。
今日の国王の様子は明らかにおかしい。いつものような飄々とした雰囲気でもなければ、先日のように相手にしていないという態度でもない。少し考えて、訊ねてみる。
「もしかして、怒ってます?」
「……なんでそう思うんだい?」
訊ね返されても、自分でも理由はわからない。
「なんとなくです。あの、秘密はちゃんと守ってますよ」
もし、本当にユストゥスが怒っていて、原因が自分なのであれば思いつくのはそれぐらいだ。
礼拝堂での地下の出来事。あの秘密はちゃんと守っている。国王のことが苦手でも、彼の秘密を守ろうと思うぐらいにはわきまえているつもりだ。
「そこは疑っていないさ」
「じゃあ、どうして」
彼は答えない。何か探るようにこちらを見ている。ここで視線を逸らしたら負けなような気がして、アナベルもユストゥスを見つめる。
長い、長い沈黙が流れた。先ほどまでいた大広間の喧騒もここまでは届かない。遠くの木々のざわめきや、照明の火の燃える音がかすかに聞こえるだけ。
先に降参したのは――。
「分かった。ここは僕が折れよう」
ユストゥスだった。彼はどこか諦めたように力なく言うと、いつもの胡散臭い笑みを顔に張りつける。突然の変化にアナベルも困惑する。だが。
「僕は寒いのが嫌いなんだ。こんな薄暗い、寒い場所にいたら機嫌も悪くなるよ」
その答えに戸惑いより、圧倒的に怒りが勝った。
「――だったら、さっさと暖房の効いた暖かいお部屋に戻ればいいでしょう!」
これでも、一応、少なからず、多少は、様子のおかしい彼のことを心配しての問いかけだったのに。気を遣おうと思っていたのに。なのに、そんなくだらない自業自得な理由を言われたら激怒してしかるべきだ。
「言われなくてそうするよ。邪魔をしたのは君じゃないか」
「そうですね。国王陛下の貴重なお時間を奪ってしまい、大変申し訳ありませんでした。心よりお詫び申しあげます」
早口で謝罪をし、頭を下げた。それから早足でユストゥスの前を通り過ぎる。
「じゃあ、私急いでますので」
「待ちたまえ」
呼び止められ、怒りが頂点に達する。アナベルは振り返り、相手をにらみつけた。
「なんですか! あなただって忙しいんでしょう!」
「ジークハルトは仕事中なんだろう。その格好で行って会えると思っているのかい?」
「――う゛」
痛いところをつかれ、アナベルは黙りこんだ。そこは考えないようにしていた問題だ。
「今、ジークハルトの執務室には誰がいる?」
「……多分、二クラス将軍が。テオバルト将軍が二クラス将軍に任せてきたということを言っていましたので」
ユストゥスは何事もなかったかのように言う。
「特別だ。二クラスを僕の部屋に呼び出してあげよう。その間にジークハルトに会うといい」
「――え」
「他に警備の兵がいても、ジークハルトがなんとかしてくれるだろう。君たちがゆっくり話をして、ケーキを食べるぐらいの時間は僕が引き留めておいてあげよう」
それは願ってもない言葉だった。アナベルではあの融通のゆの字もない将軍をどうにかするのは不可能だ。しかし、疑問も残る。
「何故ですか? そんなことしてもあなたにメリットはありませんよ」
「……これでも、健気な性質でね」
何故かユストゥスはそっぽを向く。
「愛する相手が幸せな時間を過ごせる。そんなひと時を用意できるならなんだってしようと思う。そんな男だよ、僕は」
「はあ」
そういえば、彼は元々可愛い甥っ子のためにありとあらゆる手段を使って『四大』をこの国に呼び寄せようと画策していたことを思い出す。仕事を中断できることがジークハルトにとって幸せな時間かは甚だ疑問だが、アナベルに協力してくれるのは有難いことこの上ない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
「執務室を訪れるのは二クラスがいなくなってからにしたまえ。それまでは近くで隠れておきなさい」
「もちろんです」
鍵のかかっていない部屋か、廊下や階段の影に隠れておこう。どこがいいだろう、と考えているとくしゃみが出た。温かい大広間はともかく、寒い廊下に長時間いて体が冷えてしまったらしい。慌てて鼻をこする。鼻水は出ていないようで安心する。
そのとき、何かが肩に乗った。見るとストールの上から上衣がかけられている。驚いて一枚薄着になったユストゥスを見る。
「寒いの、嫌いなんじゃなかったですか」
「これから暖房の効いた暖かい部屋に戻るから平気さ。じゃあね」
そう言って、彼は元々アナベルがやってきた方向へ歩いていく。呼び止めようと思って、まだ一度もきちんと彼の名前を呼んだことがなかったことを思い出す。
(元々『あなた』としか呼んでませんでした)
ユストゥス陛下。ユストゥス国王。ユストゥス様。名前を呼ぶのはどうにもしっくりせず、結局、皮肉も何もこめず、先ほどと同じように呼ぶ。
「国王陛下、ありがとうございました」
彼は振り返ることなく、ひらひらと軽く手を振ってくれた。