三章:渓谷の村④
「あなた達は昔の信仰について聞いたことがある?」
当然、アナベルが知るわけない。助けを求めるように隣へ視線を向ける。沈着さを崩さず、ジークハルトが答えた。
「ああ。地霊信仰のことだろう」
(チレイシンコウ)
その言葉を脳内で繰り返す。全く心当たりのない。
「ええ。よくご存じね。私もこの村に来るまで聞いたこともなかったのに」
巡礼者の博識ぶりに、夫人も驚いた様子だ。何度も瞬きを繰り返す。
どうやら二人は理解し合っているようだが、アナベルは違う。このままでは置いてきぼりにされてしまう。
テーブルの下で、慌ててジークハルトの裾を引いた。彼はチラリとこちらを見る。
「せ、説明を!」
「――我々が信仰している国教は初代国王の時代に広まったものだ。それ以前には別の宗教があった」
『そもそも、この国の初代国王であったアダムは天から神が遣わした存在だと云われている。彼はある日突然民の前に現れ、まだたくさんの小国や集落でしかなかったこの地を見事にまとめあげた』
戴冠式の騒動の際、礼拝堂の地下で国王はそう語った。
異邦人であるアダムがこの地の王となるためにその話が作られたと。その神は王族の存在に正当性を持たせるために持ち込まれた存在だ。それ以前に別の宗教が信じられていてもおかしくはない。
「それが地霊信仰。土地に固有の神が宿り、守護されているとする考え方だ。私もそれくらいしか知識はない」
「その思想が、今もこの村で信じられているってことですか?」
マーヤは小さく頷く。アナベルは困惑したまま、思ったことをそのまま口にする。
「じゃあ、この村は五百年もの間、ずーっと昔の信仰を守り続けてるってことですか?」
「そうなるな」
ジークハルトは淡々と答える。思わず、彼に掴みかかる。
「な、なんでそんなに冷静なんですか! 五百年ですよ! 五百年! この村に住んでいる曽曽曽曽曽曽曽曽――いや、もう正確には分かんないですけど! とにかく、すっごいご先祖様の時代の話じゃないですか! この国全体がそういう考えならともかく! この村だけ! なんだかよく分からないけど、ヤバくないですか!?」
周囲とは異なる思想を何世代にも渡り、遺し続ける。具体的に表現は出来ないが、それがとんでもないことだとは直感的に理解出来る。
「昔、魔術機関で読んだことがあります! 独自の風習を信じ続けた結果、訪問者を次々と吊るし首にしていったという話を! どっかの国のどっかの層の間で流行っていたという物語集に載ってました!!」
「…………なんでそんなろくでもない本を読んでいるんだ」
「当然面白そうだったからです!」
すごく冷たい目で見られているのは気のせいだろうか。ジークハルトは一度首を振り、「そういう話をしたいんじゃない」と本題に戻す。
「そういったカルト的集団は確かに危険性があるだろうが、地霊信仰自体にはそういった側面はない。レルヒェ村の信仰が過激的なものならとっくに問題が起きているはずだ」
彼はマーヤに同意を求めるように視線を送る。夫人は萎縮したようだったが、「ええ」と頷いた。
「皆が信じているのはそんな怪しいものではないよ。村の中でも熱心な人もいれば、そうでもない人もいる。……ただ、風習を守りたいと強く思っている人たちにとっては、国教を信じる人は警戒するべき相手なのよ」
「だから、エッダちゃんは忠告してくれたんですね」
偶々とはいえ、巡礼者を名乗ったのは失敗だったかもしれない。怪しまれないようにと身分を偽ったが、この村では逆に敵意を向けられやすい対象となってしまった。
「時期もあまりよくなかったわね」
曖昧に微笑んでから、マーヤはこちらを交互に見た。それから意を決したかのように口を開く。それはどこか縋るような声色だった。
「ねえ、ジークさん。アナベルさん。あなた達がこの村に訪れたのは偶然道に迷って、よね?」
ぎくり、とした。一瞬怯んでしまったものの、表情には出ていないことを祈る。
内心動揺するアナベルと違い、ジークハルトは動じる様子はない。
「……どうして、そんなことを訊ねる」
「昨日、軍の方と一緒にジェカの女の子が村にやってきたの。そのことで皆すごく気を張っているみたい」
彼女はぎゅっと両手を握りしめる。
「ごめんなさいね。疑いたくはないのだけれど――」
「このタイミングでやってきた我々を怪しむのは当然でしょう」
ジークハルトは夫人の疑心を受け止める。そして。
「ご指摘のとおりです。私も彼女も軍の人間だ。ジェカの娘――ミルシュカに要請されて、この村にやってきた」
マーヤが息を呑むのと、アナベルが机を叩くのは同時だった。
「ジーク!」
「夫人。あなたのことを信じて、お訊ねしたい。本物のエッダはどこにいるんですか」
こちらの非難を無視し、ジークハルトはマーヤを見つめる。
「私たちはミルシュカとエッダを引き合わせたい。ただ、それだけだ。この村の事情に深く立ち入るつもりはない。このことを他言するつもりもない。本物のエッダにさえ会わせてくれればそれでいいんだ」
アナベルは怪訝に思う。彼の言い回しが暗に先ほど会ったエッダを偽物だと断じていたからだ。
この家に案内してくれたエッダがどちらのエッダなのか、アナベルには判別がつかない。まだ情報が出そろってないからだ。それにジークハルトは村に到着する前、ミルシュカが言うところの本物のエッダのほうがが偽物である可能性も口にしていた。それにも関わらず、どうして先ほどのエッダを偽物と断言できたのかがアナベルには分からなかった。
途端にマーヤの表情が強張るのが分かった。エッダのお役目について聞いたとき以上に狼狽している。
「エッダなら、さっき会ったでしょう?」
そう返す声は裏返っている。ジークハルトは冷静に言葉を返す。
「嘘をつかなくてもいい。彼女はご主人の妹君だろう? 村長の孫娘であるエッダとは別人だ」
(――さっきの人の妹?)
そういえば、マーヤは義妹の存在を口にしていたことを思い出す。ジークハルトが言い切った言葉に、今度は反論はなかった。マーヤは項垂れ、沈痛な表情を浮かべている。
「教えてほしい。どうして、ご主人の妹君がエッダの振りをしているんだ」
問いかけにも、彼女はしばらく答えなかった。それでも、これ以上追及を逃れるのが難しいと感じたのか、あるいは別の理由か――重たい口を開いた。
「…………エッダと村を守るため。そう、言われたわ」
そして、ようやくアナベルはこの村で何が起きたのかを知ることになったのだ。
◆
レルヒェ村は閉鎖的な村だ。婚姻は村の中で繰り返されている。マーヤの前に外から嫁いできた人は二世代ほど遡らないといない。外へ出ていく者も数十年に一人いるかいないかだ。
村の誰もが顔見知りで、家族当然の仲。港町出身のマーヤを良く思わない人も多い。そのため、彼女は家を出ることもほとんどない。家事や内職に追われ、唯一話し相手となるのは夫と年の離れた義妹の二人だけだった。
ディルクの妹の名をテアと言う。
彼女は十歳で両親を失った。唯一の肉親はディルクだが、彼はテアが物心ついたばかりの頃に村を出て行ってしまっている。一緒に暮らした記憶はほとんどなかったはずだ。そのうえ、半ば押しかけ女房のようにマーヤもやってきた。
彼女にとってはどちらも家族と言えるかどうか怪しい相手。それでも、彼女は二人を家族として受け入れ、幼い頃から家事の手伝いを率先してくれる。そんな大人びた少女だった。
村から一度出て行ったディルクと余所者であるマーヤを身内に持ち、彼女も村の中で肩身の狭い思いをしたこともあるだろう。
しかし、村で生まれ育ったテアには友人たちがいた。家の仕事が落ち着くと、よく彼女は村の中心部へ遊びに行っていた。
そして、日々の出来事を口数少ないながらマーヤに教えてくれる。彼女の口からよく上るのはエッダの名だった。
『本当にエッダってばダメな子なのよ。みんなに言われなきゃ、ろくに動けないんだもの』
マーヤはほとんど会話をしたことのない村長の孫娘。自己主張がハッキリしているテアからしてみると、大人しく周りの大人たちの言うことをよく聞くエッダはそういう風に映っていたようだ。ただ、刺々しい言葉の割に、口調はどこか親愛に満ちたものだった。
義妹と一緒に洗濯をし、掃除をし。ディルクが帰ってきたら三人で食事をする。そんなマーヤにとって当たり前の生活が崩れたのは突然のことだった。
それは二週間ほど前のこと。突然、家に村長をはじめとする村の中心人物たちが押しかけてきた。厳しい顔をした複数人の男たちに囲まれ、マーヤは浮足立ってしまった。しかし、テアは落ち着いた態度だった。
『どうかしましたか?』
『緊急事態だ。村の集会場に来るんだ』
村では時折、村人全員が集まって話し合いをすることがある。テアもディルクと一緒に話し合いに出席することもあったが、重要な議題の場合は大人だけが参加するのが不文律だ。緊急事態にテアが呼ばれたことはない。
『分かりました。――義姉さん、ちょっと出かけてくるわ』
成人していてもマーヤは集まりには参加が出来ない。余所者だからだ。どこか違和感を覚えながらも、マーヤは義妹が大人たちと一緒に家を出ていくのを見送るしか出来なかった。
その日、ディルクとテアが帰ってきたのは日が沈んで大分経ってからだった。角灯で夜道を照らしながら戻ってきた二人はこう告げた。
『エッダが地霊を怒らせてしまった。彼女を守るためには、身代わりを立てる必要がある。その代役にテアが選ばれた』