七章:新王の即位⑥
自身の執務室に戻ると、出たときと同じように副官と護衛の二人の姿があった。
「おかえりなさい」
ソファに座り、本を読んでいたアナベルが顔をあげる。手に持っているのは母が残した魔術書の一つだ。
カイへの魔術講義を行うため、戴冠式後からアナベルはよく魔術書とにらめっこしている。大半が幼少期に習ったことだろうに、「こんなこと習いましたっけ」と首を傾げている姿をよく見るようになった。
「ああ。戻った」
ジークハルトは短く返事を返すと、自身の椅子に座る。ディートリヒが小声で訊ねてくる。
「どうだった?」
「本人の了解は得られた。午後の会議でテオバルトたちにも話さないといけないな」
もっとも、他の将軍たちも新しい東部に赴任するのはアロイスと予想をたてているだろう。特に今回の人事で波風が立つことはないだろう。
それより問題はヘルマンたちの処遇だろう。人の良い将軍は部下にも慕われていた。温情を望む声も多いだろう。しかし、法に則れば、反逆罪は極刑だ。今までの功績を考え、よくて無期懲役か。――そして。
(エーリヒは極刑は免れないだろうな)
彼は毒殺の主犯格だ。その意図がなかったとしても、エーリヒはジークハルトも殺めかけた。ヘルマンほどの戦果もない。父親ほどの温情を与えることは難しいだろう。
今朝、新しく届いた報告書に目を落とす。内容はエーリクの聴取結果だ。彼は取り調べに素直に答えているという。
『謀反に加わったのは父さんの力になりたかったからだよ。止めなかったのは、俺も元帥を国王にしたいと思ってたからさ。アナベルに手をかけようとしたのは、あの子がいなくなればエルにも可能性が生まれると思ったんだ』
エーリクの行動は間違いだった。だが、ジークハルトはその思いまでを否定する気にはなれない。彼はジークハルトにとって、良い友人だった。その気持ちは今も変わらない。
「あのぉ」
仕事がひと段落し、ディートリヒが紅茶を淹れてくれた。アナベルは声をかけてきたのはそのときだ。本で口元を隠しながら近づいてきた彼女は遠慮がちに口を開く。
「ちょっと、この本のことでお伺いしたいことがあるんですけど」
「そんな難しいことは書いてないだろう。君も学校で習ったはずだ」
「いや、まあ、そうなんですけど」
ジークハルトは呆れた。魔術師の専門家である彼女にとって、初級だろうに。アナベルは眉を吊り上げながら、弁解する。
「ジ、ジークだって、知ってるでしょう!? 私、不真面目だったんですよ! 魔術の基礎知識なんて覚えてなくても、魔術は感覚で扱えるものなんです!」
確かに、アナベルは学業に熱心ではなかったというのは知っている。理論を覚えなくても、感覚で剣術や武道で強くなることが出来るように、魔術も同じなのだろう。普通は一定以上に強くなることが出来ないが、彼女にはそれを埋める才能がある。
ため息をつき、ジークハルトは紅茶のカップを執務机の遠くに追いやる。
「何が聞きたい」
まるで親に相手をしてもらえた子供のように、アナベルは顔を輝かせる。それから、執務机を回り、ジークハルトのすぐ傍に近づく。座っているジークハルトに見えやすいように少し前屈みになりながら、魔術書を開いた。
「ここなんですけど」
彼女の質問に耳を傾けながら、ジークハルトは思う。
――それでも、もう覚悟を決めた。
アナベルに一方的に守られるのはもうやめた。迷いも捨てた。逡巡は間違いを生みかねない。彼女に害を為すものから、彼女を守る。魔術が通用しない相手。地位のある相手。種類は色々あるだろう。――そして、その中にはジークハルト自身も含まれる。
自分が彼女に抱く想いは、確実にアナベルにとっては害だ。
彼女は自分のことを特別視している。そのことは間違いない。だが、明確な恋愛感情を抱いてはいないだろう。異性として意識はされているようだが、彼女の態度からは恋情は感じないのだ。どちらかというと、子供が親を慕う感覚に近いような気がする。
しかし、ジークハルトは違う。一人の女性として、彼女に好意を抱いている。純粋にこちらを慕ってくれる姿は独占欲が満たされるし、彼女が他の男性と仲良くしていれば嫉妬もする。だが、この感情はアナベルにとっては本当に毒だ。深い関係になれば、その先には彼女の死が待ち受けているかもしれないのだ。
(母上のようにはさせない)
ジークハルトはアナベルから何も奪いたくない。彼女にはずっと、笑っていてほしい。そのための覚悟は決めた。その道のりが自身にとって苦難な道でも、決して誓いを曲げない。そう決めた。
――その先で、傷つくのは自分ではないかもしれない未来に目を背けたまま。
◆
日も沈み、星が輝く夜。
その晩、ユストゥスは久しぶりに友人たちと酒を交わすことになった。
「即位、おめでとう!」
「おめでとう。ユストゥス」
新王の自室にこっそり来訪した二人は、祝辞を言葉にする。そして、三人は杯をぶつけた。
「いやあ、本当にめでたいな! 私は非常に嬉しいよ!」
「ベルノルト。喜ぶのはいいけど、あまり騒がしくしては駄目よ。私たちがここにいるのは秘密なんだから」
「ああ、そうだそうだ。すまないな、ユストゥス! ルートガー!」
「……だから、声が大きいのよ。あなたは」
諦めたように溜息をついたのはルートガー――今はルイーゼと名乗る王都の仕立屋の主人だ。普段のドレスでは目立つため、今夜は男装して王城に来てくれた。その姿は以前、彼が官僚として働いていた時代を思い出させる。
「あはははは」
ユストゥスは笑いながら、空になったベルノルトの杯に葡萄酒を注ぐ。
「いいさ、いいさ。人払いはしてるから多少騒いだって平気さ。たくさん飲んで、たくさん話そうよ。今夜は無礼講なんだからさ」
自身にとって、親友と呼べた男はこの国からいなくなった。それでもまだ、ユストゥスには腹を割って話せる友人と呼べる相手がいる。
ルートガーはクラウゼヴィッツ家の人間でありながら、幼い頃から仲良くしてくれた数少ない相手だ。ユストゥスたちが考えた悪戯を見つけては、諫めてくれた。ベルノルトは大人になってから親しくなった相手だが、王太弟相手にも分け隔てなく接してくれる好青年だ。多少騒がしいところが玉に瑕だが、ユストゥスはそういった部分も気に入っている。
こうして三人だけで話をするのも本当に久しぶりだ。積もり積もった話に花を咲かせる。場の盛り上がりに合わせ、三人の杯の中は減っては注がれ、減っては注がれていく。二時間も経たないうちに、すっかりベルノルトは酔いつぶれてしまった。
「もう、しょうがないわね。そんなに強くないのにいっぱい飲むんだもの」
ルートガーはソファにもたれかかって眠るベルノルトの体に毛布をかける。それから、また、自身のグラスを手に取った。
「有り難いね。それだけ、僕の即位を喜んでくれているってことだから」
彼ほど裏表なくユストゥスの即位を喜び、全身でその感情を表わしてくれる人間はそれほど多くない。
「僕は良い友人に恵まれたね」
ユストゥスは微笑んだが、ルートガーは曖昧な笑みを浮かべるだけだ。――その心情を察せないほど、彼との付き合いは短くない。
「レオンのことが気になるかい?」
途端に、ルートガーは気まずそうに俯く。顔を押さえた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。僕も思うさ。ここにアイツがいてくれればなって」
レオンがエーレハイデにいてくれたら。そしたら、ソファには彼の姿もあっただろう。四人で楽しく盛り上がれたはずだ。――いや、レオンはベルノルトのことはそんなに気に入っていた様子ではなかったので、嫌がったかもしれないが。
しかし、この場にいるのは三人だけ。もしも、なんて夢でしかない。
「世の中は本当に思い通りにはいかないものだね」
ユストゥスは呟き、グラスを見つめる。葡萄酒は深く赤い。ルートガーは不思議そうに少し首を傾げる。
「でも、あなたの思い通りに進んでいる部分もあるでしょう? この国にアナベルさんを呼び寄せられたし、アルノーくんを王太子に据えられたわ」
確かにそこはユストゥスの思い通りには進んでいる。国中を飛び回るベルノルトの協力を得て、秘密裏にヘルツシュプルング家に接触した。そして、当主の次男であるアルノーを王族に招き入れることを了承させた。
「僕は正しい形に戻しただけさ。元々、王族分家が三つあるのは、三つ巴の関係にさせるためだよ。ルイーゼだって、そのことは分かってるだろう?」
クラウゼヴィッツ家出身で、この国の歴史にも詳しいルートガーも分かっているはずだ。四代目国王はそれを狙って、分家を三つ作った。しかし、ヘルツシュプルング家の当主は四代目国王の意に反して、王都から離れてしまった。
ルートガーは静かに首を横に振った。
「いいえ。言葉でいうだけなら簡単に聞こえるけど、そうじゃないでしょう? これは間違いなく、あなたの功績よ」
「僕だけの功績ではないけどね。アルノーのことはベルノルトの協力がなければ為しえなかった。シルフィードのことだってそうさ。結局、彼女をここに留める理由はジークハルト自身で作り出したものだ」
ユストゥスがしたのは道筋を作ったことだけ。もちろん、自分が大したことをしていないとは謙遜でも言うつもりはないが、自分自身だけでは為しえなかったのも事実だ。驕るつもりもない。
『でも、あなたはジークを裏切ったりはしないでしょう?』
一週間ほど前、礼拝堂の地下でシルフィードと交わした会話を思い出す。