六章:騒動の終幕④
ヘルマンはまだ茫然自失としていた。迷った末に、アナベルは彼の傍にしゃがみこむ。
「あの。今回の件、エルメンガルト副官はご存じなんですか?」
心情を配慮して任務から外されていたエルメンガルト。彼女はアナベルに協力をしてくれた。ジークハルトを心配していた言動などから見ても、彼女が今回の件に関わっているようには見えなかった。
「いや。エルは何も知らないよ」
答えたのは父ではなく、兄だった。アナベルはエーリクに視線を向ける。彼は捕縛されているにも関わらず、落ち着いた態度だった。
「あの子は嘘をつけないし、何事も正々堂々とするべきだと思っているからね。協力者には出来なかった」
「……そうですか」
父と兄が謀反を企てた。それを知って、彼女はどう思うのか。もう、アナベルには彼女にしてやれることは何もないけれど、その心情を思うとやるせなかった。
聞きたかったのはそれだけだ。立ち上がろうとしたアナベルの耳に、エーリクの声が響いた。
「何で君だったのかな」
それは質問、というよりは独白に近かった。アナベルは首を傾げる。
「はい?」
「昔、ジークハルト様とエルはあんなに仲が良かったのに。何で、ジークハルト様は君を選んだんだろう」
――別にジークは私を選んでなんていない。
そう言いたかったが、それを堪える。
彼はアナベルのほうを見ている。しかし、その琥珀色の瞳はアナベルを映しているようには見えない。虚空を、いや、過去を見ているのかもしれない。
「お互い憎からず想っていると、そう思ってたんだ。なのに、ジークハルト様は俺たちごとエルを遠ざけて。……いつかエルの想いは報われると思っていたのに」
エーリクの言葉に、数時間前のエルメンガルトの言葉を思い出す。
幼い頃から王子をよく知る兄妹。彼らは本当にジークハルトと親しかったのだろう。きっと、彼の助けとなれたはずなのに。
アナベルは自身の服をぎゅっと握りしめる。
「多分、私とあなた達の違いはそんなにないんだと思いますよ」
気持ちはそれほど違わない。ただ、違うことがあるとすれば――。
『なら、一体、アイツのことを誰が守り、救ってくれるというんだ』
思い返されるのは離宮で国王エドゥアルトと交わした言葉だ。
『……でも、あの人は強いじゃないですか』
『それは剣の腕の話か? それとも精神的な話か?』
ジークハルトは助けを求めていない。そして、アナベルも彼に助けはいらないと思っていた。その考えを覆したのは病に臥せりながらも、意志の強さを感じさせる彼の父親の言葉だった。
『アイツは強い。剣の腕だけを言えばな。だが、人はそもそも一人じゃ生きられない生き物だ。周囲と助け合い、協力し合って生きている。ジークは周囲を助けることばかりを優先し、周囲に助けを求めることを忘れているんだよ。アイツにも助けが必要だっていうことを理解している人間は本当に一握りだ。精神的にはアイツはまだまだ未熟だ。弱さだってある。この世に完璧な人間なんていない』
エドゥアルトに言われて、アナベルはようやくジークハルトも普通の人間であることに思い至った。いくら周囲にもてはやされても、誰よりも強くても、その内面も同じとは限らない。――そのことは、『七百年に一度の逸材』『魔術師の祖の再来』と大層な呼び名をつけられたアナベルがよく分かっている。
だから、アナベルはエーレハイデにいることを決めた。ジークハルトの傍で、彼の助けになろうと決めた。だが、エーリクたちはどうなのだろう。
ヘルマンもエルメンガルトも、どこかジークハルトを妄信していたように思える。清廉潔白で謹厳実直な王子。ヘルマンは彼が王位に就くのが正しいと信じていた。――主君と仰ぐ人物が本当に何を望んでいるのかも分からないまま。
『誰もがアイツを素晴らしい王子だと褒める。讃える。『ジークさえいればきっと自分たちを守ってくれる。救ってくれる』と信じてる。誰もがアイツを頼りにする』
きっと、オーベルシュタット家の人々はそう信じていた一人だったのだろう。表面上の虚像を信じ、本質にまで気づけなかった。それは悪いこととは言わない。きっと、アナベルもエドゥアルトに言われなければ何も分からないままだっただろうから。
でも、アナベルは知ってしまった。『四大』を呼び寄せられる可能性のある調査員という立場故に、多くの情報を得ることが出来た。――きっと、違うことがあるとすればそれだけだ。
アナベルは目を伏せる。
「ただ、私はジークを妄信すべき対象として見るのはあの人を苦しめるだけだと……そのことに気づかせてもらっただけです」
もし、同じように彼らにもそのことを気づける機会があれば、今、アナベルと同じ場所に立っているのはエルメンガルトやエーリクだったかもしれない。でも、そのもしもはもう起こらない。だって、オーベルシュタット家は過ちを犯してしまったのだから。
「……そっか」
そう呟いた声音には諦念が感じられた。アナベルはエーリクを見ることが出来なかった。
「ヘルマンたちを投獄する。牢へ連れていけ」
ニクラスの指示で、反逆者たちは兵士たちに連れていかれる。ヘルマンにはテオバルトが、エーリクには別の士官が監視に就く。移送の邪魔だろうと、彼らから離れようと立ち上がる。
「アナベル」
しかし、声をかけられ、アナベルは足を止めた。戸惑いながらも相手を見る。名を呼んだのはエーリクだ。彼はどこか疲れたような顔をしていた。
「……俺が用意した毒薬の入手経路のことで、伝えておきたいことがあるんだ」
アナベルは監視の士官と顔を合わせる。それから、二人に近づいた。
「なんですか?」
その辺りの事情は事情聴取の際に言ってくれればいいのにとも思うが、アナベルにとっても気になる話だ。少し迷いを見せながらも、エーリクは口を開いた。
「魔術機関の『四大』の称号はシルフィード、サラマンダー、ウンディーネ、ノームで間違いない?」
「ええ、そうですよ。それが?」
「俺に毒薬を売ってくれた商人は『エーレハイデの王宮魔術師は『四大』の誰か』というのを訊ねてきたんだ。そのときにこの四つの名前を口にした」
「それで?」
アナベルは首を傾げる。エーリクが何を言いたいかが分からない。彼は呆れたように息を吐いてから、こちらにも分かるような言葉を選んでくれた。
「俺は彼女の話を聞くまで、『四大』の称号名をシルフィード以外知らなかった」
――その言葉でようやく気づいた。
そうだ。ここは東方。西方では『四大』の称号名は有名だ。知っている者も多い。だが、東方では知っている人間は限られる。アナベルが王宮魔術師になったことで、シルフィードの名は知る者も多いだろうが、それ以外の称号は別だ。
呆然とエーリクを見つめる。彼はどこか楽しそうに笑う。
「彼女は妙に君のことを気にしていたよ。どんな人物なのか。年齢。性別。性格。……もっとも、俺も君のことは全然知らなかったから。若い女の子ってことぐらいしか答えられなかったんだけど。なんで、あの人は君のことを気にしていたんだろうね」
そんなの聞かれても分からない。いや、エーリクも答えを聞きたくて訊ねたわけではないだろう。
「そ、その商人の特徴は――どんな人だったんですか?」
上ずった声が出てしまう。焦るアナベルを焦らすように、エーリクはゆっくりと答えた。
「黒髪の、妙齢の女性だよ。右目を眼帯で覆っていたね」
眼帯とは随分と特徴的な外見だ。ただ、アナベルには心当たりはない。他の人間に聞けば、何か情報を得られるかもしれない。
アナベルは考える。
東方で『四大』に――魔術機関の知識を持つ人間。商人であれば、西方と東方を行き来していて偶然知っていたという可能性もある。だが、脳裏をかすめるのは半年前の出来事だ。
――スエーヴィルは西方の魔術師を仲間に引き入れた。
結局、それらしき魔術師は死んだ。だが、あの男が魔術機関の情報をスエーヴィルにもたらしていてもおかしくない。
その商人は一体何者なのか。スエーヴィルと関係があるのか。突然もたらされた情報を基に必死に考える。
考え事に夢中になっていたアナベルはその後起きた出来事にすぐに反応が出来なかった。
エーリクがアナベルを引き留めた理由は、眼帯の女商人の情報を伝えるためではなかった。彼はアナベルの意識がこちらから外れたのを確認すると――隙をついて自身の隣にいた士官に肘打ちを食らわせた。縄で拘束されていた両手は隠し持っていた短剣で切られていた。
彼はそのまま、アナベルの胸めがけて短剣を突き刺す。距離は数歩。狙うのは心臓。しかし、その刃が標的に届くことはなかった。
エーリクが数歩の距離を詰める前に、飛び込んできた影があった。その人物は迷いなく、武器を持った右腕に向かって、剣を振り上げた。
つんざくような悲鳴が響く。アナベルが認識出来たのはそこからだ。
近くに二人の人物が倒れていた。士官は攻撃された顔を押さえながら起き上がり、エーリクは血の流れる右腕を押さえながら呻いている。出血量を見る限り、かなりの深手だ。そして正面に見えるのは濃紺色の軍服だ。アナベルは呆然と目の前の人物を見上げた。
「ジーク」
そこにいたのは先にどこかへ行ったと思ったジークハルトだった。彼は刃についた血を払い、近くの兵士に指示を出す。
「軍医を呼んで手当をしてやれ」
しかし、ジークハルト自身はエーリクの手当をしようとはしなかった。複数の兵士に取り押さえられ、止血をされる友人をただ見下ろす。
「――馬鹿だな」
どこか失望したように、憐れむように呟く。それから、ジークハルトはアナベルの手を掴むと礼拝堂前を後にした。