五章:礼拝堂と真実と秘密⑧
――考えてみれば、ジークハルトは昔からそうだった。
今までろくに会話をしたこともない。時折、機会があって話すことがあっても、「最近どうか」という社交辞令の質問しかしなかった。それにも関わらず、いつも甥は嬉しそうに近況を教えてくれるのだ。叔父が彼の話に興味がなく、聞き流しているとも知らずに。
「……不満じゃないのか。僕が王太弟になって」
「いいえ」
ジークハルトは首を横に振る。
「おじうえのおはなしは、みなからきいています。むずかしいもんだいもとけて、ほんもよめて、とてもあたまがいいんだって。みなのはなしにみみをかたむけるおやさしいかただと。おじうえならすばらしいこくおうになれます」
自分でいうのもなんだが、確かにユストゥスは頭が良い。周囲と軋轢を生まないような処世術も心得ている。でも、それだけだ。自身では到底王の器ではないと思う。それなのに、ジークハルトはユストゥスが素晴らしい国王になると信じている。
「……そう」
甥の純粋さに耐え切れず、ユストゥスはその場を逃げ出したくなった。背を向けたユストゥスにジークハルトが「あの」と声をかけてきた。
「おじうえはこれから、ちちうえのおそばでべんきょうをされるんですよね?」
今まで、ユストゥスはテレージアが個人的に雇った教師の下で帝王学を施されてきた。しかし、正式に王太弟になることが決まった今、エドゥアルトの下で勉強をしていくことになる。つけられる家庭教師も、今までジークハルトの家庭教師だった人物だ。
「そうだけど、それがなに?」
質問の意図が分からない。訊ね返すと、ジークハルトはどこか恥ずかしそうに口を開いた。
「ぼくもときどき、ちちうえのおそばにいくことがあるんです。そのときにおはなしをしにいってもいいですか?」
無邪気な問いかけに、ユストゥスは言葉を返すことが出来なかった。
「おじうえ?」
険しい表情で黙る叔父の様子を窺うように、ジークハルトがこちらを見上げている。
ユストゥスには理解できなかった。目の前の生き物が自分と同じだと思えなかった。
ジークハルトにとって、ユストゥスは敵対する相手だ。彼の特異体質が発覚する前から、母は息子を王にしようと画策していた。政敵だ。なのに、まるで彼は純粋に叔父を慕っているように見える。
――いや、実際に慕ってくれているのだろう。
彼にはユストゥスが尊敬できる叔父に見えるのだろう。頭がよく、周囲の言葉に耳を傾ける、出来た人物だ。だから、近況を聞かれたときには嬉しそうに話し、今も交流をしたいと申し出てきた。――このとき、まだ、ユストゥスには純粋にジークハルトの好意を受け止めることが出来なかった。
「…………好きにすればいい」
だから、それだけを言い残し、ユストゥスは中庭を後にした。後ろから「ありがとうございます」とジークハルトの嬉しそうな声が聞こえた。
◆
「それからだね。兄上の下で勉強を始めて、その合間にジークハルトと話すようになって。その縁で義姉上とも親しくなって……魔術も教えてもらえることになった。母上はあんまり良い顔はしなかったけど、こちらの方が立場が上なんだからというのを伝えたら、何も言わなくなったよ。勝者の余裕ってやつだね。まあ、文句を言わせないように、そういう話をしたんだけど」
「……そうですか」
アナベルは返す言葉に困ってしまう。それでも、ユストゥスの気持ちは分かった。
自分もジークハルトの真っすぐな想いに絆された。おそらく、ユストゥスも同じだったのだろう。かつて、彼が『ジークハルトは老若男女問わず人を誑かすのが上手い』と言っていたのを思い出す。王太弟も誑かされた一人だったのだろう。
「そのうち僕にとってあの子はすっかり弟みたいになってた。叔父上と呼ばれるのも他人行儀に思えてね、僕から兄と呼んでほしいと頼んだんだ。そうたら、そのとおりに呼んでくれるようになった」
そうして、二人は今のような仲の良い関係を築いたわけか。ジークハルトとユストゥスの不可思議な関係の背景を知って、アナベルは少しだけ納得した気分になる。
ユストゥスは遠くを見つめる。
「思い返してみると、僕は愛に飢えてたんだと思う」
「あ、愛?」
「そう。母上は僕のことを愛してくれていたけど、それはあくまで自身に利益を生み出す存在としてだ。僕が頭の悪い子供だったら、きっと捨てられてたと思う。でも、ジークハルトたちは、僕がどんな馬鹿なことを言っても見捨てなかった。特に義姉上には悪いことをしたよ。母上の代わりに、あの人に愛情を試すような行動をしたりもしたんだ。でも、義姉上はそんな僕を受け入れてくれた。……あの人も、僕にジークハルトの良き兄であることを望んでいた。だから、僕は決めたんだ。僕は僕を愛してくれた彼らのために良い王になろうって」
そうして、彼は王太弟という立場を受け入れた。
「……全部、ジークのためだったんですね」
そもそも、ユストゥスの行動原理の中心にジークハルトがいる。――ジークハルトが望まないことをユストゥスがするわけがないのだ。なら、やはり、ヘルマンの心配は杞憂でしかなかったのだ。
ユストゥスは胡散臭い笑みを顔に浮かべる。
「まあ、そんなわけで僕はあの子の想いに応えるためにも立派な国王になろうと思ったわけだよ! 心打たれる兄弟愛のお話だと思わないかい? 正確には叔父と甥なんだけど。あははは」
「はあ」
先ほどまで真面目に話していたのに、そんな風に茶化されると、つい冷たい視線を向けたくなる。ふと、そもそもの自分の質問を思い出す。
「なら、国庫の横流しって」
「そんなのするわけないだろう」
今度は即答してくれた。ユストゥスは大げさにため息をつく。
「僕の悩みの種の一つに母上の扱いがあってね。王宮にいられると邪魔で仕方なかったから、うまく理由をつけて離宮に追いやったんだ。そのうえで、下手に散財されると困るから、僕の息のかかった商人を出入りさせているんだけど――母上は離宮で贅沢三昧している気分だろうけど、実際はそんなことないよ。最近の職人は安物を高く見せる細工も上手でね。本当に助かってるよ。まあ、母上もそのうち気づくかもしれないけど、その頃にはこの国の王は僕だ。そうなったら、母上のことはどうとでも出来る。あとちょっとの辛抱さ」
本当に彼は実母のことをよく思っていないらしい。とりあえず、答えをもらい、一安心する。
アナベルは体から力を抜く。王太弟がぽつりと呟いたのはそのときだ。
「感情というのは難しいね」
そう呟く横顔はどこか悲しそうだった。
「全部が全部思い通りにはならない。ヘルマンのことも残念に思うよ」
「……それはどういうことですか?」
「ヘルマンの兄はね。伯父上のせいで死んだんだよ」
その言葉にアナベルは息を呑んだ。
「昔の戦争でね。二人は同じ戦場で戦っていた。表向きは戦死とされているけど……ヘルマンの兄が死んだおかげで、伯父上は戦果を独り占めだ。伯父上が何もしていないとは僕も思えない」
兄が死んだ原因を持つキルンベルガー家。それをヘルマンは許せなかったのだろうか。その答えは直接本人に聞くしかない。
アナベルは目を伏せる。
「後悔はつきないね。ヘルマンのことも、兄上やジークハルトに任せないで、僕にも何か出来ることがあったのかもしれない。……兄上のように、後悔のない生き方をするというのは、僕にはとても難しそうだ」
それから長い間、二人は話すこともなく、ずっと黙っていた。