二章:王子の信者⑥
二章:王子の信者②におけるリーゼロッテのエルメンガルトに対する評価に致命的な誤字がありましたので修正しました。
「いい人じゃないのよ」と書きましたが、あれは間違いです。
正しくは「いい人なのよ」です。最初に「悪い人じゃない」と書いたのを修正しきれてませんでした。
修正前のものを読まれた方に深くお詫び申し上げます。
アナベルは瞬く。
「何であなたらが謝るんですか?」
「ずっと、隠し事をしていた」
実際は知っていたので、隠し事なんてなかったのだが――ジークハルトがこの件を伏せようとしたのは事実だ。アナベルは考える。
『出来れば、この記事の件についてはアナベルちゃんに目をつぶってほしい。知らなかったことにして欲しいんだ』
二ヶ月前、ディートリヒはそう言った。今なら、その理由が分かる気がする。
ジークハルトはアナベルに記事の件を伏せておきたかった。ディートリヒは彼の意向を慮って、あんな要求をしたのだ。騒がなければ、ジークハルトもこちらが何も知らないと勘違いをする。ディートリヒは自分のことを自分勝手な人間と言ったが、――結局、親友のために悪者役を引き受けただけだったのだ。
そして、ジークハルトがこの件を伏せようとしたのもなんとなく分かる。記事の撤回を望んだが、それが叶わなかった。次に彼が気にするのはアナベルのことのはずだ。こちらの心情を考えて、隠そうとしたのだろう。だが、今、戴冠式のため、地方にいたジークハルトの過激な信者が集まった。そのことで、隠しきれなくないと思ったのだろう。二ヶ月越しに説明しようとしたのだ。
アナベルは大きく息を吐いた。
「別に謝らなくていいです。嫌われるのも慣れてますし、さっきの人も大したこと出来ませんでしたからね。温室育ちのご令嬢程度に負かされるほど、精神的にも肉体的にも柔ではありませんよ」
そう言ったものの、ジークハルトは複雑そうな表情だ。本当に気にしなくていいのに、面倒な性格だと思う。アナベルは言葉を続ける。
「それで? 話と言うのは、私に謝罪をしたかったんですか?」
「――ああ。それと説明だな」
「お説教はないんですか? 叱るならさっさと終わらしてほしいんですけど」
こちらはその覚悟でいるというのに。
不服そうに告げると、ジークハルトは吹き出した。口元を押さえる。笑いがこらえきれていない。アナベルは何とも恥ずかしい気持ちになる。
「説教をされると思っていたのか」
「ち、違うんですか? てっきり、二時間正座コースか、王城外周十周コースかと思ってたんですけど!」
魔術機関時代の養母の処罰方法を口にすると、ジークハルトは何とも言えない遠い目をした。それから一度目を閉じる。
「今回の件は害意を持つ人間に対して対応だけだろう? 怒る理由はない」
その言葉にアナベルは知らず知らずのうちに肩を撫でおろす。胸に手を当てて大きく息を吐いた。ジークハルトが手を伸ばしてくる。
「アナベル」
真剣な声音だ。彼の手が胸にあてたのとは別の手に重なる。
「私のせいで君に不快な思いをさせてしまって、本当にすまなかった」
「不快って――まあ、めんどくさいはめんどくさいですけど」
ジークハルトはこの件について、アナベルが想像している以上に自責の念を抱えているらしい。いや、元々の性格を考えれば、この反応は当然か。本当に生真面目だと思う。
(――気にしなくていいのに)
面倒ごとには慣れっこだ。むしろ、この二ヶ月が平穏すぎた。ちょっとした騒動ぐらいでは動じるつもりはない。その気持ちを伝えたいが、ストレートに『気にしなくていい』と言っても効果はなさそうな気がする。言葉を考えていると、ふと確認したいことを思い出した。
「そうだ。一つ、聞いていいですか?」
「なんだ」
「私があなたの恋人だと勘違いされているこの状況は、ジークにとって都合の良いものなんですか?」
質問の体をとってはいるが、確認だ。偽物であっても、恋人の存在は牽制になるのは間違いない。
昔、ジークハルトは女性に猛アプローチをかけられていたらしい。恋人も婚約者もいないとなれば、今回の戴冠式で以前と同じようなことが起きるのは目に見えている。もちろんそれでもアナベルの存在を無視してアプローチしてくる相手はいるだろうが、数は減ってくるはずだ。
ジークハルトは逡巡した様子ながらも、肯定した。
「……そうだな。正直なところ、助かっている。表立って何か言われることがかなり減った」
やはり、たくさんの女性からモテているという状況はジークハルトとしては喜ばしいことではないらしい。モテない男性からは顰蹙を買いそうだが、ボニファーツが言ったように何事もほどほどが一番ということだろう。
「なら、いいですよ」
それなら、アナベルも文句はない。勢いよく立ち上がると、胸を張った。
「私はジークを守るのが仕事ですからね! 防波堤となってあげますよ!」
そう。アナベルの仕事はジークハルトの護衛だ。これも一種の警護だ。そう考えれば、アナベル自身もしっくりくるし、ジークハルトも無駄に気にする必要がなくなるのではないだろうか。もしかしたら、王太弟もその目的であの記事を容認したのだろうか。ディートリヒあたりはそうなのだろう。あの副官は縁談を匂わせた官僚に拒否反応を示していた。
仁王立つこちらを、ジークハルトはどこか呆然としたように見上げていた。言葉はない。いや、何か言いたそうだが、言葉が出てこないのかもしれない。
やっとのことで、ジークハルトが口を開きかけ――しかし、彼が言葉を発する前に、彼が突然扉に視線を向けた。アナベルは首を傾げる。それから、同じように応接室の扉に視線を向けた。
扉の向こう。遠くから騒音が聞こえる。複数の足音。人の声。それはどんどん近づいてくるようだった。
「ストップ、ストップ! ちょっと、落ち着いて――」
聞き覚えのある声が扉越しに聞こえたと思ったら、壊れんばかりの勢いで扉が開いた。アナベルはポカンと乱入者を見つめる。そこに立っていたのは軍服を着た女性だった。
長い黒髪の女性だ。階級章は尉官のもの。歳は二十歳くらいだろうか。瞳の色は先ほど見たエーリクと同じ琥珀色。彼女の後ろには頭を抱えるディートリヒと見知らぬ中年男性、そして口元に笑みを浮かべるエーリクの姿が見える。すぐにアナベルは乱入者の正体に気がついた。
――ああ、この人が。
「エルメンガルト」
僅かに表情を険しくしたジークハルトが呟く。やはり、彼女がエーリクの妹であり、ジークハルトの信者の一人、エルメンガルト・I・オーベルシュタットなのか。
エルメンガルトは大股でこちらに近づいてくる。彼女が激怒しているのは明らかだった。眉は吊り上がり、顔は真っ赤になっている。アナベルは内心ため息をつく。
(今日は次から次と騒がしいですね)
先ほどのオリーヴィアに続いて二人目だ。今まさにジークハルトの防波堤になることを宣言したとはいえ、嫌になって来る。
ジークハルトは立ち上がろうとする。しかし、アナベルはそれを腕で制止した。役割を全うするため、彼女を真っ向から見据える。しばらく、向こうもこちらを睨みつけたまま何も言わなかった。アナベルも何も言わない。妙な緊張が走り、他の誰もが口を開けない。
長い睨めっこの末、ようやくエルメンガルトが口を開ける。
「……お前が、っ」
琥珀色の瞳に涙が浮かぶ。彼女の反応に驚く間もなく、――パチンという音が響いた。
アナベルには何が起こったのかが、すぐには理解出来なかった。左の頬が熱い。指で触れるとヒリヒリと痛む。目の前のエルメンガルトが右手をあげている。彼女は今にも泣きそうなのにも関わらず、その瞳にはまだ深い怒りが浮かんでいる。エルメンガルトは声をあげる。
「お前みたいな奴が元帥閣下に相応しいわけがあるか!」
「エルメンガルト、やめるんだ」
感情的な叫び。ディートリヒが間に割り込んできたが、彼女は止まらない。人差し指を突き付けられる。
「お前が本当に元帥閣下の隣に立つに相応しいか、私と勝負しろ!!」
アナベルはリーゼロッテが言っていた言葉を思い出す。
――いい人。正義感が強い。親切。真っすぐ。そして、とても真面目。
前半はともかく、後半に関しては同意見だ。ただ、リーゼロッテのつけた評価に『猪突猛進』と言う言葉を付け加えたい。エルメンガルトからは先ほどのオリーヴィアのような傲慢さや悪意は感じられなかった。真っすぐな反発心。そして、周囲がアナベルと会わせたがらなかった理由も分かった。
アナベルはエルメンガルトの視線を真っすぐに受け止める。真正面から立ち向かう相手に、先ほどのような小細工をするつもりはない。正々堂々するべきだろう。
「もちろん」
だから、ハッキリとアナベルは自身の気持ちを、本心を、飾らない言葉で伝えた。
「嫌ですけど」
――火に油の注がれたエルメンガルトが「なんだとおおお!!」と、大激怒したのは当然の成り行きだった。