虎の尾、或いは龍の逆鱗③
日曜日の晴れた公園から見上げた青空。
あの子の瞳と髪はそれと同じ色をしていた。
だからだろう。
心惹かれたものと重なったから、
『あなた、村の外から来た人でしょ?』
きっとあの子を無視しなかったんだと思う。
『私は志乃。あなたのお名前、聞かせて?』
泥濘のような灰色の空の下で生きていた。
『威吹――か。素敵な名前! 私、好きよ? あなたの名前』
息苦しくて、救いを求めて手を伸ばしても何も掴めなくて。
『こんな良い天気の日に家でじっとしてるなんて勿体ないわ』
ずっと、ずっとこのまま生きていくのだと思っていた。
微温湯のような絶望。
そこから救い出してくれたのがあの子だった。
『さ、行きましょ!』
繋いだ手の温かさを覚えている。
太陽のような笑顔を覚えている。
優しい声を覚えている。
『……どうして、明日がやって来るんだろうね』
何一つ忘れていない。
『ねえ威吹、威吹は……私のこと好き?』
忘れるものか。忘れてなるものか。
『もしも好きだって言ってくれるなら……お願いを聞いて』
誰だ。
『威吹! お前は自分が何をしているか分かっているのか!?』
誰だ。
『待ちなさい……ね? 落ち着きましょう? お祖母ちゃんの言うことを聞いて』
誰が触れた?
『死ぬ、皆死ぬ! 死んでしまう! お前の……お前のせいだ!!』
誰が触れて良いと言った?
『もう終わりだ……何もかもが台無しだ……誰も助からない……鬼の子め……』
この愛しい傷痕に――――薄汚い手で誰が触れた?
突然、立ったまま反応を示さなくなった威吹と無音に対し百望は必死に声をかけるが反応はない。
いや、あった。無音だけは何度目かの呼びかけにより自意識を取り戻したらしい。
「ちょ、ちょっと麻宮! アンタ大丈夫?! って言うか何があったのよ!」
「何って……何だろう。幸せな記憶と最低の記憶が凄い勢いでフラッシュバックして……」
「幸せな記憶と最低な記憶?」
あ、と百望は口元を押さえた。
どうやら心当たりがあるらしい。
「雨宮さん、雨宮さんは……」
「……師匠だわ」
キッ! と眦を決して百望は叫ぶ。師匠! 師匠! どこかに居るのでしょう?! と。
すると部屋の隅に置いてあったソファ周辺の空間が歪み、
黒いナイトドレスに身を包んだ妙齢の女が姿を現した。
頭に乗せた鍔の広い尖がり帽子を見れば誰もが口を揃えてこう言うだろう“魔女”と。
「ククク……相も変わらず察しの悪い子だねえ」
目元に刻み付けられた深い深い隈。
百望の師にして、僧正坊の古い知人――そう、彼女こそが不眠の魔女ロゼレムである。
「雨宮さん、どういうことなの?」
「一番幸せな時と一番辛い時の表情を見ればその人間のことは大体分かる……師匠の持論よ」
ゆえにロゼレムは初対面の相手に対して一番幸せな記憶と一番辛い記憶を喚起させるのだ。
心がどんな表情を見せるかを観察するために。
百望はじと目でロゼレムを睨み付けるが当人はどこ吹く風と言った様子だ。
「私も初めて会った時、やられたわ……っとに、何時の間に来てたのよこの人」
「アンタが未熟なだけさね。それより――――ああ、やっちまった」
「「は?」」
未だ呆けている威吹を見てロゼレムは盛大に頬を引き攣らせる。
何なら額にも冷や汗が浮かんでいる。
「悪いね百望。諸々の弁済はするから勘弁しておくれよ」
「師匠、一体何を――――……」
百望の言葉を遮るように威吹の目がカッ! と見開かれ、
「“誰だ”」
ぞっとするほど冷たい声が聞こえたかと思った次の瞬間、百望の工房は爆心地となった。
「な、な、な、何よ!? 何なのよぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「ちょ、ま、薬! 僕の薬はぁあああああああああああああああ!?」
慌てる子供たちを護りつつ、ロゼレムはじっと粉塵の向こうに居る威吹を見つめていた。
いや、正確には見つめさせられていた。
目を離した瞬間に全員が死ぬと本能で理解したから目を離せないのだ。
「この子たちだけでも逃がしてやりたいが……無理か」
僅かでも動いたら死ぬという確信がロゼレムにはあった。
子供たちはあたふた大慌てだが、二人の存在は威吹の眼中にはない。
今の彼にとっては蟻んこのようなものだから。
威吹が捕捉しているのはロゼレムだけ。
下手人であり、なまじっか力を持っているだけにロゼレムは指一本動かせない。
「お前たち、私から離れるでないよ」
「ちょ、ちょっと師匠! アンタ一体何やらかしたわけ!?」
「虎の尾、龍の逆鱗、言葉は色々あるねえ」
「やばいやつじゃん! 雨宮さんのお師匠さん!? これ大丈夫なの!?」
「大丈夫さ。勝算はあ――……」
断言しよう。
「お前か」
ロゼレムは決して威吹から目を離していなかった。
「がっ……!?」
しかし、威吹はロゼレムの警戒をすり抜け懐に潜り込み彼女の首を鷲掴みにした。
「お前か」
ミシミシとロゼレムの骨が軋み、苦悶の声が漏れる。
突然のことに呆気に取られていた百望と無音だが、
「威吹! 威吹! ね、今の威吹変だよ! ねえ、何時もの威吹に戻ってよ!!」
「殺したいならそれでも良い! 殺せば良い! でも違うでしょ!? 今の威吹が殺すのは違うでしょ!!」
何が起きているかは分からない。
しかし、今の威吹が普段の威吹にとって不本意な状況であるのは分かる。
だからこそ必死に呼びかけるのだ。
何時もの威吹に戻っておくれと。
「「――――ッ」」
ギロリと動いた瞳に射抜かれた瞬間、二人は悟った。
自分の命はここまでだと。
しかし、
「カハッ……ああ、やっと……来たか……!」
神は、
「孫が迷惑をかけてすまんのう」
否、
「威吹は良いお友達を持ったね。お母さん、誇らしいよ」
化け物は彼らを見捨てなかった。
「ッらぁあああああああああああああああああああ!!!!」
酒呑童子の拳が威吹の頬に突き刺さり――振り抜かれた。
木々を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいくその姿を見つめ、酒呑は首を傾げる。
「……何だ今の感触? 俺は一体何を殴ったんだ?」
「んなことはどうでもよかろう。それより……ええおいロゼレム、こりゃお前さんの仕業かい?」
僧正坊が険しい視線をロゼレムに向ける。
ロゼレムは言い訳の一つもなく頷き、こう続けた。
「何時ものコミュニケーションを取ったらこのザマさ」
「あれかぁ……普通の奴ならともかくブッキーに仕掛けるかよ。お前ホント、不用意じゃのう」
「お喋りも良いけどまずはその子たちを避難させてあげたら?」
「おっと、そうだね。おっ始める前に私の屋敷に送っとこう」
ロゼレムが二人を転移させようとするが、
「あ、あの! 威吹は……」
「ンフフフ、大丈夫。明日、学校で会う時は君たちが知るいつものあの子に戻ってるよ」
この場に大妖怪三匹が集ったのは決して偶然ではない。
威吹の身に起きた異変を血を通して知り、威吹を助けるために集った――わけではない。
彼らは大妖怪、動いたのはあくまで己の都合のためだ。
「安心しなガキども。俺としてもあのままはちょいと面白くないんでな」
「じゃのう。満開に花開くはずのものを五分咲き程度で終わらせてどうするんじゃっちゅー話よ」
このまま威吹を大妖怪に覚醒させるわけにはいかない。
微妙に差異はあれども三者は共通した結論を持っている。
ゆえに手を組む。嫌悪を凌駕する一番気に喰わない結末を避けるため。
「「…………威吹をよろしくお願いします!!」」
「おう、任せとけ」
子供二人が脱出したのを確認し、僧正坊はロゼレムに語り掛ける。
「お前さんは儂と一緒に森を覆う結界を張るぞい」
「分かってるよ。何もせずにアンタらを暴れさせれば帝都が消滅するからねえ」
頷き合い、二人は森を覆うドーム状の結界を展開する。
その横では酒呑と詩乃が嫌そうに顔を見合わせていた。
「……お前と一緒かあ」
「……私だって嫌だよ」
しかし、やるしかない。
殺さずに威吹を止めるのならば協力は必要不可欠なのだ。
「まあ良いや。足引っ張るなよ」
「そっちもね」
酒呑は鬼の姿に戻り、詩乃もまた背後に九つの尾を展開する。
「お前さんら、成すべきことは理解しておるな?」
「してねえ!」
「じゃろうな! とりあえずお前さんは九尾と一緒にブッキーを散々に草臥れさせろ」
「ってか馴れ馴れしくない? 私の威吹にブッキーとか馴れ馴れしくない? 処す? 処す?」
「今そこ気にする!?」
手を組むと言ってもふとした弾みで仲違いしかねないのが彼ら大妖怪である。
「ともかくじゃ! 消耗させたら儂ら三人の血をあの子に飲ませる」
「飲ませてどうすんのよ?」
「あの子の中に流れる儂らの血に干渉し、産道を通って出て来ようとするものを無理矢理押し込める」
いずれは生まれるものだ。
しかし、まだ早い。
赤子が十月十日を経て生まれて来るように時とそれ以外にも必要な要素が満ちるのを待たねばならないのだ。
そうしなければOracleが見出した大妖怪は生まれて来ない。
早産でも大妖怪には至るだろうが、威吹という存在の器を狭めるだけ。
「…………俺そんな器用な真似出来ないんだが」
「そこは儂と九尾が上手いことやるから心配するな」
「不本意ではあるけどね」
「名だたる大妖怪三匹の共同戦線……こりゃあ金が取れるねえ」
この状況を招いたロゼレムは愉快げに笑っていた。
しかしふと、彼女の笑顔が――いや、大妖怪らの顔からも緩さが消える。
四人の視線の先、数キロ前方では威吹が散漫な動作で立ち上がっていた。
「あれは」
威吹の姿が先ほどと変わっている。
翼があるわけではない。
角が生えているわけではない。
尾が伸びているわけではない。
平時の人間の姿。しかし、両目から涙のように頬へと伸びる痣が刻まれていた。
些細な、殆ど誤差のような変化。
しかし、四人はその変化から目を離せずにいた。
「泣いて泣いて泣き枯れて人は魔に変ずる。
なのにあの子は涙を流したまま辿り着き、今も枯れ果てることなく泣き続けているのか」
どこか感心したようなロゼレムの言葉に詩乃が答える。
「だからあの子は“人間”の大妖怪なんだよ」
「おい、お喋りはそろそろ終わりだ――――来るぜ」
そう告げた瞬間、酒呑の横っ面に強烈な蹴りが突き刺さった。
それ自体は特別、驚くことではない。
酒呑童子という鬼は避けるだの防ぐだのはしないから、戦っているなら普通に攻撃は当てられる。
問題は――――誰一人として威吹の接近を認識出来なかったことだ。
「意味、わかんねえ……!!」
首ごと持っていかれそうな衝撃を無視し、遅れて反撃の拳を威吹の腹に突き刺す酒呑。
彼の表情には苦悶ではなく困惑の色が広がっていた。
「まただ」
今度は吹き飛ばずその場で耐えて更に反撃をまでしている――これは良い。
その程度はこの場に居る全員の想定内だ。
が、
「俺は一体何を殴ってる?」
殴った感触がどうにもおかしい、自分は一体何を殴った?
酒呑は先ほどと同じ疑問を口にする。
「ちょっと、確かめさせてもらうね?」
大きく息を吸い、足を止めて殴り合っている威吹の背後に回り込み詩乃は溜めていたそれを一気に吐き出した。
瑞々しい唇から吐き出された黒い霧が酒呑諸共威吹を飲み込む。
「あ゛づぅ……!? てめ、こら、女狐ェ……!!」
全身を腐蝕させられた酒呑が抗議の声を上げる。
腐れ、グズグズと在るべき形を崩す酒呑を見て詩乃はやっぱり、と頷く。
「時間だよ。威吹は時間の鎧を纏っている」
今はもう再生し元通りとなったとはいえ、本来の姿に戻った酒呑を腐蝕させるほどの瘴気だ。
大妖怪へと至っていない、フィジカルに優れた鬼の血を前面に押し出しているわけでもない威吹に防げるはずがない。
しかし、威吹の見た目には何の変化もない。
腐蝕と同時進行で再生能力を働かせていたから変化がないように見える?
否、それは違う。そんなことをしていれば気づいたはずだ。
最初から、最初からそもそも影響が及んでいなかったのだ。
「はぁ!? 時間の鎧!? 何言ってんだテメェ!!」
「馬鹿は察しが悪いから嫌い」
威吹は自身の肉体をすっぽり覆い隠すように停止した時間を纏っているのだ。
時間が止まる――それは何の変化も訪れないということ。
拳を受けて傷を負う。
肉体が腐蝕する。
どちらも威吹の肉体が変化する、時を刻むということに他ならない。
停止しているからこそ一切の影響を受けないのだ。
「最初に誰も認識出来ないまま距離を詰められたのも時間に干渉したからだと思……」
ゾクリと詩乃が身体を震わせる。
振り向こうとするが、それよりも早く背後に回り込んでいた威吹が彼女の後頭部を鷲掴みにした。
詩乃は肉体を変化させて逃れようとするが……無駄だった。
術を発動しようとする度に時間を巻き戻されてしまうからだ。
「お、おい……威吹、嘘だろ?」
「お、お母さん……そういう冗談、好きくないなあ」
二人の顔が引き攣る。
が、威吹はそんなことなどお構いなしだ。
詩乃の後頭部をガッチリホールドしたままその顔面を酒呑の顔面に向け叩き付けんと大きく踏み込む。
これには流石の詩乃も堪らず、叫んだ。
「避けてぇえええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
「う、う、う……うわぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
酒呑は悲鳴と共に“回避”した。
僅かな時間の間に、余人には計り知れぬ葛藤があったのだろう。
攻撃を避ける――否、攻撃から逃げる。生まれて初めての経験だ。
鬼の正道を往く酒呑童子にとっては耐え難い苦痛のはずだ。
しかし、避けた。躱した。
詩乃と顔面同士でゴッツンコ(可愛い表現)する嫌悪が偉大なる鬼に初めての回避を選ばせたのだ。
「儂、アイツらと同じ大妖怪って括りにされるのすげえ恥ずかしいんじゃが?」
「アンタも似たようなもんさね」
序盤でマッマもやってましたが
あれはギリギリのラインを見極めてたのでセーフです
ギリギリのラインを見極めながら心を抉り、自分の欲望を押し通してました




