紅覇の休日②
堕美庵を後にした威吹は無音と紅覇を伴い、屍の森を訪れていた。
以前紅覇と戦った際、更地にしてしまったあの場所だ。
まあ、どういう理屈か今は元通りの森林へと戻っているのだが。
「さて」
小脇に抱えていた無音を地面に降ろし、その傍らに蒼窮を突き刺す。
「これ、結界代わりだから傍から離れるんじゃないよ」
「分かった! あ、ちょうちょ!!」
「離れるなっつってんだろ馬鹿犬!!!!」
忠告を刹那で忘れ駆け出そうとする無音を即席で作り出したケージの中に閉じ込める。
酷いよと抗議しているが、着いて来ると言ったのは無音だ。
言うことを聞かない罰だとデコピンをし、威吹は紅覇に向き直った。
「とりあえず準備運動がてら軽く打ち合ってみようか」
「ええ。よろしくお願いします」
「OK。それじゃあ……こういう趣向はどうかな?」
ドロン、と威吹が化けたのは“紅覇”だった。
しかし、今の紅覇ではない。以前の紅覇(♂)だ。
「一応、俺の記憶にあるそれと寸分違わず再現したつもりだよ」
「……なるほど」
「ああそうだ。修行とは言え主に……とか馬鹿なことは考えるなよ」
本気、殺す気で来い。
変に手を抜いたら心底から失望する。
威吹がそう告げた途端、紅覇の目の色が変わった。
失望される恐怖が申し訳なさを上回ったのだろう。
「分かりました――――いざッ!!」
爆ぜるように噴出した妖気を棚引かせながら紅覇が迫る。
躊躇なく顔面に向けて放たれた拳を右手で受け止め、
「お?」
驚く。
受け止め切れなかったのだ。
右手が弾かれ、顔面に迫る拳。
威吹は首を捻ることで拳を逸らしつつハイキックを繰り出した。
「シッ!!」
が、虫を追い払うように弾かれ、体勢を崩したところにボディブローを突き刺された。
血反吐を撒き散らしながら距離を取った威吹は純粋な賞賛を口にする。
「凄いな。あの時、俺が戦った紅覇の全力を軽々と上回ってるじゃないか」
過去の紅覇に出せるめいっぱいの力で戦っていた。
なのに、手も足も出ない。
「ありがとうございます。ですがそれは私が努力で勝ち得たものではありません」
徒手空拳の技術を修めてはいた。
しかし、零號の肉体に染み付いた技術ほど洗練されていたわけではない。
技術の高まりは零號由来。
膂力に関しては威吹から下賜された右眼の妖気によるブースト。
賞賛を受けるには値しないのだと紅覇は言うが、威吹からすれば見当違いも甚だしかった。
「馬鹿言うんじゃないよ。お前が文字通り“勝ち得た”ものだろうが」
零號に勝利したから得られた。
そして、勝利出来たのはそれまでの努力が実を結んだからだろう。
借体形成の術、言うほど簡単に習得出来るものではないのだから。
「一々自分を卑下するなよ。みっともないぞ」
「……申し訳ありません」
真面目な奴だ。つくづく化け物らしくないと威吹は苦笑を滲ませる。
「しかし何だい。持て余してると言った割りには十分やれてると思うんだけど」
「いえ、そうでもないのです。単純な力押し。出力を上げる方向ならば問題はないのですが……」
「細かな制御が利かないって?」
「はい。見て頂ければ分かるでしょう」
言って紅覇は右手に妖術で練り上げたバランスボール大の火球を作ってみせた。
なるほど、確かに一目瞭然だと威吹は頷く。
轟々と荒々しく猛る炎は、見栄えこそ良いがそれだけ。
使った妖気の二割ぐらいが無駄になっている。
「我が君、かつての私の技量で同じものを作って頂けますか」
「ああ」
頷き、威吹もまた同じように火球を形成する。
しかし、紅覇のそれとは明らかに違った。
猛り揺らめくこともなくサイズもバレーボールより少し小さいぐらいに収まっている。
見かけだけで言えば紅覇の方が強そうだが、中身が違う。
込められた妖気は紅覇よりちょっと少ない程度だが威吹の火球には無駄がない。
仮にこれをぶつけ合えば紅覇の火球が押し負けるだろう。
「誓って、私は手を抜いていません。全力でやりました」
「だろうな」
「なのに……これほど、これほど差があるのです」
火球を消滅させ、項垂れる紅覇。
「単純な、初歩の初歩である火術ですらこれなのです。
繊細な制御が必要になる術の一部はそもそも発動すら出来ません、暴発します」
「あー……何と言えば良いのか」
かつては当たり前のように出来ていたことが出来なくなる。
それはさぞや歯痒かろう。
「零か百かと言うほど極端ではありません。
五割ぐらいまでの力に抑えればコントロールも十全にやれるのです。
しかし、それ以上の妖気を扱おうとすると……」
「暴走気味になっちゃうと」
「……はい」
どうしたものかと威吹が思案していると、
「はい! はい!!」
黙って見物していた無音が檻の中で自己主張をし始めた。
どうせ役に立つ助言は貰えまいが……。
「はい無音くん、どうぞ」
檻を消して開放してやると、タッタッタと駆け寄ってきた。
「大は小を兼ねるって言うしさ!
制御とか捨てちゃって出力上げる方向でやれば良いんじゃないかな!!」
まあ、それも一つの道だろう。
強みを活かすというのは決して間違ってはいない。
「すまないね麻宮くん。私はどうも、そういうのには向いていないんだよ」
これは性格の問題だ。
力押しでガンガン制圧していくようなやり方は紅覇の性格とは噛み合わない。
しっくり来ないやり方を無理にやろうとすれば、どこかで大きく躓くのは目に見えている。
というか、以前の紅覇が正にそれだ。
「そっかー……あ、じゃあさ! その眼が悪さしてるんなら取り替えれば!?」
「あー、それは良いかもな」
身の丈に合わないものを与えられたせいでそうなったのならば、だ。
以前の紅覇よりちょっと強いぐらいの奴から眼を奪ってそれに取り替えれば問題は解決しよう。
悪くない案だと思ったが、
「断固拒否します。我が君より頂いた眼を捨てるなぞ言語道断。
そのような不敬を行うくらいなら、私は腹を掻っ捌いて死にます」
目がマジだった。
(別に俺は不敬とか思わないけど)
紅覇自身が不敬だと思うのなら意味はないだろう。
命令すれば聞いてくれるだろうが……。
(う、うーん……流石の俺も罪悪感が……)
大切な宝物を取り上げられることを恐れる子供のように瞳を潤ませる紅覇に、
その眼を取り替えろなどと酷な命令をするのは気が咎める。
「我が君、我が君は無尽蔵とも思えるような莫大な妖気をどう制御されているのです?」
「え? 俺? フィーリング」
大前提として威吹は大妖怪には努力なぞ不要だと断じている。
そんな彼が力を制御するための鍛錬などするわけがないのだ。
「才能と感性の暴力だね! 世の中とっても不公平!!」
「人間としてならそっちのが圧倒的に上なんだがね」
普通の高校生と国民的アイドル、比べるのも馬鹿らしいぐらいだ。
「流石は我が君…………下手な考え休むに似たり、と言うことなのでしょうか?」
「俺にとってはね。でも、紅覇にとっては違うでしょ」
決して紅覇の才能や感性が悪いわけではない。
これもまた性格の問題だ。
理詰めでコツコツ解決していくのがしっくり来る相手に、
考えるな感じろなんてアドバイスを送るのは違うだろう。
「そういう方面にも適性があるなら、まあそれも悪くはないんだろうけどさ」
紅覇には無理だ。絶対に無理だ。
致命的なまでに向いていないというのが威吹の見立てだった。
「そう、ですね」
「とりあえずさ。段階的に妖気を解放してみてくれない? ちょっと真面目に視てみるからさ」
「分かりました」
「俺が指示したらギア上げて行って」
閉じていたチャンネルを全てこじ開ける。
視覚だけでも、これまでとは段違いの情報が流れ込んで来るが大半を無視。
紅覇にのみ集中を注ぐ。
「一割」
「はい」
特に問題はなかった。
妖穴より溢れ出た妖気は穏やかに全身を巡っている。
二、三、四、五とギアを上げても問題はなかった。
自己申告通り五割までなら制御は完璧らしい。
「六割」
「ッ……はい」
あ、と思わず声が漏れる。
変化は一目瞭然だった。
(明らかに俺がくれてやった右眼が悪さしてる)
これまでは特に何の反応も見せなかった右眼。
それが五割を超えた途端、水を得た魚のようにはしゃぎ始めたのだ。
妖穴から生じるそれではなく、右眼から発生した妖気が紅覇の全身を好き勝手に駆け巡っている。
右眼が第二の妖穴染みた状態になっていることもそうだが……。
(こ、これは酷い)
実際に視て知った情報を総合的に判断するとだ。
正直、害悪としか言いようがないレベルだった。
「…………ごめん紅覇、これは完全に俺の手落ちだわ」
「は?」
「見たこともないくらい後ろめたそうな顔してるけど威吹、何したの?」
ズケズケと聞いてくる無音に軽くイラっとするが悪いのは自分だ。
しょうがないと、こめかみを押さえながら威吹は語り始めた。
「A型の人間にさ。B型の血液を流し込んだらどうなる?」
「えっと……きょ、きょぜつはんのう!」
「そう、拒絶反応が起きるな」
紅覇の中では正にそれが起こっているのだ。
紅覇自身の妖穴より生じた紅覇の妖気。
どういうわけか右眼から発生した威吹の妖気。
それが反発し合っているのだと威吹は深々と溜め息を吐く。
「いやもう反発ってより蹂躙? 俺の妖気が好き勝手暴れてる感じだわ」
そりゃ術の制御も覚束ないはずだ。
だってそもそも、自分の妖気ではないんだもの。
「あの、我が君? 流石にそのようなことが起きていれば……」
「気付くって? そりゃ気付くだろうさ――――偽装されてなければ」
「「は?」」
この右眼、あろうことか主である紅覇を欺いていた。
違和感を抱かないように洗脳交じりのことをしているのだ。
いや、紅覇だけではない。
第三者にも見ただけではそうとはバレぬように認識を弄り偽装を仕掛けている。
威吹自身も、チャンネルを開くまではまるで気付いていなかった。
実際に手合わせをしたのにも関わらずだ。
「威吹の右眼、自己主張強過ぎない?」
「それな」
たかだか身体の一部分の癖に生意気だと威吹は憤慨した。
「クッソ! 母さん……あの人、絶対気付いてただろ……最初に言えよ……」
酒呑はまだ良い。
そもそも紅覇に関心がないし細かいことには興味がないタイプだから。
だが、詩乃は違う。
移植の時点でこちらの手落ちに気付いていたはずだ。
「我が君を疑うわけではないのですが……」
「ああうん、ちょっと待て。暗示を解除するから」
ぺチン、と軽く紅覇の頬を叩く。
すると、変化は劇的だった。
「う゛!?」
紅覇の顔色が悪くなり口元を押さえ蹲ってしまう。
自身の身に起きていることを認識したせいだ。
「紅覇、妖気を五割以下まで抑えろ。そうすれば右眼は大人しくなる」
「わ、分かりました……」
言われた通り妖気を抑えると紅覇の体調もみるみる内に改善していった。
威吹はそのことに安堵しつつ、再度紅覇に頭を下げる。
「ごめん、本当にごめん。ご褒美とか言っておきながら劇毒埋め込んじゃってホントごめんなさい」
「あ、頭をお上げください我が君! 私は全然気にしておりません!
我が君から下賜されたものであれば猛毒だろうが喜んで呷ります!
私にとっては天上の美酒ですからね!!」
「「いや、それはそれでどうかと思う」」
忠誠心が重い。
無音が真顔になるレベルで重い。
「というか威吹、何でそういうことになっちゃったの?」
「あー……」
肉体的な拒絶反応が出ないようには気をつけていたのだ。
抉った右眼を眼窩に嵌め込む際、
ちゃんとそれが紅覇の肉体に馴染むよう外部から再生能力を働かせた。
そして上手くいった。今も肉体的には何の問題もない。
ただ、
「霊的な繋がりの方を忘れてたんだわ」
ただの人間にただの眼球を与えるのであれば何の問題もなかった。
神秘の影響が薄い、或いは皆無な人間であれば霊的な繋がりなど気にかける必要もない。
だが紅覇の魂は化け物のそれで、肉体は怪異殺しの複製。
霊的な部分でも拒絶反応が出ないよう最初の時点でしっかり繋げておくべきだったのだ。
だがそれをスコーンと忘れてしまった結果、今のような状態になってしまった。
「どうにかならないの?」
「手っ取り早いのは今の目玉を抉り取って、もう一回俺が新しく目玉をって方法なんだが……」
チラリと紅覇を見る。
縋るような目でこちらを見ていた。
現状を説明されても尚、今の右眼を手放したくないらしい。
「我が君より初めて頂いたものですし……」
「なら、方法は一つだな。今から霊的なラインを繋げるしかない」
「最初からそうすれば良いじゃん。何か問題があるの?」
「ある」
どういうわけか今、紅覇の右眼は独立した一個の生命体のようになってしまっている。
紅覇という化け物の中に右眼という小さな化け物が含まれているような状態なのだ。
その状態でラインを繋げようとすると、無視出来ない問題が生じてしまう。
「理想は紅覇の妖気で完全に右眼を塗り潰してしまうこと。
だが、右眼は確実に抵抗して逆に紅覇の妖気を染め尽くさんとするはずだ。
鬩ぎ合いが始まるわけだね。
理想は紅覇が独力で右眼に打ち克つことなんだが……まあ無理だわな」
それが出来るならさっきも苦しむことはなかっただろう。
「乗っ取られちゃうの?」
「負ければね。でも、そうはさせない」
そうならないようにフォローするつもりだ。
なので乗っ取られる心配はないのだが……。
「俺の援護を受けて右眼を掌握する場合でもな。
意識を乗っ取られるようなことはないが妖気が俺の色に変わっちまうんだよ」
右眼の戦力が八十、紅覇の戦力が二十だとしてだ。
それではどうしても勝てない。
勝てないから外部から威吹が干渉し二十の戦力に百の戦力を加算する。
だが、それで勝利しても戦力の大半は威吹のもの。
威吹(一部)と威吹(全部)が戦って勝利しても結局は独り相撲だ。
威吹本人に紅覇をどうこうする気がないので乗っ取られるようなことはない。
だが確実に影響は及び妖気の質が威吹のそれに塗り替えられてしまう。
「――――何か問題が?」
「は? いやいや、君君。自分の根っこが他人の色で塗り替えられるのは嫌だろ」
「それはまあ、他の誰かの色でと言うのであれば断固拒否しますが我が君のそれなら問題はありません」
むしろ望むところだと紅覇は胸を張る。
「深い部分を我が君に侵されることを受け入れる。
それはつまり更なる忠誠を示すということに他ならないのでは? 絶対そうです」
「「そうかなあ……?」」
だがまあ、本人が気にしないならこちらが気にするのも妙な話だ。
それならさっさと済ませようと威吹は自身の手首を切り裂いた。
「我が君!?」
「飲め」
安全且つ精密なフォローを行うためには自分の一部を取り込ませる必要がある。
肉片を喰わせるよりは血の方がマシだろう。
威吹はずずいっと手首を突き出す。
「で、では……その、失礼致します」
跪いた紅覇は躊躇いがちに威吹の手首に口をつける。
そして恥ずかしいのか何なのか、
頬を赤らめながら舌を這わせちゅーちゅーと血を吸い始めた。
「何て言うかさ」
「うん」
「昼間っから不道徳極まってる光景だよね! これ!!」
「それな」




