あこや貝
あの日あの時。あこや貝を使った首飾りが引き千切られ紫陽花の元に散乱して七色に光った時。空は曇り、泣き始めていた。どこかの家の風鈴がりんと鳴り、風を知らせていた。私はぶたれた頬を押さえ、あこやの一片一片を探し求めていた。母の形見の首飾りは私にとって大事であった。欠片を全て拾い集め、知っている宝飾店に持ち込み継いでもらおうと思った。父の癇癪は珍しいことではない。特に酒の入った時は。ぽつりと頬に落ちた空の涙で、まるで私が泣いて見えるのではと家の庭であるというのに気にかかった。だって隣家の彼はこちらの都合お構いなしに金木犀の垣根を越えてやって来ることがあるから。
ほたりと。
熱い雫が私の手の甲を打つ。
それで私は、自分が悲しんでいることに気づいた。悲しいのだ、私は。父にぶたれて。自分の中に残っていた感情の豊かに、私は驚かされた。自覚してしまえば他愛ないもので、涙はあとからあとから溢れた。空もまた、それに追随するように涙を降らせた。私は身体を雨に晒しながら、尚もあこやの七色を探し続けた。濡れてしまえば良いと思った。私は母を殺したのだから。私を産んだが為に母は死んだのだから。物心ついてより父に巻き返し繰り返しそう言われて育った。私は重石のように罪悪感を抱えながら生きてきた。今思えば、母の形見であるあこや貝の首飾りを私に渡しただけでも、父にしてみれば随分な譲歩だったのだろう。結局はそれを引き千切ってしまったが。ふと雨が止んだと思えば、傘が差しかけられていた。
「濡れるよ」
痛いような表情をして、風音が立っていた。
その時、私の胸に沸いたものは透明でない色の感情だった。無性に腹立たしかった。風音の傘を押し退ける。しかしその感情は自己嫌悪の転嫁に過ぎなかった。
「あこや貝を探してるのよ」
「あの首飾りの?」
「そう」
「千切れたの?」
「そう」
苛々しながら風音に答える。
「美夜」
肩を掴む手には余分な力は一切入っていなかった。極力、傷つけまいとするように。壊れ物に接するように。
「頬を冷やすほうが先だろう。うちにおいで」
ふわりと手招かれると私の中の意固地が和らぎ、風音の腕を掴んだ。
「ごめんなさい」
「何が」
「生まれてきて」
「ありがとう」
「どうして」
「生まれてきてくれて」
風音の家の縁側から、屋内に入る。風音にアイスノンを手渡され、それから風音は甲斐甲斐しく私の髪をタオルで拭き始めた。一通り拭き終わると、漆黒の座卓の上に、温かい緑茶が出される。風音の心遣いの全てが嬉しく、また疎ましかった。水の香りがする。雨の日特有の現象だ。居間の電灯に大きめの虫が飛来し、あちこち、忙しなくぶつかっているようだった。
「返事はいつ、貰える?」
「…………」
「美夜。君の存在は祝福して産まれてきた。お母さんは、君を愛してたんだよ」
「お父さんは違うわ」
「それは君に纏わりつく呪詛で、真実じゃない」
「風音はどこが良いの」
私なんかの。
「小さい頃から好きだった。繊細な硝子細工みたいで、触れば壊れそうで怖くて、でも惹きつけられた。僕は美夜が好きだよ」
私は震えた。
「怖いの?」
「怖いわ。貴方を受け容れればお母さんと同じになりそうで」
「きっとならないよ」
風音の口調は確固としていて、およそ揺らぎとは無縁だった。それでも私は恐ろしかった。愛や恋といったものを自分のものとして経験することが。風音は存在を否定される恐怖を知らないからそんなに強くいられるのだ。私とは違う。その事実は私を委縮させるに十分だった。私は緑茶を飲み干した。とろりと甘く、美味だった。例えば今ここで、私も風音が好きだと言えば、風音は喜んでくれるのだろう。けれど世間の幸福に甘んじて良いのかと疑問視する私の中の私は、正直な告白を阻んだ。湯呑みを茶托に置くと、黙って立ち上がった。
「美夜」
「帰る」
頬に宛がっていたアイスノンを風音の手に押し付け、私は居間から縁側に出て、庭に降りた。雨が止んだらあこや貝をまた探そう。
けれど雨はその後、ますます強くなるばかりで、夜には暴風雨になった。
翌日は快晴だった。雨に洗われた新鮮な空気が肺を満たし、私は朝食もそこそこに庭に出てあこや貝を探そうとした。すると思いもかけないことに、そこには先客がいた。蹲っていた風音が、私を振り向きにこりと笑う。邪気のない、綺麗な笑顔だった。それから手を出してごらん、と言われるまま掌を差し出すと、ぱらぱらと七色の欠片が落ちてきた。
「ずっと探してたの?」
「うん。朝方、雨が弱くなった頃から。それで足りてる?」
「足りてるわ」
本当はどうだか解らなかった。正確な枚数を私も憶えていない。けれど足りていると答えるのが正解だと思った。そうすることが正しくて、そうすべきなのだと。そう答えたいのだと。
「風音、莫迦だわ」
「そうかな」
風が吹く。風の音は耳には聴こえなくても確かに優しくそこに在る。
私はあこや貝の首飾りを修繕してもらおうと思った。風音の濡れた前髪に触れると、彼はくすぐったそうな顔をした。風音が風邪をひいたらお見舞いに行こう。その時にはあこや貝の首飾りは直っていると良い。白いワンピースを着て、首飾りを着けて、見舞いには不向きなくらいの装いをして。そして風音に告げよう。今はまだ伝えない、私の胸の秘めた気持ちを。