第十三話 獣性の鳴り響く朝
「ふあー……………あれ、お父さん。今日は仕事は?」
あくびをしながら、まだパジャマ姿のラキャがリビングに来た。
ボッティは食器を並べながら、眠気眼の娘に言った。
「おはよう。今日は仕事は午後からになった」
「そーなの? おはよー」
ラキャは洗面所に向かい、顔を洗った。
ついでに玄関の黒こしょうと白ごまに餌をあげて戻ってくると、既に朝食が並べられていた。
ラキャはそのまま食卓に付いた。
「いただきまーす」
「はい。いただきます」
ラキャは食パンをほおばりながらテレビのリモコンを手に取ると、ニュースを付けた。
『………は、今季初黒星を上げました。これから………』
そのとき、ボッティの携帯が鳴った。
今まさに朝食に食らいつこうとしていたボッティは、一旦食パンを置き席を立ちながら言った。
「会社からの電話だ。すまないな」
「いいよー」
ボッティは食卓を離れた。
「もぐもぐ………ごくん」
そのとき、ニュースが切り替わった。
『次のニュースです。長年に渡り、人身売買してきたと思われる組織のトップが、逮捕されました』
ドクン
ラキャはテレビを見る。
聞き覚えのある単語が、聞こえた気がする。
『逮捕されたのは、株式会社アムルガンの社長、クゼイ氏と、幹部ら10名で、人身を商品として金銭で取り引きしていたとして、人身売買禁止法の疑いで逮捕されました』
ドクンッ
ラキャは、画面に映ったその人物を、見る。
どこかで、見覚えが、ある、破裂しそうなくらい、太った、コーギーの男。
ラキャは、背中の痕が、ちりちりと、痛んだ気がした。
長らく、忘れていた。
目を背けていたトラウマ。
10年以上前の、たった2ヶ月の出来事。
『………また、解放されたドーギニアは全部で200人を越えるとされます。こちらが収容されていたとおぼわしき施設です。衛生環境は非常に悪く』
テレビの画面一杯に、白い正方形の部屋が映し出された。
「ああ。そうだ。防火材をあそこから輸入しても良いかもしれない。少し値は張るが、安全性は抜群だ。それと………………」
ガシャァン!
ボッティが仕事の電話をしていた時だった。
突然、何かが落ち、割れたような音がした。
続けて、何かが倒れる音、更に物が割れる音。
その音は、ラキャが1人でいるリビングから聞こえてきた。
「ちょっと待ってくれ」
ボッティは電話を保留にして、リビングに駆けつけた。
「…………………!」
ボッティが駆けつけたとき、リビングには、割れた食器や小物が散乱していた。
リビングの隅に、ラキャがうずくまっている。
「おい、ラキャ、何があっ…………………」
「きゃいんっ」
ボッティの手がラキャの肩に触れた瞬間、ラキャが振り向き、ボッティに飛びかかった。
「ラキャッ!?」
「きゃいん、きゃうっ、ぐるるっ」
ボッティはとっさに左腕で首を防護した。
ずぐり、と熱い感覚がボッティの腕に迸る。
噛まれた。
ラキャの牙が、深くボッティの腕に刺さっていた。
「っ…………ラキャ!」
「ふーっ、ううううう、ぐるう、ふーっ」
個体差はあるが、ドーギニアの噛む力は120キロを越える。
だが、普通は本気で噛むなんて事はしない。
ちょっと本気で噛むだけで、指なんて引きちぎれてしまうからだ。
だが、今のラキャは普通ではなかった。
「うるるる、がううう、ふーっ」
「ぐあっ…………止めろ……………ラキャ………ッ!」
瞳孔はかっと開かれ、よだれを垂らし、言葉を忘れたようにただ唸る。
ラキャはボッティの腕の肉を引きちぎろうと顎に力を入れる。
血が飛び、ラキャのパジャマとボッティの服に赤い斑点が付いた。
「クソッ!」
ボッティは噛まれている腕を押し込んだ。
喉に腕が押し付けられ、本能から一瞬ラキャの噛む力が弱まった隙を突き、脱出する。
ボッティの腕からは血が垂れている。
「どうしたんだラキャ! しっかりしろ!」
「わんっ、わんわんっ、わううっ、わんっ」
ラキャは獣のように前の手を地面に付け、四足で身構えていた。
もう一度、ラキャがボッティに飛びかかる。
ボッティはそれを受け止めた。
狂ったような犬歯を、肩に受けて。
ボッティはラキャを抱きしめた。
肩から血が流れる。
ラキャの動きが止まる。
「ラキャ……………」
ラキャの強ばっていた体から、ゆっくりと、力が抜けていく。
ラキャの息が少しずつ収まって行った。
ラキャの牙が、ボッティの肩から抜けた。
「…………………おとう……………さん?」
「ラキャ…………!」
ラキャの瞳から、ボロボロと涙が溢れ出てきた。
「あれ、私、何してたの。なんで、あれ。どう、なんで。お父さん、血が出てるあれなんで。私なんで」
「ラキャ…………もう、大丈夫だ」
ボッティが、優しくラキャの耳元で言う。
「もう大丈夫だ、ラキャ。俺がいる」
「……………お父………さん」
ラキャも、ボッティの背に手を回した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………………」
「大丈夫だ。大丈夫………………」
ラキャは、ただ、ボッティの胸に顔をうずめた。
ラキャの背に刻まれた痕は、11年が経ち、ほとんど消えかかっているが、完全には消えていない。
…………心の奥底の傷も然り。