乙女は恋をしていた
「何時だと思ってんの」
後ろから突然声をかけられ、真樹は反射的に立ち上がり、振り向いた。真夜中の公園は思ったより暗く、よく目を凝らしてみないとそれが誰だかわからない。
見慣れた顔が月の光に照らされた。
「なんだ、智くんか」
アルバイト帰りらしき幼馴染の顔に少し安心し、真樹はベンチに座りなおした。「なんだとはなんだよ」と口を尖らせた智も、隣に腰を下ろした。
「家出?」
座るや否や、智は急に心配そうに眉を下げ、聞いてきた。真樹より三歳年上の智は、今年で二十一歳。高校生の真樹からしてみると立派な大人なのだが、まだ幼い子どものようにコロコロ表情を変える。
真樹はゆっくりと首を横に振り、
「振られた」
と、できるだけ明るい声で言った。案の定、智は「そっか」と、下がった眉尻をもっと下げて呟いた。
数時間前、真樹は二年と五か月付き合っていた彼に別れを告げられた。
それはもう、あっさりと。
「俺らさぁ、もうダメだと思うんだよ」
だから、別れよっか。彼の言葉が真樹の頭の中で鈍い音をたてて響いた。
「うん、そうだね」
普通、真樹ぐらいの年齢の女の子なら、「ちょっと待ってよ」「なにがダメなの?」だとか「嫌だ」とか、少なくともこんなすぐには受け入れようとはしないのだろうが、すがる気にもなれなかったのが現実。どうせ引き留めても、結果は決して良い方向には転ばない。それに、
――引き留めてほしいの、バレバレだし。
可愛くない女。そう思われたに違いない。真樹自身でも、そう思ったのだから。
悲しむ素振りを一切見せない真樹に少し不満なのか、男は表情を曇らせて「じゃあ」と、これまたあっさりと踵を返した。
自分が何を言っても無駄だと知っていた。遠慮のないクラスメイトから聞かされたのだ。
「真樹ちゃん、彼氏さんこの間二組の坂井さんと帰ってたよ」
「最近さ、仲良くない? 結構噂してるよ、みんな。真樹ちゃんの彼氏、」
浮気してるって。
落ち込むでもなく、高校生も本当に浮気をするのか、とその時は呑気に思っていた。しかし実際別れを告げられてから、公園のベンチで何時間もくすぶっている自分がいるのだ。あほらしい。
そんな真樹の隣に、真樹よりも悲しそうな顔をする大学生の幼馴染が一人。智くんは優しい。高校生の失恋話にこんなに聞き入ってくれて、こんなに落ち込んでくれるなんて。真樹は、話を聞いてくれた智に、少し申し訳ない気持ちになった。
「真樹ちゃんはさ、」
智に対して何と謝罪の言葉を述べようと、頭を回転させていたとき、二人の間に流れる沈黙を破ったのは智だった。
「好きだったんでしょ? その彼のこと」
好き「だった」と過去形にしてくれるところに、彼らしい優しさを感じる。たった数時間前に別れたばかりの人を、しかもほかの女のところにいったのであろう人を過去形にできるほど真樹は大人ではないし、強くもないのだ。開き直ったように振る舞う真樹の強がりを、汲み取ってくれたのだろう。
「……うん。好きだったよ。初めて付き合った人だもん。特別だったし」
でも、終わりの時はあっさり来てしまった。
恋の終わりは、なんともいえないほどあっけなく、真樹を見放していってしまった。
思えば、本当の本当に好きだった。
中学三年の頃、初めて同じクラスになってすぐ、周囲の人間まで暖かくなるような、あのふわりとした笑顔にコロリとやられてしまったのだ。
そういえば、恋を始めたのは真樹のほうだった。
今まで化粧や服など、女らしいものに無頓着だったはずなのに、急に興味を持つようになった。特に気にもしていなかった体型も、いつの間にか食事制限でどうにかしようなんて試みていた。「恋の力ってすごい!」なんて少女漫画ばりの乙女チックなセリフなんかも恥ずかしげもなく言えたし、そうやって片想いを楽しむこともできた。一番どうかしていたと思うのは、成績は下から数えるほうが早い真樹が、上から数えたほうが早い彼と同じ高校を目指して受験勉強をし始めたことだった。担任にも、親にも友人にも止められたのだが、恋する真樹は頑固だった。
それにただ一人、真樹を応援する者がいたのだ。
当時、難関大学への受験を控えていた智だけは、真樹の合格を信じていたし、志望動機を不純だとも言わなかった(心では思っていたかもしれないが)。その頃から智は優しい。もっと早く、身近にこんないい男がいるということに気づけばよかったのだろうが、当時の真樹には片想いの彼しか見事に見えていなかったし、智はこんな生意気なガキに興味はないのだろうということは、智に淡い恋心を抱いた中学一年の時に気づいていた。
智の特別授業と応援のおかげで、合格を勝ち取ってからは早かった。
他校からの進学者に彼を取られまいと、真樹は本格的なアプローチを始めたのだ。中学の頃から異性に人気のあった男をものにするのに、半年はかかった。
見事に恋を成就させた真樹は、その二年五か月後の今日、見事に振られた。
ただ一つ、彼に感謝していることは、振られたのが真樹の大学受験が終了した今日であったことだ。精神的打撃を受けたまま、試験に挑むはめにならずに済んだのだから。中学三年のときのように、頭の良い彼と同じ大学を受験しようなんて試みをしなかった自分のことも、褒めてやりたい。
「どうせ付き合ってんだから、一緒の大学なんて目指さなくていいでしょ」と、まるで自分たちが永遠に続く関係であるかのように思っていた心の余裕にも、感謝せねばならない。それに、目指すべき道を既に把握していたことにも。
そんな真樹の頑固なところも、彼は気に入らなかったのかもしれない。
付き合いたての時は、
「俺、真樹のこと尊敬してんだ。周りに流されないで、自分の進みたい道を進むのって、なかなかできる人いないと思うんだよ」
などとふわふわした笑顔を浮かべて言ってくれていた。
その反面、奴は自分の思い通りにならないことを嫌っていたから、我が道を行く真樹に対して、時が経つにつれ嫌気がさしてきていたのだろう。別れを告げたときも、すがってくる姿を想像していたはずだ。あの曇った表情から、大体の想像はつく。
真樹自身も気づいていた。
当たりが柔らかく、元々人気のある彼のことだ。今まで浮気を疑わなかったわけではない。何度も不安にはなっていたし、その度に安心させてくれた彼に、少し油断していた。もしかしたら初めてではないのかもしれない。
しかし、大学受験に集中していた時期ということもあり、そんな事情を随分と後回しにしてきた。
後回しにした結果が、これだ。
あの男は最後まで理由を言わなかった。真樹に対する最後の優しさのつもりだったのだろう。残念ながらそれは男の自己満足に終わっているが。
「智くん」
しばらくの沈黙の後、真樹は呟くように幼馴染の名を呼んだ。
智は「ん?」といつものように優しく、しかしどことなく悲しげに微笑みながら、視線を漆黒の空にぽかりと浮かぶ満月から、真樹へと移した。真樹も、目の前にあるブランコから智へと視線を移し、自然と二人は見つめ合う形になった。
月明かりは、一層彼を優しくみせた。照れて目を逸らしたのは、真樹のほうが先だ。
「誰かとお別れするのって、こんなに辛いんだね」
「……真樹ちゃん」
「初めてだったから、わかんなかったよ。なんて言うか、こう、結構くるっていうか。私、もっと平気だと思ってた。意外と別れって辛くないんじゃないかなって。でも、そんなこと全然ないの。馬鹿だって思われるかもしんないけど、永遠だって信じてたんだよ。彼の言葉だって信じてた。ずっと一緒にいようとか、ずっと真樹だけだよとか、今考えたらできっこない約束なのに、それでも信じてた。もしかしたら、このまま結婚までいくんじゃないかとか、ほんっとに馬鹿みたいに永遠信じてた。それでも、いつか別れがあることも知ってたんだよ。でも、覚悟なんてできてなかったみたい」
真樹が視線を再び智へと戻すと、彼は思ったよりも悲しそうな顔をして俯いていた。
智にそんな顔をさせてしまったという後悔で、真樹は目を逸らさずにはいられなかった。優しすぎる人のそんな顔を見たくはない。こんな、今にも泣き出しそうな顔を。真樹はこれ以上話す言葉も見つからなくなってしまい、黙り込むしかなかった。
そんな真樹の横で智は、ゆっくりと口を開いた。
「覚悟したって、いつでも別れは辛いよ。別れっていうのはね、いつでも覚悟を上回るんだ。どれだけの覚悟を持ってても、辛いのなんて当たり前なんだ」
智は一度も真樹のほうを見ずに言っていたが、確かに真樹が泣いていることだけはわかった。真樹は頬に流れる涙を拭おうとせず、真っ直ぐ夜空を見上げていた。
「きっと、しばらくは忘れられないよ。何をしてても、ずっと、面影だけがついてまわってくるよ。嫌になるくらい。でも、絶対に、忘れようとしないでほしいんだ。後悔しないでほしいんだ、彼を好きになったこと」
「……なんで」
一度涙を流して止まらなくなった真樹は、しゃくり上げながら、何とか言葉を発した。智はそんな真樹に初めて視線を向け、また続ける。
「俺は、真樹ちゃんと付き合ってた彼のことを何も知らないよ。彼がどんな人だったとしても、この先も何度も腹が立って、彼のことを悪く言うときはあるかもしれない。自分が好きだった人のことを悪く言うな、なんてそんなことは言わない。好きだったから、裏切られたことに腹も立つんだから。でもね、好きにならなきゃよかったって、そんな後悔だけはしないでほしい。彼を好きだった自分のことまで、否定しないで、嫌いにならないでほしいんだ。誰かをこんなに涙が出るぐらい好きになれた自分の心を、嫌いになることなんてないんだ。馬鹿みたいに永遠を信じてたことに、後悔なんていらないよ。次は今をもっと大事にすればいい。全ての出逢いに意味はあるっていうけど、別れにもきっと、意味はあるんだ。今はただ辛いだけの事実でしかなくても、意味なんて後付けで、そのうちわかるんだから」
ポタポタと涙を膝の上に落としていく真樹をしばらく見つめたあと、智は、真樹のその震える肩を引き寄せた。
もう随分長い時間、この子はここにいたんだろう。身体がすっかり冷えていた。こんなに冷え切っていたなら、何か温かい飲み物でも買って来ればよかったと、智は真樹を抱き締める腕の力を強め、柔らかい髪をゆっくりと撫でた。
「智くん」
そうすると少し落ち着いたのか、真樹はか細い声を発した。
耳元で「ん?」と智の優しい返事が聞こえるのを確認してから、真樹は続けた。
「智くん、何かあったの?」
「……どうして?」
「だって、なんか、切実っていうか。真に迫ってたような気がしたから。智くんも、もしかして私と同じような経験したのかなって」
耳元でまた、智がふっと笑う声が聞こえる。
「こう見えても、真樹ちゃんより三年長く人生やってんだぞ。こんな経験だって少なくないよ」
智から少し離れ、真樹と智は見つめ合う形になった。
智の顔をまじまじと見つめてみたが、やはり整っている。こんなに優しくて、端正な顔立ちで、その上高学歴な彼を振ってしまうような馬鹿な女がどこにいたのだろう。
智は、しばらく真樹から目を逸らさないでいた。真樹も、少し戸惑いながらその視線を受け止めていたが、やはり先に目を逸らしてしまった。
帰ろっか、と智は立ち上がり、続いて真樹も立ち上がる。
智の隣を歩くことなんて、幼い時から何度もあることなのだが、今、隣を歩く彼が大人びて見えた。年上なのだから、それが普通なのかもしれないが、なんせ智くんは幼さが抜けないでいる人なのだ。
だから、妙に緊張する。
歩幅をわざわざ合わせてくれることに、少し嬉しくなる。真樹を歩道側に寄せてくれるところも、「何がいい?」と自動販売機で温かい飲み物を買ってくれる優しさにも、今は涙が出てきそうなのを、真樹は必死で堪えた。
「じゃあ、風邪ひいちゃダメだよ」
真樹の家の前で、智はそう言って微笑んだ。家の門を後にしようとする智に向かって「あの、」と真樹は思わず声を上げていた。
「智くんは、どうして振られちゃったの」
デリカシーの無い質問だったかと、言った後少し後悔したが、智はそれにも「参ったなあ」と、照れ笑いして答えてくれた。
「お互い、まだ好きだったんだけどね。相手のご両親に理解してもらえなかったんだ。俺はだいぶ早い段階で親に打ち明けてたんだけど、彼のほうがどうしてもさ。それでも、俺は好きだから必ず理解してもらうつもりでいたんだけど、結果的に別れさせられちゃったんだ。最初はへこんだけど、真樹ちゃんや、真樹ちゃんの家の人だって俺たちを見ても何も言わないから、結構安心してた。気遣ってくれてたのかもしれないけど。それより、俺が振られたってよくわかったね?」
「……うん。いや、なんとなく、ね。うん」
とりあえず返事はしてみたものの、困った。
肝心の智は、じゃあ、となんとも爽やかな笑顔を残して立ち去ろうとしていたし、それ以上聞いてはいけない気がした。
思えば、幼い頃からモテていたはずなのに、彼女の噂は何一つ聞いたことがなかった。
「智くんったら、いつもかっこいいお友達ばかり連れてるのよ」と嬉しそうに母が話していたのを思い出す。
いつも近所で智と会うとき、真樹も真樹の母親も気を遣っていたわけではない。隣にいる人をただの男友達だとばかり思っていただけだ。
「智くん!」
思わず真樹は、智を呼び止めた。振り返った智は、不思議そうに真樹を見つめる。
いつからなんてわからない。中学一年で真樹が淡い恋心を抱いたときは、すでにそうだったのかもしれない。
失恋より、振られた気分だ。
「あの……お互い、頑張ろうね。次の恋」
そう言ったときの智は、今まで見たどんな笑顔よりも、一番乙女だった。
―― fin ――