その四.自分では決して気づけない何か
廃デパートの玄関ホール。
ホールの中央にはシャンデリアの残骸が転がっている。大理石の床にはチラシや酒瓶などが転がり、宿の無い者達が仮住まいにしていた痕跡が残されている。
「ひどい有様ですね……」
入ってすぐに、吹雪はほこりっぽい空気に眉をひそめた。
街の賑わいは急に遠のき、犬の吠える声だけが微かに聞こえる。
足下を見下ろすと、何枚かのチラシが落ちていた。
「ん……?」
そのうちの一枚がふと気になり、吹雪は近づいた。
そのチラシには、絡み合う蛇をモチーフにした優美な絵が描かれている。
「……へぇ、綺麗な絵ですね」
その絵の出来がなかなか見事なもので、吹雪はじっくりとチラシを観賞する。
絵の下にはかすれた文字が書いてある。ほとんどが色あせてしまっている中で、かろうじて判読できる大きな文字を吹雪は読み上げた。
「クチ、ナワ……? 命を尊び、ええと……来世の――あ、宗教ですか」
「グズグズするな、小娘」
先にホールの奥へと進んでいた時久が急き立ててくる。
吹雪は少し肩をすくめ、チラシから視線をそらし歩き出した。
時久はエレベーターホールに立っていた。エレベーターは三基あるが、さすがにどれも機能を停止しているようだ。それらの隣には、金属製の案内板が掲げられている。
難しい顔をしている時久の隣に立ち、吹雪は案内板を見上げた。
「地上六階、地下一階……この全ての階層にぎっしりと化物がいるんでしょうか」
「それは無い。この様子では棲み着いている化物は恐らく十体以下。それに社長の話だと、今回は貴様の腕試しらしいからな」
「ふむ……では、まずはどの階から攻めましょうか」
「地下には絶対にいるな。大抵どんな化物でも地下を好む」
「悔しいですが、同意見です。化物は本来日の光を好みませんからね」
「悔しいとはなんだ貴様。俺と意見が被るのがそんなに嫌か」
「……私と意見が被って、どう思いました?」
「悔しい。――それよりもだ、小娘」
時久は唸り、吹雪を見下ろした。
二メートルにも達しそうな巨躯に、いびつに歪んだ左目の傷痕。そんな大男に睨まれれば、常人なら竦み上がるに違いない。
しかし、吹雪はその威圧感にすっかり慣れてしまっていた。
「小娘じゃなくて吹雪です。――それで、何か?」
「昨日も言ったがな、俺は子供のお守りなど御免だ」
「はぁ」
吹雪はやや渋い顔で相槌を打つ。
時久は指を三本立て、話しながら折り曲げいく。
「貴様に言っておくことは三つだ。俺の足を引っ張るな。俺に口答えするな。俺の言うことには全て『はい』で答えろ。貴様はこれだけ守れば良い。わかったな?」
「Ja,ich verstehe《はい、わかりました》」
「……いいぞ、その拗くれた正直さ。ますます嫌いになれる」
「……あの、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
傷痕を引きつらせて笑う時久に対し、吹雪は軽く手を上げる。
すると時久は笑みを消し、軽く顎をしゃくった。
「特別に許可してやろう。さっさと言え」
これから質問をするたびにいちいち許可が必要なのだろうか。吹雪はやや眉をひそめつつ、ずっと気になっていたことを問いかけた。
「……私、何か貴方に嫌われるような事をしたんでしょうか?」
「それが質問か」
「えぇ。せいぜい初日に斬り合ったくらいしか思い当たる節がなくて」
「ふん……なんだ、そんなことか」
時久はふっと息を吐き、どこか呆れたように目を閉じた。
そんな彼に、吹雪は畳みかけるようにして問う。
「申し訳ないのですが、それ以外に本当に思い当たる節がないのです。それとも、知らない間に私は何か失礼を……?」
「特に何もしていない。ただ――一つこちらからも聞くぞ。良いか?」
「えぇ、どうぞ。なんでも」
やや戸惑いつつ、吹雪は促す。すると時久は目を開け、吹雪を見た。
その瞬間、吹雪は思わず首をすくめた。
睨み付けられたわけではない。時久はただ、まっすぐに吹雪の目を見ただけだ。
なのにどういうわけか――吹雪は、そのまなざしに一瞬気圧された。
「ならば聞くが――貴様、本当にそんな性格なのか?」
「……は?」
吹雪の口から呆けた声が出る。
しかし構わず、時久は吹雪の目を見たまま無遠慮に言葉を連ねる。
「誰も気づいていないようだがな、どうも貴様は言動のいちいちが嘘くさい……元はそんなに素直な性格ではないだろう」
「なに、を」
「昨日からそれなりに俺に反撃してくるようになったが、恐らくそっちの方が地の性格に近いだろう。俺としてはもっと嫌ってもらった方がやりやすい」
何を言っているのだ、この男は。
吹雪は目を見開き、何度か口を開く。時久の言葉を否定してやりたいが、呆れてしまったのかどうにも言葉が出てこなかった。
言葉を失う吹雪に対し、時久は肩をすくめる。
「俺が貴様を嫌う理由は単純だ。真意がわからん奴は気に喰わん……それだけだ。――ひとまず最上階から攻める。行くぞ」
言いながら時久は踵を返し、エレベーターの脇にある階段へと向かった。
カンカンと足音を立てながら上へと登っていくその姿を、吹雪はただ呆然と見送る。
やがて、その唇は笑みの形を作った。
「……何を言ってるんでしょう、あの人」
薄く笑い、吹雪は時久を追って歩き出そうとする。
掌にかすかな痛みを感じた。
「ん?」
見れば、吹雪はいつの間にかきつく拳を握っていた。ゆるゆると手を開くと、爪が食い込んでいたのか掌に小さな傷が付いている。
「……何故、こんな」
吹雪は目を見開き、薄くにじんだ血を呆然と見つめた。
そこで、玄関から風が吹き込んできた。
「寒……」
冷たい冬の風はエレベーターホールにまで届き、寒気を感じた吹雪は肩をさする。
そして初めて、吹雪は自分の背筋が冷や汗で濡れていることに気づいた。