3.少女は動揺し、遅刻す。
ドクドクと跳ねる心臓を胸の上から握り潰さんとするかのように、椿は胸を押さえる。
額から一筋流れたのは、椿には不似合いとも言える冷や汗だ。
隠れるように校舎の隅に移動して、椿は口を開く。
「赤夜、あんた動いた?」
『……少し』
反省していることがよく分かる低いトーンで、影から応えが返る。
しかし、同時にその声には多分に驚きが含まれていた。
それは椿も同じことで、足元の影に視線を落とす。
影はその主の動揺を写しとったかのように揺らいでいる。
けれどこのような現象は、普通なら考えられないことだ。
影を作り出す光源の移動や、その影の主が動かない限りは。
椿の影は違う。
影の中に、意志を持ったアヤカシ、鬼の赤夜が棲んでいる。
だから、椿の影は自由に動くのだ。ただし、離れられない主の傍で。
「まさか……見えてたっていうの?」
そんな筈はない、と否定するが、あの少年の反応はあまりにも真に迫っていた。
『もしかすると、妖力か霊力か、なにがしかの力が強い者なのかもしれんな』
「……ないない! そんな奴、いる訳ない!」
赤夜の言葉を強く否定し、椿は首を横に振った。
『……椿』
椿は口を引き結んで、泣きそうになる自分を叱咤する。
椿の家系に生まれ出る者はアヤカシの世を見、人でありながらアヤカシを従える血を持っていた。
しかし、歴史の流れの中でその血の力は廃れ、アヤカシを見る者は血族中でも片手で足りるようになった。
なおかつ、椿のようにアヤカシを従えるだけの力を持った者などほとんどない。
いても、もう黄泉からのお迎えが来そうな老人ばかりだ。
だから椿は重宝され、崇められ、そして無理解という名の篭の鳥になるしかなかったのだ。
「いる訳……ないの」
『……椿』
椿の口から漏れた声は、普段の彼女からすればあまりにも弱々しかった。
化学実験用の白衣を来た、あの少年の姿を思い出す。
何にも興味はない、関心はないとでも言うかのような、醒めた瞳。
あの双眸は、椿を映していたけれど、本当には椿を見ていなかった。
『……椿』
彼が見ていたのは、あくまで椿の影だけだ。
椿は、こんなにも彼のことが気になっているというのに、それはなんだかとても悔しいことのような気がした。
『……椿っ』
そう、だからこの胸の中にあるもやもやは、苛立ちなのだ。
間違ってもそう──寂しさなんかじゃないのだ。
『……椿っ、聞いているのか!』
椿が物思いに沈んでいる中、この鬼にしては珍しく荒々しい一喝が飛ぶ。
しかし、椿も椿で胸の奥を冷たい風が吹き抜けていくような感覚に苛立っていて、負けじと言い返した。
「なによっ、人が考え事してんのに邪魔しないでっ」
影を睨みつける椿に、赤夜は深いため息をついてみせた。
『……随分前に予鈴が鳴っているぞ』
このあと校舎内に椿の罵り雑言と荒々しい足音が響き渡ったのは言うまでもない。