10.名前を教えて。
得体の知れないものに立ち向かわんとする、その姿勢。勇気か無謀かと言えば、おそらく彼女の場合は前者なのだろう。
そしてまた、おそらく。
彼女は『あれ』に、対抗する術を、持っているのだ。
「君、は」
『あれ』を追い払えるのか?
訊こうとした。やめた。訊いたところで、なにも変わらない。訊いたところで、久人にはなにもできず、彼女は──行くだろう。
「はっきり言いなさいよっ! 苛々させるわね!」
眦を吊り上げて、椿が胸倉を捻り上げてくる。こっちは一応怪我をしているというのに、容赦ない。
(なんか……近所の猫みたい、だ)
そんな場違いなことを考えたら、少しだけ笑えた。また睨まれた。
やんわりと彼女の手を解き、チクチク背中に刺さっているガラス片がいい加減痛くて、着ていたカッターシャツを脱ぎ始めた久人に、けれど彼女の悲鳴が上がる。
「なっなっ! なにしてるのよ!」
「……痛い、から」
そういえば椿──女の子がいたのだった。暗闇でいきなり相手が脱ぎ出したらそれは驚くだろう。
久人は少し動きを止めて考えてから、
「……Tシャツ着てるし」
と、ひと言断りともつかない呟きを落として、もそもそとシャツを脱ぎ、机の上に放り投げた。少しは痛みもマシになった気がする。
ほんの僅か、沈黙が降りる。
遠いところで、再び窓の割れる音がした。ぱっと椿が顔をそちらに向ける。
「……行く?」
「っ、あたしだけよ。判ったでしょ、あんたは邪魔なのよ」
「うん」
素直に応じると、椿は明らかに拍子抜け、という顔をした。
だが、さすがにここで追い縋るほど久人も愚かではない。
自分の長身は、彼女の盾くらいにならなるかもしれないが、彼女への壁になってしまう可能性も同じくらいにある。相手がなにか判らない以上、そして彼女の方が相手に詳しい以上、彼女に従うのが正しいのだろう。
「待ってる」
「なっ?! 莫迦ね、帰りなさいよ!」
「終電は過ぎた」
「ッ?!」
椿が絶句する。友人の家に泊めてもらう予定だったから、仕方がない。
それに、久人は怪我を負っていて──彼女についていくことはできない。
「君の、帰りを待つ。怪我なく、戻って来てくれ」
女の子をひとりで行かせるしかないのに、その子が怪我なんてしたら、久人が恰好悪過ぎる。
椿はひとしきり口の中でもごもご言ったあと、「……判ったわ」と言い捨てて、肩を翻した。
「いってらっしゃい、姫」
「行ってくる──ってなによあんたその呼び方?!」
猫が全身の毛を逆立てた。
……じゃない、椿が赤やら青やらに顔色を目まぐるしく変化させて、再び久人の胸倉を掴んだ。
だが久人の上背があるものだから、掴まれても全く苦しくないのが実状だ。
「ひとの下の名前を呼ぶのは慣れてないけど、君の苗字は、知らないから」
「~~ッ!!」
椿は声にならない声を上げて久人を突き飛ばすと、結局苗字を教えないまま教室を飛び出して行った。