巫美里は何かを考えている。
「ここがあなたの家よ」
車から降りた巫が天獄荘を指差して言った。
そのポーズは修学旅行で見た、北海道大学にある銅像そっくりだった。だが、今はそんな事関係ない。
「…………」
言葉にならない。それが俺の反応だった。
始めて見る建物を自分の家だと言われて、気の利いた返事が出来る人などそうはいないだろう。
それも、巫の家のような豪邸ではなく、こんな今にも崩れてしまいそうな頼りない建物なのだから尚更だ。
「どうしたの?もしかして言葉を忘れてしまったの?
まあ、あなたが今まで人間の言葉を話していた事への衝撃に比べれば、あなたが言葉を忘れてしまったことぐらい取るに足らない出来事だわ」
「おい、いくら一宿一飯の恩があったとしても、俺にも我慢の限界はあるんだぞ」
そう、これはもう我慢の限界だった。
「巫、お前の目的は何なんだ。俺なんかに構う理由は何なんだ。
家族にすら見捨てられ、家も家族も未来も失った惨めな男に関わろうとする理由は何なんだよ。
巫はお金持ちだから、俺みたいな下市民を助けてるのか?その余った金を使って。
そんなのは要らないんだよ。
俺は本来あの時死ぬはずだったんだ。それを止めたのは巫、お前だ。
その事は、一応感謝している。自ら死ぬことの愚かさを、俺は知れた。
だけど、それを知ったから、それを知ったせいで、俺はもう自殺出来なくった。
いくらつらい境遇に追い込まれても、いくら多くの借金を背負っても、世界に独りぼっちになったとしても、俺はもう自殺を選べなくなった。
そういう心に俺は成ったんだ。成ってしまったんだ。もう一生変わることはない。
俺は、このままなんの希望もなんの夢も持たないまま、ただ無気力に死ぬ時を待たなきゃならない。
俺がこう成ったのも巫の責任だと言ったら、お前はそれを否定するか?」
八つ当たりだと思った、言いがかりだと思った、我が儘だと思った。だけど、俺は最後の一言まで心の叫びを巫に投げつけた。
軽蔑されても良い、叩かれても蹴られても良い、罵詈雑言の限りを浴びせられても良い、それがこの思いを口に出すことの報いなのだとしたら。
だから俺は、後悔がないよう、思いの丈をそこまま巫にぶつけた。
「貴様っ、お嬢様に助けていただきながらその態度はどう言うことだ」
最初に反応したのは、意外なことに黒岩だった。
黒岩はその綺麗に剃り上げた頭に血管の筋を浮かせ、黒人のような黒く威圧感のある顔を赤くし、今にも飛びかかりそうな目つきで俺を睨んでいた。
実際にはサングラスを掛けているので、黒岩の目を直視することは出来ないのだが、サングラス越にもはっきりと伝わる殺気をその視線は孕んでいた。
「黒岩、止めなさい。
私は別に怒っていないわ。だから黒岩、少しの間席を外してくれるかしら」
そして、さらに意外なことに、激昂した黒岩を止めたのは巫だった。
巫は、これまで見たことがない落ち着き払った態度で黒岩を車に下がらせた。
黒岩が席を外したことで、ここ、天獄荘の入口には俺と巫の二人だけが残された。
「悪かったわね。幼稚園の頃から私のボディガードをしているから、私のことになるとムキになるのよ。
何時もは礼儀正しくさせているんだけど、どうも頭に血が上りやすい体質なのよ」
巫は車に戻った黒岩を庇うようにそう言った。
まるで、自分は全く意に関していないような、そんな口調で。
「巫。巫は怒ってないのか?」
「別に怒りはしないわ。あなたの言っていることが珍しくまともだったしね。
それに、私も今から話そうとしていたところなのよ。
あなたのような生きる意味を見失った死に損ないに、この私が親切にも手を貸してあげた理由をね」
巫はそこで、イタズラっ子のような笑みを浮かべた。
先述した通り、巫の容姿はかなりのハイレベルだ。そんな巫の小悪魔のような笑みに、不覚にも俺は動機が早くなるのを感じた。
「まず初めに、あなたの質問に答えるとするわね。
私は、あなたがそんな事を言いだしても、否定はしないわ。
客観的に見て、私の行動が原因であなたがそうなってしまったのは事実ですもの」
巫は今までになく真剣な顔で話し出した。
俺も巫が作り出すその雰囲気に呑まれた。
辺りには人影など無く、ここが住宅街だということを忘れてしまいそうなくらい静まり返っていた。
その、空気が張りつめたような空間に、巫の声だけが広がっていた。
「と言うか、そもそも私にはその"つもり"が初めからあったのよ。
昨日の晩、日課のジョギングの最中にあなたが自殺しようとしているのを発見した瞬間、私にはその"つもり"が生まれたの。
あなたがもう二度と自殺できないようにするための"つもり"がね」
「それは……どういう意味だ?
巫の言葉の通り理解すると、巫は俺を死ねなくするために、自殺を止めたって言うのか?」
「それで、間違いはないわ」
巫の言葉に俺の頭は混乱した。
つまり巫は、俺が今後自殺を選択できないようにする"つもり"で俺の自殺を止めたと言うのだ。
意味が分からなかった。何故そんな事をしたのか理解できなかった。
「私の目的は、観察なの」
俺の混乱を察してか、巫は結論を端的に述べた。
「観察?俺を?」
「そうよ。正確にはあなたという個人じゃなくて、一度自らの意志で死を決意した人物、という抽象的存在の観察なのだけど」
「そんなものを観察して、なんになるんだ?」
「それは、まだ言えないわ。私はまだあなたを観察対象としてしか見れていないもの。
もしあなたが私の理解者と成ってくれたなら、その時に話すわ。
とにかく、今はあなたの返事が欲しいわ。
どう?私の観察に付き合ってはくれないかしら?
勿論、協力してくれるというなら出来る限りのことをするわ。
その一つ目がこの天獄荘よ。ここは外観こそ悪いけれど、内装はそれほど酷いものじゃないわ。ここの一室を自由に使ってもらって構わないわ。
お金のことも心配いらないわ。
高校へ通う学費も、生活費も不自由がないように支払うつもりよ。
もし、後見人が必要なのだと言うならそれも手配するわ。
まあとにかく、生活水準の保障はさせてもらうわ。
こんな好待遇、そうそう転がっているものじゃないわよ」
巫の目には少し不安が浮かんでいた。いつもの自信に満ち溢れた目ではなく。
「もし、俺が観察されるとして、俺は何をすればいいんだ?何をされるんだ?」
「何もしなくて良いし、何もしないわ。
ただ生活してくれればいいの。一度死を覚悟し、死を受け入れた者として、生の世界を生きてくれればそれで良い。
私は、生きているあなたの姿を観察するから。」
巫の言っていることは無茶苦茶だった。
これまでのことを説明すると言いながら、一番大きな謎を放り込んできた。
正直言って即答できるような質問ではなかった。俺の今後の人生がこの一瞬で大きく変わろうとしているのだ。
俺は、少しの間黙って考えた。
考えたことでどうにかなるとは思わなかったが、考えた。
いや、俺は考えるフリをしただけだった。
だって、この時俺が選べる選択肢なんて一つしかなかったのだから。
「分かった。俺は巫に観察されるよ」
十二月の暮れの昼下がり、俺は寒空の下でそう宣言した。