取りあえず、住所不定から脱出
あの後、巫に叩かれて放心していた俺は、巫家の家政婦さんに布いてもらった布団で眠りについた。
本当は、もっと考えなければならないことが有ったのだけど、高そうで寝心地が良い布団にくるまれていると、すぐに瞼が重くなった。
次に瞼が開いたのは、次の日の正午を回った時刻だった。
つまり、今である。
「いくら寝たところであなたみたいな死に損ないの頭には、休めるべき脳味噌が入っていないのだから全て無駄と言うものよ」
朝から見たくもない顔を見てしまった。
いや、別に巫がブサイクだとかそう言う話をしているわけではない。むしろ巫は美人だった。
絶世の美女といっても過言ではないほどの美女だった。
長い黒髪と対照的な透き通るような白い肌。はっきりとした目鼻立ち。モデルのようなすらっとした立ち姿。
唯一悔やむべきは、その体に凹凸があまりないということだ。つまり、巫には胸ふがっ!
「どうやらあなた、礼儀というものを知らないようね。
良いわ、この私が直々に教育てあげるわ」
俺の顔面を踏みつけながら、巫がそう言った。
どうやら、心の声が口に出ていたようだ。これだから、寝ぼけというのは怖い。
それにしても、朝っぱら(もう正午を回っているのだけど)から美女に顔をグリグリと踏まれるなんて、特殊性癖の持ち主なら昇天しかねない状況だ。
残念ながらというか、幸い、俺にそんな性癖は無かった。
というか、なんの躊躇いもなく人の顔を踏みつけるってどういうキャラだよ。
俺が知ってる巫美里は、もっと物静かで目立たない地味目な女の子のはずだぞ。少なくとも、SM女王様ではないはずだ。
「とにかく、早く顔を洗ってきなさい。
今日はこれから行かなければならない場所があるのよ」
SM女王様もとい、巫はそう言うと俺の顔から足を外して部屋から出ていった。
俺は、巫が出て行った障子に向かってこう呟いた。
「洗面所はどこだよ」
♦♦♦♦♦
巫家の家政婦さんに洗面所の場所を教えてもらい顔を洗ってサッパリした俺は、道にというか廊下に迷いながら、やっとの思いで玄関までたどり着いた。
靴を履いて外へでると、昨日の車が目の前に停車していた。
運転席と助手席には既に巫と黒岩さんが乗っていたので、俺は急いで後ろの席に座った。
「遅かったわね。
まあ無事にここまでやってこれたことだけは誉めてあげるわ。
黒岩、車を出してちょうだい。今日は時間がないのよ」
「お前、俺のこと相当馬鹿だと思ってるだろ」
「あら、違ったの」
「合ってるけど。
って、そんな事よりどこに向かってるんだこの車は。
もし、俺の家に送ってくれようとしてるならそれは大きなお世話だ。だって、俺にはもう……」
「家なんてものはないのよね。知ってるわよそれくらい。
私を誰だと思っているの、巫美里よ。知りたいことは何でも知れる、それが私なの」
巫、当然の事のようにそう言った。
日本有数いや世界有数の大企業、巫グループの一人娘のともなれば当たり前の感覚なのかも知れないけど、知りたいことは何でも知れるっていうのは、ちょっと、いやかなり怖い。
「やっぱり知ってたのか。だから昨日一晩泊めてくれたのか?」
「まさか。私があなたの身に起こったことを知ったのは今日の午前中のことよ。
昨日の段階じゃあなたみたいな死に損ないのことなんてこれっぽっちも知らなかったわ。
そう言えばあなた、私のクラスメイトだそうね」
「そこから知らなかったのか?!」
「冗談よ。もしあなたが本当に見ず知らずの人物だったら、あの程度では済まなかったわ。
さすがの私もクラスメイトが一人闇の道に堕ちるのというのは、心苦しいものがあるわ」
良かった。巫のクラスメイトで本当によかった。
俺は心の底から、俺と巫を同じクラスにしてくれた高校の先生方に頭を下げた。
というか、闇の道って何だよ!
「それじゃあ巫、この車が向かっている場所が俺の家でないとすると、俺は今どこに連れて行かれているんだ?」
「あら説明していなかったかしら」
してねえよ。俺は、昨日から何一つ説明なんてされちゃいねえよ。
俺は、心の中で毒づいた。もし口に出したりしたら、俺は闇の道に墜ちてしまうだろう。
だから、闇の道ってなんだよ!
と、そんな一人ボケ一人ツッコミを心の中で繰り広げていた俺に、巫が衝撃的な一言を放った。
いや、その言葉自体には何の衝撃もない。その言葉を聞いた俺が衝撃を受けたのだ。
何故なら巫が、
「これから行くのはあなたの家よ」
と、言ったからである。
♦♦♦♦♦
【天獄荘】
振動1の地震で倒れてしまいそうな、継ぎ接ぎだらけのその建物に掲げられた看板に、そう書いてあった。
天獄荘
天国でも地獄でもなく、天獄。
そこが一体どんな場所かは想像も付かない。
ただ一つ言えることがあるとすれば、天獄の名を冠しているその建物が、周囲の世界から切り離された別の時空の中に建っているようだったということだけだ。
天国でも地獄でもなくその間。二つの対なる存在の狭間に生まれた混沌に建っているようだった。