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成仏に必要なこと

 宮野千春。俺がリッシーとして記憶している赤ん坊は、確かにそう名乗った。

 その名前に、宮野さんの両親が反応した。


「馬鹿なこと言わないでちょうだい!私の娘は十年以上前に死んでいるのよ?

 今ここにいるはずがないじゃない」

「そうだ、こんな事有り得ない」


 宙に浮かぶ千春を見上げる二人の顔には、同様に驚きが広がっている。


「確かにあたしは死にました。

 でも、死んでからもあたしはずっとあの部屋にいたんだよ」


 あの部屋。それは天獄荘202号室のことだろう。


「ずっと、何か心残りをこっちに残して、天国に行けないまま、あの部屋に居たんだよ」


 千春の目からは、涙が溢れだしていた。

 さっきまで、俺の体を介していたその感情は、千春本人からダイレクトに放たれていた。


「それじゃあ……それじゃあ本当に千春なのか?」


 信雄氏が信じられないといった様子でまじまじと千春を見上げた。

 同時に、春美さんが短い悲鳴を上げて口元を両手で押さえた。

 二人とも、千春の言葉を信じたのだろう。もともと、親がこの顔を見間違えるはずもなく、それが十年以上前のものだとしても、片時も忘れたことのない顔なら尚更だった。

 千春が姿を現したその瞬間から、二人には彼女が自分達の愛娘だと言うことに気付いていたに違いない。

 ただ、常識というなの枷が、その思考を無意識にシャットアウトしていたのだろう。

 千春は、驚いているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのかよくわからない顔をしている両親に涙を流したまま笑いかけた。


「今まで帰って来れなくてごめんなさい。

 ただいま」


 悲しみの感情を押し殺して、努めて笑顔を保っていた千春の姿を見て、先に両親の方が耐えきれなくなっていた。


「私たちの方こそ、ごめんなさい……。

 私は、あなたを見殺しにしてしまった。取り返しの付かないことをしてしまった。

 千春、あなたは私を怨んでいるのよね?あなたを見捨ててしまった私達を憎んでいるのよね?だから、未だに成仏出来ていないのよね?

 私は、千春に殺されるのなら本望よ」

「それは私も同じだ。

 こんな不甲斐ない父親だが、最後くらいお前の望みを聞いてあげたい」


 両親の悲痛な願いを、千春は小さく首を横に振ることで否定した。

 その仕草に、二人は打ちのめされたように目を見開いた。


「どうしてなの?あなたの心残りは私達を怨んでいた事じゃないの?」

「違うよ、お母さん。あたしはお母さんもお父さんも大好きだよ。怨んでなんかいない」

「だが、お前が死んでしまったのは私達のせいなんだよ」

「それも知ってるよ。だけど、あの時三人で死のうとしたのは、あたしにこれ以上辛い思いをさせたくなかったからだよね?それも分かってるから。だから、私は二人を憎んだりしないよ」


 千春は、泣き笑いのまま、驚くほど晴れやかな声でそう言った。

 その言葉は建前なのではなく、正真正銘の千春の本心だと、俺は直感的にそう感じた。


「それじゃあ、何を思い残していたの?」


 春美さんが訳が分からないという風に、宙に浮くわが子に訊ねた。

 訊ねられた千春は、少し迷ったような顔をしてから、ゆっくりと口を開いた。


「あたしが思い残していたこと、それはね……」


 千春は言いながら、宙をゆっくりと歩いた。

 まるで、そこには俺達に見えない透明な階段があるかのように、千春は宙を一歩づつ歩いて降りてきた。

 千春が降りたった場所、そこは巫に両手拘束された宮野さんの目の前だった。


「あなたは、誰なの?」


 今まで呆然としていた宮野さんが、千春の顔を見上げて訊ねた。

 その声に生気はなく、今にも消えてしまいそうな弱々しさがあった。

 千春は、涙の筋ができた宮野さんの目元をなで、それから頭をぽんぽんと二回叩いた。いや、俺にそう見えただけで実際は触れていないのだろうけど。


「あたしは、妹を守るために今日まで幽霊だったんだと思うの。

 あたしが生きられなかった時間を、妹のあなたには楽しんで生きて欲しいの」

「妹?私が?

 じゃああなたは私のお姉ちゃん?」

「そうだよ」

「ちっちゃいお姉ちゃんだね」


 悲壮感で満ちていた宮野さんの顔に少しだけ明るさが戻った。

 意識がはっきりしていないのか、眠たげに半開きになった瞼の奥の瞳で千春の姿を見つめている。

 千春は目を閉じると、両手を宮野さんにかざした。すると、辛うじて保たれていた宮野さんの意識がぷつりと途切れた。

 千春はその様子を名残惜しそうに眺めると、振り返って両親を見上げた。


「今、千尋の中の記憶を少し消しました。

 目を覚ましたらあたしに関する記憶を全部なくしてる。

 お母さん、お父さん、お願いがあるの。

 血は繋がっていないけど、生きている間におしゃべりしたこともないけど、千尋はあたしの大切な妹です。

 妹を不幸にするようなこと、しないで下さい」


 千春は頭を下げた。

 決して激しくない、それでも強い意志が込められた言葉だった。


「私は、どうしたらいいの?

 私は千尋を愛せない。私が愛を注ぎたかったのは千春、あなたなのよ」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにした春美さんが、すがりつくように千春に詰め寄った。


「お母さんの気持ちはとっても嬉しい。だけど、あたしはもうここには居られないの。

 お願い、あたしからの最初で最後のわがまま聞いて欲しいな」


 千春は変わることのない静かな口調でそう言った。


「分かった、約束しよう」


 そう答えたのは信雄氏だった。


「今すぐにとはいかないが、努力してみるよ。

 お前が幽霊になってまで、私たちに伝えたかったことなんだから聞いてあげるのが親というものだ。

 これまで、千尋に対しても千春に対しても、私は真剣に向き合ってこなかった。

 今からでは遅いかもしれないが、私も父親になれるようこれから頑張ってみるよ」

「ありがとう、お父さん」

「私も、私も約束するわ、いつになるか分からないけど、いつかは三人で一つの家族になるわ。

 そして、三人であなたお墓参りに行くわ。それまで、私達の事を見守っていてくれる?」

「うん、約束するよ、お母さん」


 その直後、千春の体がまた眩しい光に包まれた。


「そろそろ、行かなきゃいけないみたい。

 せっかくお母さんとお父さんとお話しできたのに……。

 でも、今度こそちゃんと成仏するからね。お母さんとお父さんが約束してくれたからあたしの心残りはなくなったよ。

 ありがとう、さようなら」


 光に包まれた千春は、そう言うと天に昇っていった。

 後には、すすり泣く夫婦とすやすやと寝息をたてる少女、それから部外者の三人が残っていた。












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