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宮野千春

 ゆっくりと流れるそれは、さながらスローモーションのように俺の網膜に映し出される。

 膝を床についたまま見上げた目線の先にいた人物は宮野春美さん。宮野さんの母親だった。

 さっきまで、一言も発することなく成されるがままだった彼女は今、悪魔のごとき表情を浮かべている。その表情の行き先は、巫によって手を拘束された宮野さんだった。

 俺はその手に光るものを見つけた。

 それが黒岩の血に濡れた包丁だと頭が理解する前に、俺の体は勝手に動いていた。

 これは、比喩でも何でもなく、本当に俺の体は俺の意志に関係なく勝手に動いていたのだ。


 その瞬間、俺の体の支配権は俺の中のもう一人の人物に移っていたのだ。


 俺の体は見えない糸に引っ張られるように起き上がり、宮野さん包丁の切っ先を向けた春美さんの背中に体当たりするように飛びかかった。

 春美さんの体が衝撃に耐えきれず斜めに傾いだ。

 俺の体は、その春美さんの手を殴り包丁をたたき落とした。

 それでもなお、抵抗を続ける春美さんの体を俺の腕が止める。

 

「離しなさい!私は、私はあなたを許さないんだから!

 あなたは私の娘なんかじゃない!私は、あなたなんかの母親でいたくはないの!

 お願い、私の目の前から消えて」


 怒号と言うよりも、悲痛な叫びと言った方がしっくりくるヒステリックな声がマンションの一室に響いた。

 俺は俺の命令では動かなくなった俺の目から入ってくる情報を、他人事のように眺めながらそう言えば春美さんの声を聞くのはこれが初めてだなという場違いなことを考えていた。

 俺の思考がそんな場違いなものになったのは、春美さんの発言を理解出来なかったからに他ならない。

 だが、俺がそれを理解する前に俺の口は言葉を発していた。当然、その口を動かしたのは俺ではなくリッシーなのだが。


「それは、どういう意味?」


 一月の外気より、さらに冷たいその声は俺の知るリッシーのものではなかった。

 もちろんその声は俺の声帯を通って発せられているので、当然俺の声だ。

 だが、トビーやビッツが俺の体で声を発したときそれぞれの個性がでるように、声自体は変わらなくても声色は変わるはずなのだ。

 実際、声色は変わっていた。


「あなたには関係のないことでしょ!これは私たち家族の問題なのよ!

 部外者が口を挟まないで」


 春美さんの抵抗は一層力を増したが、俺の体から逃れることは出来なかった。


「ねぇ、叶」


 その言葉は俺の口から出た。

 リッシーが、俺の体を使って折れに話しかけているのだ。

 他人から見ればおかしな光景だが、幸い今はそんな些細なこと見咎める人間はいない。

 リッシーは、俺にだけ聞こえる、つまり自分にだけ聞こえる小さな声で言葉を続けた。


「叶がどうしてあたしをここに連れてきたのか、やっと分かったよ。

 そう言うことだったんだね。全部思い出したよ。

 これであたしは、未練を晴らすことが出来ると思う。本当にありがとう。

 天国に行っても、叶の事は忘れない」


 俺の目から止め処なく涙が溢れ出ていた。

 でも、俺の目から涙を流させているのは、俺の心ではなかった。


 その時、俺の両腕が輝いた。


 いや、両腕だけではなかった。

 その輝きは見る間に全身にわたり、俺の体はあっと言う間に光に満たされた。

 カーテンが締め切られ暗かったマンションの一室が突如隅々まで光で照らされる。

 その異様な光景に、信雄氏も巫も、拘束された宮野さんも捕まった春美さんも、ぐったりとして意識が朦朧としていた黒岩でさえも目を奪われた。

 俺は体を包む光と共に、体に暖かさが戻るのを感じた。

 さっきまで、体の芯まで凍っているかのように凍えていた筈なのに、今は震えが全くない。

 震えがなくなったのと同時に、俺は体から何かが抜け出ていくのを感じた。

 これまでにない、不思議な感覚。

 憑依の時とも少し違う。

 その何かが抜け出すと、俺の体の輝きは消えてなくなった。と、同時に俺の体の支配権が俺に戻った。

 それが、なにを意味するのか深く考える前に、俺は俺の体から抜け出したソレを見た。


 ソレはさっきの俺よりも輝いていた。いや、ソレが俺の中で光っていたから、俺が輝いているように見えていたのだ。

 ソレは人の形をしていた。赤ん坊ほどの小さな人の形をしたそれは俺の目線より高いところで浮いていた。

 その姿はまるで幽霊のように見えた。と、同時に幽霊とは全く違う姿にも見えた。



「リッシー?」


 俺は自分の意志で動くようになった口でそう問いかけた。

 既に俺は春美さんを離し一人で立っている。

 その俺を見下ろして、ソレは小さく首を振った。

 NOを示す方向に。


「あなたは何なのよ」


 先ほどまでの暴れぶりが嘘のように大人しくなった春美さんが、同じくソレを見上げて言った。

 その声は恐れで震えている。

 ソレはそんな春美さんを見て少し悲しそうな表情をした。ように見えた。


「あたしは、リッシーじゃない。

 本当の名前は他にあるの」


 ソレはゆっくりと口を開いた。

 ソレが声を発すると、さっきまでソレから発せられていた輝きがだんだんと弱まった。

 輝きが引くと、その下から人の顔が現れた。

 その顔を見て、息をのんだ人物がこの部屋に三人いた。

 その内の一人は俺、そして残りの二人は宮野夫妻だった。


「あ、あ、あなた……」

「そんな……バカな……」


 現実を受け入れられていない二人の声が部屋に届く。

 そんな二人を見つめて、ソレがゆっくりと言葉を紡いだ。


「あたしの本当の名前は宮野千春。

 お父さん、お母さんの娘です」










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