悲しみのあふれる部屋で
磨り硝子の奥にあったのはリビングだった。
普段、家族が団欒すべきその場所は非日常的な殺伐とした雰囲気に飲まれていた。
廊下から入ってすぐの所で、黒岩が倒れている。そのしたに広がった血の湖は今も確実にその面積を増やしている。
その傍らにひざまずいている巫は、手がちに染まることも厭わず止血を試みている。
そこから少し離れて、ソファの近くに宮野さんが倒れている。両手首を背中の後ろで縛られ身動きがとれないでいる。声は出していないが、時折嗚咽のような声とも呼ばない声が聞こえてきた。
そこからもっと離れて、リビングの隅に二つの影があった。宮野夫妻だ。夫妻は乱方に巻かれたガムテープで体を拘束されている。露出している肌の部分は多くの殴打の痕で紫色に変色している。
この異様なリビングにおいて、俺だけが何の変化もなく立ち尽くしていた。
(叶!叶ってばしっかりして!)
俺の思考のフリーズを解いたのは、頭の奥底から聞こえてきたリッシーの声だった。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
誰に言うつもりもなく、そんな声が半開きになった俺の口から漏れた。
「うううぅぅ」
早く拘束を解けとばかりに、ガムテープで塞がれた口で呻き声を上げたのは、信雄氏だった。
信雄氏と目があった俺は、宮野さん、巫、黒岩の順に視線を動かした。
宮野さんに動く気配はない。巫は黒岩の腹を押さえるのに必死で他のことに構っている余裕はないだろう。黒岩も同じく。
どうやら、俺にも出来ることがあったようだ。
俺はリビングの隅で小さくなっていた二つの影に駆け寄った。
近く付くと宮野夫妻の惨状がより一層克明に俺の目に飛び込んできた。
赤く膨れ上がった瞼。切れて血が流れている目尻。変な方向に曲がった鼻。
ボクシングの世界タイトルでも争ってきたかのような生々しい傷が、二人の顔のいたる所にできていた。
俺は急いで二人の口を塞いでいたガムテープを剥がした。
「はぁ、助かった……」
口から粘着力の強いガムテープが剥がれる痛みに顔をしかめながらも、信雄氏は安堵の声を漏らした。
それとは対照的に、春美さんは無反応だった。
生気の消えかけた目で壁のどこかをじっと眺めている。
俺達が到着するまでに、この部屋でなにが起こったのか知らないが、そのあらすじは容易に想像がついた。
宮野さんが持っていた包丁。拘束された二人。閉め切られたマンションの一室。
多分、宮野さんは越えてはいけない一線を越えようとしていたのだろう。
どんな恐怖が二人を襲ったのか、俺には想像しかできないが春美さんの様子はむしろ当然のように思えた。
「君、早く体の方のガムテープを解いてくれ」
唇が切れているため、一言発する毎に顔をしかめながら信雄氏が言った。
「それは、いいんですけど、一体何が起こっていたのか話していただけますか?
どうして病室にいるはずの宮野さんがここにいて、あなた方がこんな事になっているのか」
「分かっている。そんなことより早くこれを解いてくれ。
もう体が限界なんだよ」
俺は信雄氏が答えるのを待って、二人のガムテープを剥がした。
きつく体に巻き付けられたガムテープは、容易には剥がれず全てを剥がすのに少し時間がかかった。
俺がガムテープを剥がす間、部屋から会話が消えた。
意識が薄れかけている黒岩に必死に呼びかけている巫の声、啜り泣くような宮野さんの呻き声、ガムテープを剥がす音。
静寂ではなかったが、静寂より息苦しい時間が流れた。
ガムテープを全て剥がし終えると、二人は力つきたように横になった。
俺は取りあえず二人をそのままにし、黒岩が倒れているところへ近づいた。
そんなに長い時間は経過していないのにそこには大きな血の水溜まりが出来ていた。
俺は必死に血を止めようとしている巫の後ろに立った。
こんなに必死になっている巫を見るのは初めてだなと、場違いな感想を抱きながら俺は俺の中にいるもう一人の人物に話しかけた。
(リッシー、お前の力で黒岩を助けられないか?)
(出来ないことはないよ。千尋ちゃんの時みたいに金縛りをかけて血が出る量を少なくできるよ。
だけど、今そんなことしたら)
(出来るならやって欲しい)
リッシーが(叶の体が保たない)と言おうとしたのに被せて頼んだ。
俺の体が危ないことくらい、さっきから全く引こうとしてくれない尋常じゃない寒気と体の震えで大体分かっている。
だけど、俺の体が危ないのは今じゃない。このまま放っておけばいつか死んでしまうだろうが、それは今ではない。
今命の危険に瀕しているのは俺ではなく黒岩だ。だったら、黒岩を助けないといけない。
俺はそう思った。
(どうなっても知らないからね)
俺の思考が少しリッシーに洩れているようだ。リッシーは俺が何か言う前にそう言って折れた。
(ありがとう)
お礼をしたが、それには何も返してくれなかった。
(いくよ。あたしはトビーとかキリーみたいに上手じゃないからほんとにどうなるか分からないんだから!)
リッシーの声が頭の奥で響いたのと同時に、俺の体をこれまでにない冷気が包み込んだ。
一瞬のうちに凍り付けにされたような感覚が皮膚より内側を襲う。
俺に出来たのはじっとその冷気に耐えることだけだった。
歯を食いしばり、握り拳に力を入れる。
それでも、すぐに限界がやってくることを俺は無意識に理解した。
だが、俺の体が限界を迎える少し前に、強烈な冷気は体から消え去っていた。
後には、出血が極端に少なくなった黒岩とそれを目を丸くして見つめる巫が目の前に残った。
どうやら、成功だったようだ。
そのことを確認すると、俺の足から突然力が失われた。
重力に逆らわず、がくっと両膝をフローリングの床に付ける。
その時、目の端で誰かが立ち上がるのを見た。




