病室からの失踪
「叶~大丈夫??」
リッシーの声で我を取り戻した俺は、リッシーの姿をじっと見た。
生後数ヶ月の赤ん坊が、立って俺の顔を見上げて首を傾げている。
俺は自然に膝立ちになり、リッシーと目線を合わせた。
何も知らない無邪気な瞳に、俺の顔が映り込む。その顔は、リッシーとは対照的にひどくやつれていた。
「叶さん、一体何があったんですか?」
背中から聞こえてきた声に振り向くと、三人の幽霊がこちらを見ていた。
トビーと目があった。
その目は悲しいような少し嬉しいような不思議な光を宿していた。トビーはすべてを俺に預けてくれたのだろう。
「宮野さんが居なくなったみたいなんだ。
巫が捜してくれてるそうなんだけど、ちょっといやな予感がするんだ。だから、俺も探そうと思う」
「宮野さんって、この前のあのお姉ちゃん?
叶また出かけるの?」
リッシーの無邪気な質問に、俺は直ぐに答えることが出来なかった。
幽霊には、前世つまり生きていた当時の記憶がない。それは、リッシーも同じだ。
昨日トビーが話してくれたことを当事者のリッシーは知らないのだ。
俺は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「なあトビー、幽霊が憑依した状態で俺の体を俺が操るなんてこと出来ないかな」
俺は湿ってきた目を隠すために、立ち上がり壁を向き背中のトビーに訊ねた。
幽霊のことに一番詳しいのは、一番長く幽霊をやっているトビーなのだから。
「そうですね……出来ないことはないでしょうが、そうなると自分の魂で幽霊を包むことが出来なくなるので、肉体への負担は格段に大きくなると思います。
あまり長い時間それを続ければ、叶さん自身が死んでしまうことだってあり得ます」
その歯切れの悪さから、トビーがそれを推奨していないことは容易に理解できた。
だが、今は迷っている暇がない。
もし大きな代償を支払うことになるとしても、それが出来るのなら俺の選択肢は一つだけだ。
「リッシー、お願いがあるんだ。
俺に付いてきてくれないか?」
「え?あたし??どうして」
「リッシーにしか出来ないことがあるんだ。
俺やトビーやビッツやキリーには、出来ないことが」
昨日のトビーの話が確かだという証拠はどこにもない。
俺の憶測が合っている見込みも少ない。
それでも、可能性は0ではない。
「ふ~ん、わかった。よく分かんないけど、あたしもついて行く!」
リッシーの体が、半透明になりやがて幾つもの小さな光に変わった。
その光は、ゆっくりと俺の体に進入してくる。
凍てつく空気を体に送られているような感覚がして、肩が震えだした。
今までの憑依とは、似ているけど違う感覚だった。
「おっけ~入ったよ」
頭の奥、脳味噌の裏側から明るい声が聞こえてきた。
どうやら、ちゃんと入れたようだ。
俺は軽く体の動作を確認した。
体は死んだ人間のように冷たく、動きもいつもより悪かったが許容範囲だ。
俺はもう一度トビーの顔を見た。
トビーは、何か言いたげに口を少し開いたが、結局何も言わずに閉じた。
「心配しなくても、俺は死んだりしないから。
ちゃんと生きて帰って、トビーを成仏させてあげるから」
トビーは嬉しそうにはにかんだ。
そして俺は、体にリッシーを憑依させたまま部屋を出た。
♦♦♦♦♦
「確かにそこならあの馬鹿二号が行きそうね。馬鹿一号の割には考えたじゃない」
黒岩の運転する車の助手席に座った巫が、鏡越しに俺の目を見てそう言った。
俺はあの後巫と連絡を取り、合流したのだ。
「相変わらず、誉められてる気がしないな……
それと、その馬鹿一号、二号ってのは何なんだ」
「あなたとあのちびっ子のことよ。私の周りには馬鹿が多いから区別するためにそう呼ぶことにしたの。
もちろん、一号があなたで二号がちびっ子よ」
巫はこんな非常事態に、何の動揺も示すことなくいつも通りの口調で話す。
その、無遠慮な口調ななぜか今は暖かく感じられた。
「それにしても、どうして逃げ出したりしたのかしらね。
もしかして、また死ぬ気じゃないでしょうね」
「それは、無いと思う」
「どうしてそんな事が言えるの?ちびっ子は、死にきれなくて病院に運ばれたのよ。
目が覚めたら、もう一度死のうと考えるのが普通じゃないかしら?」
巫の口調は、純粋な疑問を述べていると言うよりも、俺の考えを引き出そうとしているもののように思われた。
巫は、既にある回答にたどり着いていてその回答にある程度の自信と確信を持っている。
だから、俺の考えが巫の考えと同じかどうかを引き出そうとしているのだと、鏡に映った巫の目を見て思った。
「確かにその可能性も無くは無いと思う。だけどそれならわざわざ病室を抜け出すことはない。
病室を抜け出した理由がどこかにあるはず何だ。病室を抜け出さなければならなかった何か重大な理由が」
そこで俺は言葉を切った。
そして、俺の頭の中にある最悪のシナリオを巫に話した。
宮野さんがもう一度命を絶つ事よりももっと最悪な、出来れば当たってほしくない予想を俺は話した。




