あの部屋の70年を見守り続けた瞳
俺は薄暗くなった街を歩いていた。
いや、俺が歩いていたわけではないな。
確かに今歩いているのは俺の体だったが、それを操っているのはトビーだ。
あの後、二人だけで話がしたいと言いだしたトビーは、俺に憑依して勝手に歩き出したのだった。
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一月の風は冷たく、吐く息は真っ白な霧になって僕の顔を覆います。
僕がかじかんだ手を擦り合わせていると、頭の奥から叶さんの声が響いてきました。
「おい、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?
さっき言ってた話しってなんだよ。宮野さんの家族に関係する話なんだよな?」
「そうですね。もう少し待ってください。
長い話になりそうなので、どこか落ち着けるところについてからにします」
それから少し歩いたところに公園を見つけ、僕はそこにあったベンチに腰掛けました。
遊具のペンキが剥がれ、ブランコの手すりや滑り台は錆び付き、寂れた雰囲気の漂う公園でした。
数えるほどしかない遊具は、どれも幾重にもわたってペンキを塗り重ねられており、元が何色だったのかは分からなくなってしまっています。
幼児が遊ぶための砂場は、長い年月を掛けて押し固められ、砂山はもう長い間作られていないように見えます。
まるで、天獄荘のような場所だなと僕は思いました。
あそこもまた、長い年月を経て老い、朽ちその都度修復や増築を繰り返してきました。
僕は、死後幽霊となりあの建物の変遷をただじっと見てきました。
住人がやってきて、生活し、生きることに疲れ、自ら命を絶つ。
そんな光景にも何度も出会いました。
ある者は失恋で、ある者は不甲斐なさで、ある者は幼さで、みんな死んでいきました。
僕はそんな場面に出会す度に己の力の無さを呪いました。
僕はいつでもそこにいたのに、いないのと何ら変わりはありませんでした。
僕があの場所を見続けていたのを見つけてくれたのは、叶さんだけです。
自殺が多数発生する部屋を怪しんだ大家さんが連れてきた霊媒師も僕を見つけることは出来ませんでした。
僕にとって、叶さんの存在はこの世界で一番大きなものです。叶さんのおかげで、僕の見る世界は一変しました。
もう死んでしまった体で言うのもなんですが、叶さんは僕の命の恩人なのです。
命の恩人が困っていれば、何としてもその人を助けたいと思うのが正常な人間の心だと思います。
だから……
だから僕は、叶さんの為ならば幽霊の禁じられた掟を犯すこともいとわない。
そう、心の中で宣言しました。
ちょうどその時、たまりかねた叶さんの声が聞こえてきました。
「おい、何もしてなきゃ風邪引くぞ。その体は俺のだからな」
「はい、すいません。
わざわざ憑依させてもらって、こんな所に来たのには訳があるんです。
今から話すことは、あの三人には出来れば秘密にしておきたいことですから」
もしこの話が三人の耳に入ったなら、最悪三人とも幽霊としての存在が消えてなくなってしまうかもしれません。
「僕が四人の中で一番早くに死んだことはもう話しましたよね?
僕が死んだのが約七十年前、その次がリッシーの二十一年前です。僕はそれまで一人であの部屋の隅に居ました。
僕はそれまでに何組もの自殺を目の当たりにし、この世界に存在していることに苦痛を感じていました。あの当時の私は、今よりも頼りなく不確かな存在でした。
じめじめと湿気のはびこる部屋の隅に何をするわけでもなく、ただ佇んでいました。
ある若い両親が赤ん坊を抱いてあの部屋にやってきたのは丁度そんな時期でした」
僕の吐く息だけが静止した風景を乱し、あとは全てを静寂が覆っていました。
僕の声は、叶さんにしか聞こえていません。
叶さんの反応はありませんが、僕にはしっかりと聞いてくれていることが分かりました。頭の底の奥の方から、真剣な眼差しを向けられているような感覚がさっきから絶えず続いているからです。
僕は、冷たい息を肺に送り込むとそのまま大きく息を吐きました。
ここからは、ある一家の複雑な事情の話になります。どこから話したらいいものか、僕は頭をひねりました。
「その家族は、決して裕福ではありませんでしたがほかの住人になかった生きる希望を持っていました。
それまでの住人は、半分こちらの世界に足を踏み入れているような半ば死人のようなうつろな目をした人達ばかりでしたから。
私は、その家族が部屋に住むようになってから、よく部屋の様子を観察しました。
夫婦は、くたびれた洋服を着て顔には疲れが浮かんでいましたが、その顔に笑顔が途切れることはありませんでした。
赤ん坊は、まだ一歳にもなっていないような乳のみ子でいつも泣いていましたが、とても元気でした。
その家庭には、僕がしばらく感じていなかった"あたたかさ"が溢れていました」
キーンと耳鳴りのするような静寂が、気温の低さと相まって皮膚を刺すように僕の、叶さんの体を包み込んでいました。
時刻は午後七時を回っていました。
日は落ちきり、恐怖さえ覚えるような闇を蛍光灯の冷たい光が照らしていました。
僕はその光の中に二十一年前の光景を見ました。




