俺はクラスメイトの女の子に説教された。
巫グループという名前を知らない人はいないだろう。
巫美里の祖父巫総一朗氏が一代で築き上げた日本有数の大企業。
グループ総売上は小さな国の国家予算を大きく上回るとか。
コンビニエンスストアから不動産、果ては宇宙開発事業まで、あらゆる分野に進出する総合企業だ。
巫美里がそんな超お金持ちの家の子だということを俺が忘れてしまっていたのは、ひとえに巫美里の目立たない人間性によるものだ。
「着いたわよ。早く降りなさい」
いつの間にか車が止まっていた。
俺は巫に促されるまま車から這い出た。
そこで俺が見たのは、立派な日本家屋だった。それはもう、ザ金持ちという感じの高貴な雰囲気漂う建物で、少なくとも俺が昨日見た旧我が家とは雲泥の差があった。
「なにそんな所で這い蹲っているの?
もしかしてあなた、この短時間で二足歩行から四足歩行へ退化したんじゃないでしょうね。
もしそうなら、本当に馬や鹿と同じね」
「いや、別に俺は退化したわけでも馬鹿でもないんだ。
ただ、昨日から何も食べてなくて、それで空腹の限界というか、極限というか、とにかくもう足に力が入らないんだ」
「本当、隅から隅まで死に損ないなのね。
黒岩、この死に損ないを客室に運び込んでちょうだい。それからこの四足歩行の獣に餌を与えなさい。
私は汗を流してくるわ」
「かしこまりましたお嬢様」
ついさっきまで車を運転していた男が浅く頭を下げた。
真っ黒に日焼けした肌と綺麗に剃られたスキンヘッド、それに夜の闇に紛れてしまいそうな黒いスーツとサングラスをしたその姿は、"や"のつく自由業の方にしかみ見えない。
と、俺がそんな風に黒岩さんを観察していると、いきなりこちらを向いて俺に近づいてきた。
そして、なんの躊躇いも、なんの確認も無いまま俺を軽々と担ぎ上げた。
「うわっ。え?ちょっと」
「お嬢様の御命令です。少しの間じっとしていて下さい。
でないと、実力行使に移らせていただかなければならなくなります」
「はい」
黙るしかなかった。
実力行使がどんなものかは分からないが、もしそれが暴力という意味なのだとしたら俺に命はない。
だから俺は、工事現場の土嚢のように運ばれた。そこに、人間の尊厳なんてものはなかった。
四足歩行動物の方が土嚢よりマシだよ。
俺は筋肉質な肩の上でそんな事を考えていた。
黒岩さんは俺の頭を後ろにして担いだので、俺は今どこを進んでいるのか分からない。
今にも刀を腰に差したちょんまげ頭が通りかかりそうな古風な廊下を、右へ左へまた右へと忙しなく進んでいく。
ここは本当に民家なのか?もしかして俺は迷宮に迷い込んでしまったのではないか?
そんな疑問を持ち始めた頃、突然俺の体が地に着いた。いや、俺が降ろされた場所は地面ではなくまだ新しい香りのする畳の上だったのだが。
「そちらのお食事はご自由にどうぞ。
しばらくしたら、お嬢様が参られますので」
黒岩さんは、その人相には相応しくない礼儀正しい態度でそう言って、去っていった。
なんなのだ一体。自分の置かれた状況を理解できずに、ブドウ糖が補給されていない頭が悲鳴を上げている。
と、そんな空腹MAXの俺の鼻孔をくすぐる香りが背中の方から漂ってきた。
ギュルルルルル……
胃が悲鳴を上げる。
ジュルルルルル……
唾腺が崩壊した。
俺の理性はいとも容易く崩壊しましたとさ。
♦♦♦♦♦
「呆れた。あなたはもしかして顔無しではないの?
私はこれまで多くの獣を見てきたけれど、ここまで貪るという言葉が似合う食事風景は見たことがないわ」
さっきまでのランニングウェアから部屋着に着替えた巫美里が、俺の食事風景を見て呆れ顔でそう言った。
先程までならば苦言の一つでも返していただろうが、あいにく、今は蟹の殻に残った身をどうやって掘り出すかに集中していたのでそんな余裕はなかった。
「死に損ないのくせに食欲があるなんて、理解に苦しむわ」
そうは言われても、腹が減っているのだから仕方がない。
確かに俺は死ぬつもりだった。だけど、人生とは何が起こるかわからないもので、未だにこうして生き長らえている。
生きていたら腹が減る。これはどうしようもないことだった。
俺は、もう巫に一度蹴りを入れられるまで食事を続けた。
その頃には、巫の顔に鬼が張り付いていた。
「もう満足かしら?」
「はい、大変美味しくいただきゲッフした」
「そう、もう一発蹴られたいのね」
「すいませんすいません。もう一生げっぷなんてしませんから許して下さい」
そんなやり取りをした後、巫は本題を切り出した。
「公園での問に答えてもらうわよ」
「あの巫さん。その問って何でしたっけ?」
「本当に馬鹿なのね。その頭の中には今食べた蟹味噌しか入ってないんじゃないの。
私の問というのは、あれをどういうつもりで実行しようとしたのかという事よ」
あれ。あれとは勿論自殺の事なのだろう。
俺は、巫のその問いに答えられなかった。何故なら、何故あんな事をしようとしたのか自分でもよく分からなかったからだ。
「理由……はあるんだよ。理由というより動機と言う方が合ってるのかな」
俺が俺自身を殺そうとした"動機"
「だけどさ、よくよく考えてみると、なんで自殺しようと思ったのか分からないんだよ。
心に大きな傷を負った、とか。信じていた人に裏切られた、とか。これからの人生に失望した、とか。それっぽい理由はいくつもあるんだけど、今それを理由にここで手首を切れるかって聞かれたら、俺はできないって答えるんだ。
確かにあの時は、心の底から死を決意したはずなんだけど、そんな決意初めから無かったみたいに俺の心臓は動いているんだ」
俺は、うまく言葉に出来ないものを無理矢理言葉にして口に出した。
「そう。つまりあなたは、よく分からないままに自ら命を絶とうとしたと言うことなのね?」
「まあそういうことになるな」
俺がそう答えると、巫は黙って俯いた。
数秒して顔を上げた巫の目を見て、俺ははっとして固まった。
巫の瞳が充血して、今にも涙がこぼれ落ちそうだったからだ。
巫はその瞳で俺をじっと見据えると、右手を振り上げてこう言った。
「私はあなたみたいに中途半端な人間が嫌いよ。
でも、それ以上に嫌いなものがある。それはあなたみたいに自分の命の重みを知らない人。
死ねば良かったのに」
巫は絞り出すようにそう言って俺の頬を叩いた。
それは、今まで受けた蹴りやビンタの中で一番弱々しいものだったが、何故かいつまでも頬がジンジンと痛んでいた。