俺は同居人の幽霊と契約を交わした。
「そんなに泣くこと無いじゃないか」
トビーの余りの号泣ぶりに俺は慌てて鞄の中からハンドタオルを取り出した。
そして、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったトビーの顔を拭おうと、タオル顔に当てようとした。
だが、俺の手はトビーの顔があるはずの場所で何にもぶつかることなくそのまま空を切った。
一瞬、手が凍ったように冷たくなったが、それ以外に感触はなかった。
俺の手は、文字通りトビーの頭をすり抜けたのだった。
「駄目ですよ。僕は幽霊なんですから。
生きている人間には、触れることが出来ないんです」
袖で涙と鼻水を拭いながら、トビーは呆然としていた俺にそう言った。
顔は涙を流しながらも笑っていたが、声はどこか寂しそうだった。
「やっぱり、本物なんだな。
疑ってたわけじゃないけど、実際に体験するとやっぱり、そのなんて言うか、怖いな」
さっきまでは緊張とか軽いパニックのような状況になっていたので恐怖を感じる余裕がなかったが、改めて考えてみると、俺はとんでもない決断をしてしまったのではないかという不安にかられた。
今こうして、死んでいる人間と話をしているという事自体があり得ないことなのに、そのうえその死んでいる人間に自分の体を貸すと言ってしまったのだ。
だが、不思議と俺の心に後悔の感情はなかった。
「怖いですか、そうですよね。僕達はそういう存在なんですよね。
でも、だからこそこの存在から抜け出すために叶さんの体が必要なんです。
それを引き受けてください本当にありがとうございます」
トビーは真っ赤にした目を俺に向け、大きく腰を折って頭を下げた。
そして、その状態のまま首だけを曲げて俺の方をみると、申し訳なさそうにはにかんでこう言った。
「それで、これは幽霊として生きている人間に関わる際の掟というか決まりみたいな物なんですけど、その僕と契約を交わして頂かないといけないんです」
「契約?別に良いけど。
ここまで来たんだ、俺も心決めて最後まで付き合うよ」
「ありがとうございます。それじゃあ手を出して下さい」
俺はトビーに言われるまま右手を前につきだした。
「あ、その、両手を」
トビーが申し訳なさそうにいったので、俺は慌てて左手も右手と同じ場所に出した。
俺とトビーにはそれなりの身長差があったので俺の手は、丁度トビーの目の前辺りにあることになる。
トビーはその目の前にある俺の手をゆっくりと掴んだ(・・・)。
「えっ」
冷たさとトビーが俺に触れた事への驚きで、俺は咄嗟に手を引こうとした。
だがそれは、強く握られたトビーの手によって阻まれた。
「どうして触れるんだ?さっきトビーが言ってたことと矛盾するじゃないか」
「驚かせてしまったのならすいません。別に僕は嘘を吐いていたわけではないんです。
さっき言ったのは、生きている人の体が僕を捕らえられないという事です。これは絶対のことです。
でもそれ以外なら幽霊が生きている人にさわる方法は、実はあるんです。
今僕は、叶さんの魂を掴んでいるんです」
「魂……俺の?」
「はい。詳しい説明は後にしますね、まずは契約を終わらせないと」
トビーはそう言うと、俺の手を掴む力を大きくした。
ドライアイスの塊に手を突っ込んだような、冷たいような痛いような感覚が手に伝わる。
すると、突然俺とトビーの手が青白く光り出した。
「トビー、これなんなんだ?」
「契約の光です。大霊神の使者が僕達の契約を見張るためのものです」
「俺はどうしたらいい?」
「じっと、じっとしていて下さい。もう少しで終わりますから」
トビーが言ったとおり、じっと動かないでいると青白い光はしばらくして消えてしまった。
「これで、契約終了です」
「えっもう?!もっと他にないのか?
例えば、何かの誓いをするとか印鑑押すとか、もっと契約っぽいことは?」
「これで終わりです。魂の間にそんなものは必要ありません」
そう言ってトビーは俺の手から手を離した。
冷たさでかじかむ手に温もりが戻ってくる。
俺はその手をポケットに突っ込んだ。
「これで、叶さんの体は幽霊の魂を受け入れる準備が整いました。
あ、それと、この契約が切れるまで僕達のことを誰にも話さないで下さいね。
もし話しちゃうと、大変なことになりますから」
「大丈夫、そんなこと話したりしないよ。
俺も、頭がイカレた奴だとは思われたくないからな」
「そうですか、それなら安心です」
トビーはホッとしたような笑顔を俺に向けた。
その暖かい笑顔から、さっきの手の冷たさは想像できなかった。
トビーは俺の魂に触れていると言っていたが、俺は皮膚でその冷たさを感じていた。
突き刺すような、痛みと紙一重の冷たさがポケットに入れた手にまだ残っている。
俺はポケットの中で手を思いっ切り握りしめた。
と、その時、少しの間視線をキョロキョロと動かしていたトビーが、意を決したように顔を俺に向け視線を定めると、俺に一歩近付いた。
「えっと、それでいきなりで悪いんですが、いまから叶さんに憑依させてもらっても良いですか?」




