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天鵞絨の夢

作者: 傘竹掛手

 街は静かに眠っていた。


 二匹の猫が冷たく光るアスファルトの通りを歩いている。

 一匹は花崗岩のような色合いの灰猫。もう一匹は夜を切り抜いて作ったような滑やかな黒猫だ。

 二匹は水面に揺らめく星の上に架かった橋を渡りきると、商店街に続く通りを歩き始めた。


 黒猫は小さく欠伸をして空を見上げた。

 歩き始めた時にはお日様が見えていた筈なのに、いつの間にかもう、辺りはすっかり夜になっている。

 ――急がないと。

 隣の灰猫をちらりと見遣ると、灰猫はまるでタイミングを見計らったかのようにふああと呑気に欠伸をした。

「眠いね」

「ね、急ごうよ」

黒猫は思わず灰猫をせっつく。何しろ灰猫がさっきから立ち止まったり欠伸をしたり後ろに下がったり、そうと思えば今度は走ったり横に曲がったり飛び上がったりするので全く進まないのだ。居ないと思えば頭上の塀の上に居たり、橋の下に居たりする。

 灰猫は黒猫があまりに真剣な顔をしているのを見て、欠伸の続きをしながらぷっと吹き出した。

「あんまり急いじゃいけないよ。急ぐと君は転ぶから」

灰猫はけらけら笑う。

「そんなに鈍くないよ」

「嘘こけ、運動会のリレーであんまり緊張したせいで転んだじゃないか」

「そんなこと覚えてなくていいよ。原子記号なんかスイヘイリーベまでしか覚えてないくせに」

黒猫は憎まれ口を叩く。灰猫はまだけらけら笑っている。黒猫は走るのを諦めて、でも出来る限りの速さで歩き始めた。灰猫がちゃんと着いてきているか、少し気にしながら。


 街灯に照らされた二匹の影は、アスファルトに、商店街のシャッターに細く長く伸びる。

 昼間の商店街の活気は夜の微睡みの中に沈み、取り残された看板が一つ二つ光っているばかり。商店街の中で一際賑わっていた洋品店も、昼間の喧噪は嘘だったかのように今は静かに眠っている。

シャッターの群れは砂埃ですっかり風化して茶けてしまい、この街には誰もいないかのような錯覚を引き起こさせる。

 さながら数十年前に"せんそう"や"はやりやまい"が起こったような。ひとは皆絶えてしまって、残っているのは猫だけのような。


「シャッターの向こうには何があるか知ってるかい」

灰猫は突然立ち止まると、誰にともなく尋ねた。もう慣れっこの黒猫は無言で歩を進める。

「――知ってるかい」

灰猫はもう一度繰り返した。返事が欲しいらしい。まただ。今夜で何回目だろう。黒猫はそっと小さな溜め息を吐いて、素っ気なく返事をした。

「店だろ」

灰猫が小さく笑う気配がする。そして歌うように呟いた。

「夜さ」

「――夜?」

黒猫は立ち止まって後ろを振り返る。黒猫から数歩遅れて立っていた灰猫が見上げていたのは古ぼけて淡い茶褐色になった大きなシャッターだった。灰猫何百匹分だろう。黒猫はシャッターの向こうに灰猫がぎっしりと詰まっているのを想像して、少し可笑しくなった。

 そのシャッターには、葡萄をモチーフにした紋章が描かれていた。描かれた時には美しかったであろう葡萄の瑞々しい紫色は今は桜色に色褪せてしまって、おまけに砂埃のせいですっかり茶けている。それでもそのシャッターには確かに、人を引きつける何かが在った。

 灰猫が自分を見つめているのに気がつき、黒猫はシャッターから目を逸らして灰猫を見る。灰猫がじっと見つめ返してくるので、黒猫はようやく自分が問いかけられていたことを思い出した。

「夜ってなんだい」

「だから夜さ。真っ暗な夜」

「夜は判るよ。そうじゃなくて、」

「何だよ」

灰猫は不満げに鼻を鳴らす。

「何でシャッターの向こうに夜があるのさ。店だろ?」

「夜だけは違うのさ。特に町が微睡んでいる、こんな夜はね」

そして灰猫はうたい始める。


――シャッターの向こうには草原が広がっていて、風が微かに音楽を奏でている。そこでは仄かに砂糖菓子の甘い匂いがするんだ。君と僕は草原に寝転がって空を見上げる。そしたら黒い天鵞絨みたいな夜空が僕達の目の前に降ってくるのさ。

「降ってくる? ……降りてくるの間違いだろ。降るのは星だよ。夜じゃない」

「間違ってないさ。いいから黙って聞いてろよ」

灰猫は途端に機嫌を悪くして低く唸った。(彼は怒ると決まって声が低くなるのだ。)黒猫が謝って先を促すと、灰猫は機嫌を直して続きをうたい出した。

――降ってきた夜空は僕たちを包み込んで、空にぽーんと放り投げる。そして僕たちは月を齧ったり星を捕まえたりして遊ぶんだ。

「どうだい、素敵だろ?」

「素敵かもね」

黒猫はその光景を想像する。

 ネズミのように逃げる星を追って夜空を駆け巡り、疲れたらふかふかの雲のベッドで眠る。お腹が空いたら月を齧り、天鵞絨の夜で爪を研ぐ。

 何て素敵な夜だろう。


 でも、黒猫は知っている。


 本当はシャッターの内側はただの洋品店だ。たくさんの洋服が売れるのを今か今かと待っている、それだけ。大きな黒い天鵞絨もきっとあるけれど、今はぐっすりと眠っているに違いない。雲は水蒸気の固まりだし、月は途方もなく大きい。星は逃げ回らないし、夜は天鵞絨なんかじゃない。

――だって、お日様で焦げてしまうじゃないか。

 黒猫は寂しく嗤う。


 どうせ灰猫だって、他愛もない、思い付きの与太話を呟いているだけなのだ。


 灰猫はまだシャッターを見上げている。ぴくりとも動かない。

 月の光に照らされて、灰猫は御影石で出来た石像のよう。

「行こう」

「うん」

黒猫が歩き出すと、灰猫も少し小走りでついて来た。

「僕は転ばないからいいんだ」

「僕も転ばないよ」

二匹は毬が転がるように競って走り始めた。


 夜の帳に包まれた街で、ほつれ目のように街灯がぽつりぽつりと光っている。灯りに照らされて二匹の影が細長く伸びる。

 ふと灰猫が立ち止まった。

 黒猫は構わず歩く。

「……ねえ。あのさ、」

「君は僕達が今夜、どんな遠くまで往かなきゃいけないか覚えてるのかい。あの星までだよ」

黒猫が灰猫を振り向かずに北極星を指すと、北極星は突然の指名に驚いたようにちらちら瞬いた。

「あのさ」

灰猫は立ち止まったまま進もうとしない。黒猫は諦めて灰猫を振り向いた。

 灰猫は案の定、何かを見つめている。視線の先を辿ると、そこには長く伸びる影があった。

「どうして影が伸びるか知ってるかい」

「知らないよ、そんなの」

黒猫はそっけなく返事をする。

「それはさ、……」

灰猫が目を閉じる。

 黒猫は大きく欠伸をした。



 夜はまだまだこれからだ。

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