口が悪くて聖女を解任されましたが、水は"心の声"しか聞かないそうです
「ジゼル・アルノー。口汚い聖女は、王太子妃にふさわしくない。婚約を破棄し、聖女の任を解く!」
大聖堂の祭壇の前で、王太子アドリアン殿下が、あたしを指さした。
朝の勤めが終わったばかりだった。聖泉の水盤の前で膝をついていたあたしは、ゆっくりと立ち上がった。
「はあ?」
口から、勝手に出た。
大聖堂じゅうの貴族と司祭たちが、いっせいに顔をしかめた。
「……失礼。承知いたしました、殿下」
「それだ。その『はあ?』だ」
殿下は、額に手を当てた。
「三年間、何度注意したと思っている。聖女とは、清らかな言葉で神に仕える者だ。それなのにお前は、朝の祈りで水に向かって『さっさと澄みな、この意地っ張り』などと言う」
「だって、あいつ、本当に意地っ張りなんですよ。朝は機嫌悪いし」
「水に機嫌などない!」
殿下の後ろで、大司教マティアス様が、穏やかに微笑んでいた。
「殿下のおっしゃるとおりです。新しい聖女には、清らかな言葉の持ち主を選びました」
大司教様が手を差し伸べると、祭壇の脇から、白い衣の女の子が進み出てきた。
金色の髪に、透きとおるような肌。セシリア・ヴァレンヌ侯爵令嬢だ。十七歳。社交界では、天使の声と呼ばれているらしい。
「セシリアと申します。皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
鈴を転がすような声だった。大聖堂じゅうから、ほうっとため息が漏れた。
あたしは、セシリア様の手を見た。
胸の前で組んだ白い手が、小刻みに震えていた。
*
「では、セシリア。聖泉に、最初の祈りを」
大司教様に促されて、セシリア様は、聖泉の水盤の前に膝をついた。
大聖堂の真ん中にある、大人が三人は手をつないで囲めるほどの、白い石の水盤だ。王都じゅうの噴水と井戸は、この聖泉から地下の水路でつながっている。聖女が毎朝ここで祈ると、王都の水がきれいになる。
セシリア様は、水面に向かって、両手を広げた。
「清らかなる水よ」
うっとりするほど美しい声だった。
「ありがとう。あなたを、愛しています。どうか、わたくしの祈りを受け入れて、この王都を清めてくださいませ」
水面が、揺れた。
それから、すうっと、灰色に濁った。
大聖堂が、ざわめいた。
「あ、ありがとう! 愛しています! 心から、あなたを――」
セシリア様が、さらに甘い声で言った。
水は、さらに濁った。灰色から、墨を溶かしたような黒へ。水盤の底が、まったく見えなくなった。
「こ、これは」
「聖泉が、黒く……」
司祭たちが、青ざめて後ずさりした。
大司教様が、すぐに穏やかな声で言った。
「水が、驚いているのでしょう。新しい聖女に慣れていないだけです。時間が経てば――」
大司教様は、そう言いながら、一瞬だけ、あたしのほうを見た。
その目が、ひどく冷たかった。
*
セシリア様は、水盤の縁を握りしめて、真っ青になっていた。
「ど、どうして……わたくし、ちゃんと、ありがとうって……」
声が、震えていた。
あたしは、ため息をついた。
知っていたのだ。この水が、何を聞いているのか。北の村の井戸守りの祖母に、子どものころから教えられていた。
『水はね、ジゼル。口から出る言葉なんて、聞いちゃいないよ。心の中の声を聞いてるんだ』
だから、祖母は口が悪かった。あたしも、口が悪い。口で何を言おうが、水には関係ないのだから。
あたしは、セシリア様の隣に膝をついた。
黒く濁った水面を、覗き込んだ。
「ったく。なに拗ねてんのさ」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
心の中では、別のことを言っていた。
――ごめんね。びっくりしたよね。大丈夫、この子は怖がってるだけで、あんたのこと嫌いなわけじゃないんだよ。
「ほら、さっさと澄みな。この意地っ張り」
黒い水面に、ぴしり、と白い線が走った。
線は、みるみるうちに広がった。枝分かれして、また枝分かれして、六角の、霜の花のような形になった。一つ、また一つ。水面いっぱいに、白い結晶の花が咲いていく。
そして、花が溶けるように消えたとき、水は、底の白い石が見えるほど澄みきっていた。
大聖堂が、しんと静まり返った。
*
「……な」
殿下が、口をぱくぱくさせていた。
「なぜだ。なぜ、お前の汚い言葉で、水が澄む」
「さあ。水に聞いてくださいよ」
あたしは、立ち上がって、膝の埃を払った。
「三年間、毎朝言ってましたよね、あたし。水は、口じゃなくて心を聞くんだって。誰も信じてくれませんでしたけど」
殿下の顔が、首まで真っ赤になった。
貴族たちの間から、ひそひそ声が広がっていった。「では、あの『ありがとう』は」「心の中では、何を考えていたんだ」「天使の声が、聞いて呆れる」
セシリア様が、両手で顔を覆った。
大司教様は、表情ひとつ変えずに、あたしを見ていた。
あたしは、その目を見返した。それから、殿下に向き直った。
「殿下。婚約破棄も、聖女の解任も、承知しました」
「い、いや、待て。こうなった以上、解任は――」
「いえ、辞めます」
あたしは、きっぱりと言った。
「こんな、上の人たちの心が濁りきってる場所、もう無理なんで。村に帰ります」
*
大聖堂の回廊を歩いていると、後ろから呼び止められた。
「アルノー殿」
大司教様だった。供の司祭も連れずに、一人で立っていた。
大司教様は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。けれど、その目は、少しも笑っていなかった。
「先ほどの件、皆の前であのようなことをおっしゃるのは、感心いたしませんな」
「あのようなこと、って?」
「水が心を聞く、などという、田舎の迷信です」
大司教様は、静かに言った。
「聖女は、清らかな言葉で選ばれる。それが、大聖堂の決まりです。迷信を口にして、皆を惑わせてはなりません。村へお帰りになるなら、どうぞ、静かに」
あたしは、大司教様の顔を見た。
迷信だと思っている人の目ではなかった。知っている人の目だった。知っていて、隠したい人の目だった。
「大司教様」
「何でしょう」
「毎朝の祝福、いつもきれいな言葉ですよね。三年間、一言一句、同じ」
大司教様の微笑みが、ほんの一瞬だけ、固まった。
「……それが、何か」
「別に。ただ、毎朝、あの祝福のあとに、聖泉がちょっとだけ濁るんですよ。不思議ですよね」
あたしは、軽く頭を下げて、回廊を歩き出した。
背中に、冷たい視線が刺さっているのが分かった。振り向かなかった。
*
三年前、あたしは北の村の井戸守りの孫で、聖女になるなんて考えたこともなかった。
その年の夏、王都の水が急に濁った。下町の井戸から、病人が出始めた。大聖堂は、言葉遣いの美しい貴族の娘たちを次々に聖女の候補にして、聖泉の前で祈らせた。誰一人、水を澄ませられなかった。
困り果てた大聖堂の誰かが、古い記録を掘り出した。四十年前、北の村から来た聖女が、一人で王都の水を澄ませていた、と。
ある日、村に王都からの使者が来て、井戸のそばで水を汲んでいたあたしを、半ば無理やり馬車に乗せた。祖母は、ため息をついて、こう言った。
『行っておいで。水に嘘をつくんじゃないよ』
大聖堂に着いた日、聖泉はどろどろの泥水のようだった。あたしは水盤を覗き込んで、思わず言った。
『うわ、きったな。あんた、どんだけ放っとかれてたのさ』
心の中では、かわいそうに、と思っていた。
聖泉は、その場で澄んだ。
それで、あたしは聖女になった。聖女は、慣例で王太子と婚約することになっていた。初めて会ったとき、殿下は、あたしの「どうも」という挨拶に、露骨に顔をしかめた。
三年間、殿下があたしに笑いかけたことは、一度もなかった。
*
大聖堂の裏の宿舎で、荷物をまとめた。
三年分の荷物は、鞄一つに収まった。聖女の白い衣は、きちんと畳んで寝台の上に置いた。村から着てきた、つぎはぎの麻の服に着替える。こっちのほうが、ずっと楽だった。
最後に、もう一度だけ、大聖堂の聖泉へ行った。
誰もいない夕暮れの大聖堂。水盤の水は、昼間に澄ませたまま、静かに光っていた。
「じゃあね」
あたしは、水面に向かって言った。
三年間、毎晩、勤めが終わってから、ここへ来た。朝の祈りとは別に。誰にも内緒で。友達とおしゃべりするみたいに、その日あったことを話した。殿下の悪口とか、大司教様の悪口とか、食堂のスープが薄かったとか。
心の中では、いつも同じことを言っていた。
――今日も一日、お疲れさま。待たせたね。
毎朝、大司教様が祭壇で美しい祝福の言葉を唱えるたびに、聖泉は少しだけ濁った。あたしは、それを毎晩、こっそり澄ませてきた。
明日から、誰がやるのだろう。
「……ちゃんと、待ってなくていいからね」
水面が、小さく揺れた。
*
王都の北門を出ようとしたとき、後ろから足音が追いかけてきた。
「ジゼル様! お待ちください!」
振り向くと、白い衣の裾をからげたセシリア様が、息を切らして走ってきた。金色の髪が、ぐしゃぐしゃに乱れている。
「どうしたら」
セシリア様は、あたしの前で立ち止まって、肩で息をしながら言った。
「どうしたら、澄むんですか。わたくし、本当に、ちゃんとありがとうって思って……思おうとして……」
「あんた、今、何考えてる?」
あたしは、聞いた。
セシリア様は、目をぱちぱちさせた。
「え……」
「口で言うことじゃなくて、心の中で。今、何考えてる」
セシリア様の唇が、震えた。
長い沈黙のあとで、蚊の鳴くような声がした。
「……怖い」
涙が、ぽろりと落ちた。
「母様に、叱られる。笑いなさいって。可愛く話しなさいって。ずっと言われてて。失敗したら、また……」
あたしは、門のそばの石畳の水たまりを指さした。昼間の通り雨の名残の、小さな茶色い水たまりだった。
「それ、言いな。あの水の前で、声に出して」
「でも、怖いなんて言ったら、もっと濁って――」
「いいから」
セシリア様は、おそるおそる水たまりの前にしゃがみ込んだ。それから、小さな声で言った。
「……怖い、です」
茶色い水たまりの表面に、小さな、小さな、白い霜の花が、ひとつだけ咲いた。
セシリア様が、息を呑んだ。
「水が濁るのは、怖いからじゃないよ」
あたしは、言った。
「怖いのに、ありがとうって言わなきゃって、自分に嘘ついてたから。水は、そういうの、ぜんぶ聞いてる」
セシリア様は、水たまりの霜の花を見つめたまま、両手で口を押さえて泣いた。
霜の花は、すぐに溶けて消えた。けれど、水たまりは、さっきよりほんの少しだけ、澄んでいた。
「……ジゼル様は、どうして、そんなに口が悪いんですか」
しばらくして、セシリア様が、鼻をすすりながら聞いた。
「楽だから」
「楽?」
「口できれいなこと言おうとすると、心の中の声と、ずれるでしょ。ずれると、疲れるんだよ。だったら最初から、思ったまま言っちゃったほうが楽」
セシリア様は、目を丸くした。
「でも、心の中では、やさしいことを考えていらっしゃるのに」
「……それは、言わなくていいことだから」
あたしは、そっぽを向いた。耳が熱かった。
セシリア様が、泣き顔のまま、初めて小さく笑った。作り物じゃない笑い方だった。
「明日から、毎朝、聖泉の前で『怖い』って言ってみます」
「司祭たちに、変な顔されるよ」
「はい。……それも、怖いです」
「なら、それも言いな」
*
*
「北の村まで行くなら、送ろう」
門の外の街道で、荷馬車に声をかけられた。
御者台に座っていたのは、日に焼けた顔の、背の高い男の人だった。作業着の袖をまくり上げて、腕には工具の傷がいくつもある。
「ヨナス・ベルク。王都の水道技師だ。北の村の井戸も、点検の時期だから」
見覚えがあった。大聖堂の地下の水路を、いつも一人で黙々と点検していた人だ。あたしが夜中に聖泉へ行くとき、何度か地下の通路ですれ違ったことがある。ほとんど口をきいたことはなかった。
「……乗ってもいいの?」
「荷台の樽の隣でよければ」
あたしは、荷台に鞄を放り込んで、樽の隣に座った。
荷馬車が、がたごとと動き出した。
しばらく走ったところで、ヨナスさんが、腰の水筒を後ろ手に差し出してきた。
「飲むか」
受け取って、蓋を開けた。
あたしは、水筒の中を覗き込んで、目を丸くした。
澄んでいた。底の金属の継ぎ目まで見えるほど。水面に、うっすらと、霜の花の形が浮かんでは消えていた。
「……あんたの水筒、なんでこんなにきれいなの」
「さあ」
「さあ、じゃないよ。聖泉より澄んでるよ、これ」
ヨナスさんは、手綱を握ったまま、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「毎日、汲むときに、礼を言ってる」
「口に出して?」
「いや。……心の中で」
あたしは、水筒を持ったまま、ヨナスさんの背中を見た。
三年間、王都で、口に出す言葉ばかり聞いてきた。きれいな言葉と、心の中の汚い声。口に出す言葉と、心の中の声が、こんなに同じ人に、初めて会った気がした。
顔が、少し熱くなった。たぶん、日差しのせいだ。
「……ふうん」
あたしは、水筒の水を飲んだ。冷たくて、甘かった。
*
その夜は、街道沿いの小川のそばで野宿した。
ヨナスさんは、手際よく火を起こして、小さな鍋で豆のスープを作った。あたしは、小川で水を汲んできた。桶の水に向かって、いつもの調子で言った。
「ほら、澄みな。今夜のスープになるんだから、しゃきっとしな」
桶の水面に、ぱっと霜の花が咲いた。
ヨナスさんが、火の向こうで、小さく息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
「……何よ」
「いや。聖泉の水も、毎晩そうやって叱られてたのかと思って」
あたしは、手を止めた。
「毎晩って」
「地下の水路で、点検していると分かる」
ヨナスさんは、火に枝をくべながら言った。
「毎朝、大司教様の祝福のあと、水路の水の音が少しだけ重くなる。濁ると、水は重い音で流れるんだ。それが、毎晩、夜中を過ぎると、急に軽くなる。きれいな音に戻る。三年間、毎晩だ」
あたしは、桶を持ったまま、固まっていた。
「誰かが、夜中に聖泉に行っているんだと思った。一度、地下の通路ですれ違った。聖女の白い衣の裾が、見えた」
「……誰にも、言わなかったの」
「言う相手がいなかった。それに」
ヨナスさんは、少し言葉を探した。
「内緒にしているようだったから」
火が、ぱちぱちと鳴った。
三年間、誰にも知られていないと思っていた。誰にも気づかれずに、毎晩、聖泉と話していた。それでいいと思っていた。褒められたくてやっていたわけじゃない。
なのに、知っている人がいた。
あたしは、鍋の中の豆のスープを、黙ってかき混ぜた。口から何か言ったら、心の中の声と違うことを言ってしまいそうだった。
「……スープ、焦げるよ」
「ああ」
ヨナスさんが、鍋を火から下ろした。
その夜、あたしは、荷台の樽にもたれて眠った。久しぶりに、聖泉のことを考えずに眠れた。
*
北の村に着いたのは、三日後の夕方だった。
村のはずれの古い井戸のそばで、腰の曲がった小さな老婆が、桶を引き上げていた。
「ばば様!」
祖母は、振り向いて、あたしを上から下まで眺めた。
「なんだい、ジゼル。またクビになったのかい」
「またって何さ。初めてだよ」
「そうかい。あたしは、四十年前にクビになったよ。口が悪いってさ」
あたしは、目をぱちくりさせた。
「……は?」
「言ってなかったかね。あたしも昔、王都で聖女をやってたんだよ。三年でクビになって、村に帰ってきて、井戸守りになった」
祖母は、けろりとした顔で、桶の水を覗き込んだ。
「王都の水は、あたしがいなくなってから、ずいぶん濁ったって聞いたけどねえ。四十年たっても、あの大聖堂は懲りないね」
荷馬車の御者台で、ヨナスさんが、黙って帽子を取って頭を下げた。祖母は、ヨナスさんをじろりと見て、それから、あたしを見て、にやりと笑った。
「で、その無口な兄さんは何だい」
「水道技師! 送ってもらっただけ!」
「ふうん。水筒の水が、やけにきれいな兄さんだねえ」
祖母には、何でもお見通しだった。
その夜、祖母の小さな家で、薄い麦粥をすすりながら、あたしは聞いた。
「ばば様。四十年前、なんで黙ってたの。クビになったとき、水は心を聞くんだって、言わなかったの?」
「言ったさ。大司教の前で、大声でね」
祖母は、麦粥の椀を置いた。
「誰も信じなかった。信じたのは、大司教だけだった。あの男は、知ってたんだよ。知ってて、あたしを追い出した。心の濁った自分が、毎朝祝福をするのに、心を聞く水なんて、都合が悪いだろう」
「……今の大司教様も」
「同じ穴の狢だろうさ。あの大聖堂は、四十年前から何も変わっちゃいない」
祖母は、窓の外の井戸を見た。
「でもね、ジゼル。水だけは、変わらないよ。誰が何を隠そうと、水は聞いてる。だから、水に嘘をつくんじゃないよ」
三年前、村を出るときにも、同じことを言われた。
あたしは、麦粥の残りを飲み干して、頷いた。
*
それから、あたしは村の井戸守りに戻った。
朝いちばんに井戸の蓋を開けて、桶を下ろす。水を汲みに来る村の人たちに、一人ずつ「おはよ」と言う。羊飼いのおじさんには「また腰が痛いの? 無理すんなって言ってんでしょ」。パン屋のおかみさんには「その顔、昨日旦那と喧嘩したでしょ」。
村の人たちは、皆、慣れっこだった。誰も、あたしの言葉遣いに顔をしかめない。井戸の水は、毎朝、霜の花を咲かせた。
十日ほどして、王都から手紙が届いた。
差出人は、セシリア・ヴァレンヌ。丁寧な、でも少し震えた字だった。
『ジゼル様。あの日から、毎朝、聖泉の前で、最初に「怖い」と声に出してから祈っています。司祭様たちには変な顔をされます。母様には、まだ言えていません。でも、聖泉は、少しずつ澄むようになりました。昨日は、霜の花が三つ咲きました。三つです』
最後の「三つです」だけ、字が大きかった。
あたしは、手紙を読みながら、ちょっとだけ笑った。それから、井戸の水面に向かって言った。
「三つだってさ。やるじゃん、あの子」
井戸の水面に、霜の花が、四つ咲いた。
*
ひと月後。
村の井戸で水を汲んでいると、王都からの荷馬車が着いた。御者台から降りてきたのは、ヨナスさんだった。点検の時期でもないのに。
「どうしたの」
「王都の噴水が、濁り始めた」
ヨナスさんは、短く言った。
「下町の井戸から、少しずつ。セシリア様は、毎朝一生懸命やっている。少しずつ、澄ませられるようになってきた。でも、聖泉そのものが、毎朝、祝福のあとに濁る」
あたしは、桶を置いた。
祝福のあとに。
毎朝、祭壇の前で、大司教様が唱える、あの美しい言葉。
「誰の祝福のあとか、もう分かってるんでしょ」
「……ああ」
ヨナスさんは、それ以上言わなかった。言わなくても、分かった。
あたしは、井戸の水面を覗き込んだ。
祖母の井戸の水は、今日も澄んでいた。底のほうで、霜の花がゆっくりと咲いては消えていく。
口が悪いと言われて、聖女をクビになった。
でも、水が聞いているのは、心の声だ。
――あの大聖堂で、誰の心がいちばん濁っているのかも、きっと、とっくに知っている。
お読みいただき、ありがとうございました。
毎朝、大司教の祝福のあとに、聖泉は濁ります。
無口な水道技師の水筒が、なぜいつも澄んでいるのか。続きは連載版で書く予定です。
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