親友と実妹が、大学一のイケメン彼氏を「九十歳の老人」に加工して、私を別れさせようとしてきた
付き合って三年になる恋人から、プロポーズされた。
浮かれた気分のまま奏人を実家へ連れていった私は、両親から仕事や家族のことをいろいろ聞かれるくらいは覚悟していた。けれど玄関のドアが開き、母の志保が私の後ろにいる奏人を見た瞬間、その顔から笑みが消えた。
母は私の腕をつかみ、そのままキッチンへ引っ張っていく。
「千紗、あなた何を考えてるの? あの人、どう見たって九十近いおじいさんじゃない。まだ二十四なのに、どうしてあんな人と……」
何を言われているのか分からなかった。
振り返れば、リビングでは久我奏人が父のそばで果物を切っている。葉澄大学大学院修士課程二年。すっきりした黒髪に、まっすぐ伸びた背中。どこから見ても二十四歳の青年だ。
ところが父が差し出したスマホの画面には、まるで別人が映っていた。
果物を切っているのは、顔中に老人斑を浮かべ、震える手で包丁を握る老人だった。
一度目の人生で、私が自分の目を疑い始めたのも、ここからだった。
最後には精神科病棟へ入れられ、そこで死んだ。
次に目を開けたとき、私は奏人を実家へ連れていく前日に戻っていた。
だから今度は、彼が誰なのか伏せたまま、写真だけを家族LINEへ送った。
「お母さん、結菜が最近付き合い始めた人なんだけど。どう思う?」
すぐに電話がかかってきた。
「千紗、早く結菜ちゃんを止めなさい! あれ、車椅子に乗ったおじいさんじゃない。足元に尿バッグみたいなものまで見えてるわよ。騙されてるんじゃないの?」
私は画面を見下ろした。
白いパーカー姿の奏人が、店のメニューを眺めている。
若くて、清潔で、私が知っている彼そのものだった。
どうやら、人生をやり直しただけでは、あの悪夢は消えてくれないらしい。
1
「お母さん、本当にちゃんと見た?」
電話の向こうで、わずかな間があった。
「何度見たって同じよ。顔なんてしわだらけだし、ズボンの横から管まで出てるじゃない。結菜ちゃん、まだ若いのに……どうしてあんな人と付き合うのよ」
もう一度写真を拡大した。
奏人は窓際の席に座り、白いパーカーに黒いパンツ姿でメニューを読んでいる。隣には空いた椅子が一脚あるだけだった。
母が言うようなものは、どこにも見当たらない。
私が黙っていると、今度は莉央の声が入ってきた。
「お姉ちゃん、結菜ってそういう趣味あったの? あの人、百歳近くに見えるんだけど。顔のシミとか、ちょっと無理」
わざとらしくえずく声まで聞こえる。
「まさか、お金目当てとか? いくらお金持ちでも、あれはさすがに――」
「莉央、そのくらいにしろ」
父の孝之が止めた。
少しだけほっとしたのも束の間だった。
「千紗もしばらく結菜ちゃんとは距離を置いたほうがいい。誰と付き合うかは本人の自由だが、お前まで巻き込まれる必要はないだろう。それより、お前も長く付き合ってる相手がいるんだったな。今度連れてきなさい」
電話が切れた。
スマホを握ったまま、私はしばらくリビングに立ち尽くしていた。
一度目も、始まりはこんなふうだった。
最初から「お前はおかしい」と言われたわけではない。奏人は年老いている、顔中にシミがある、まともに歩けない――そういう話を少しずつ積み重ねられた。
私が不安になり始めた頃になって、ようやく「幻覚」という言葉が出てきた。
あの頃の私は、それさえ家族の心配だと思っていた。
腰に腕が回った。
「一人で突っ立って、何考えてるの?」
びくりとして振り返る。
大学の体育館でバスケをしてきたばかりの奏人が立っていた。汗で前髪が少し濡れ、黒いスポーツウェアから伸びた腕には若い筋肉がついている。
近づけば、汗といつもの柔軟剤の匂いがした。
奏人は私の顔を覗き込み、そのまま額に手を当てる。
「顔色悪いよ。疲れた?」
「少しだけ」
今はまだ、彼を巻き込みたくなかった。
私は目をそらしながら、別の話を持ち出した。
「ねえ、あとで時間ある? 結菜のところに忘れ物しちゃって」
「取りに行くだけならいいけど」
奏人はすぐに頷いたのに、腰に回した腕は解かなかった。
「でも、今日の千紗、ちょっと変」
心臓が跳ねる。
「そう?」
「さっきから、あんまり俺の顔見ないし」
軽い口調だったけれど、目は笑っていなかった。
私は気づかないふりをした。
「ついでに、水音町のカフェで栗の限定スイーツ買ってきて。SNSで話題になってる店」
奏人は数秒こちらを見たあと、それ以上は追及しなかった。
玄関へ向かう背中を、もう一度呼び止める。
「結菜に会ったら、一緒に写真撮ってもらってもいい?」
今度こそ、彼はきょとんとした。
適当に、賭けに負けたからと説明する。
奏人はよく分からないという顔のまま、私の頬を軽くつまんだ。
「今日の婚約者さまは注文が多いな。まあ、そのくらいなら」
奏人が出ていくと、すぐ結菜に電話した。
彼の名前は出さない。私が賭けに負けたので、これからそちらへ行く男性と一枚写真を撮ってほしい――そう頼んだ。
十数分後、今度は結菜から電話が来た。
「柊木千紗、あんた私に何の恨みがあるの?」
低く押し殺した声だった。
背中がこわばる。
「どうしたの?」
「あの車椅子のおじいさん、何? この前ドタキャンした仕返し? 手は震えてるし、口元にはよだれついてるし、離れてても老人ホームみたいな匂いするんだけど」
スマホを握る手に力が入った。
「結菜、もう一回ちゃんと見て」
「ちゃんと見てるって」
「その人、奏人だよ」
しばらく返事がなかった。
「……彼氏の?」
短く肯定すると、結菜の声はむしろ確信を強めた。
「ありえない。久我奏人って、バスケ部にいたイケメンでしょ? 私だって会ったことあるし。目の前にいるの、今にも倒れそうなおじいさんだよ」
写真だけではなく、本人にも会ったことがあるはずだった。
それでも結菜は迷わない。
「だから分かるんじゃん。さっきコーヒー飲むときも手が震えて、入れ歯が落ちそうになってたし。服にまでコーヒー飛ばされたんだから」
そこで少し間が空いた。
「千紗。今日、何かあった?」
喉の奥が詰まる。
「……何でもない」
「だったら、もうこんな悪ふざけやめてよ」
通話が切れた。
ゆっくりソファに腰を下ろす。
一度目の人生で、私を最初に揺さぶったのも結菜だった。
家族だけなら、奏人を嫌って口裏を合わせているのだと疑うこともできた。けれど結菜は高校時代からの親友で、奏人本人にも何度か会っている。
そんな彼女までが、ためらいもせず「九十歳の老人だ」と言う。
前の私は、そこで初めて、自分のほうがおかしいのではないかと思ってしまった。
2
家族へ連絡する前に、私は結菜へLINEを送った。
送金アプリで少し多めに送り、もう一度だけ頼む。
「どう見えててもいいから、二人で写真撮って送って。お願い。私には大事なことなの」
返事はなかなか来なかった。
もう一度送金すると、しばらくして短い返信が届いた。
「今回だけだからね」
三十分ほど経って、写真が送られてきた。
開いた瞬間、指が止まった。
場所は確かに水音町のカフェだ。窓際の席も、結菜の前に置かれたカップも、テーブルの紙ナプキンも写っている。
結菜は隣の人物から少しでも離れようとするように、身体を横へ傾けていた。
その隣にいるのは、老人だった。
色褪せた黒いスポーツウェア。薄くなった髪。深いしわと老人斑。身体は車椅子に沈み込んでいる。
顔だけ見れば、奏人とは似ても似つかない。
けれど服は同じだった。
さらに拡大しようとしたところで、玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
慌ててスマホを伏せる。
奏人が菓子の入った紙袋を提げて入ってきた。
「栗のやつ、最後の一個だった。ぎりぎりセーフ」
そう言って隣に座り、いつものように私を抱き寄せる。
濡れた黒髪も、まっすぐな肩も、滑らかな肌も、さっきまで見ていた老人とはまるで違う。
見比べ続けていたせいか、目の前の奏人のほうが現実離れして見えた。
私の様子に気づいたのか、彼が腕を緩める。
「さっきのこと、まだ気にしてる?」
答える代わりに手を差し出した。
「結菜と撮った写真、ある?」
奏人は不思議そうにしながらも、スマホを渡してくれた。
最新の一枚を開く。
場所も、構図も、結菜の顔の向きまで、送られてきたものとほとんど同じだった。
けれど隣にいるのは奏人だ。
黒いスポーツウェア姿で、カメラへ向かって気楽にピースしている。
二枚を並べる。
奏人も画面を覗き込み、表情を変えた。
「……このおじいさん、誰?」
私は答えなかった。
彼は数秒見比べるうちに、背景と服が同じだと気づいたらしい。
「これ、さっき撮った写真だよな」
「結菜から送られてきた」
「俺だって言ってるの?」
「結菜だけじゃない」
家族LINEも見せた。
奏人はしばらく無言で画面を追い、やがてスマホをテーブルに置いた。
聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、すぐ問い詰めてはこなかった。
「ひとまず、こっちには元の写真がある。それだけは確かだよ」
その言葉で、少し呼吸が戻った。
私は二枚を改めて確認した。
テーブルの反射も、背景を歩く人も、撮影の角度も不自然ではない。それでも奏人だけが老人に置き換えられている。
どうやったのかは分からない。
けれど、誰かが意図して作ったのだと考えるほうが自然だった。
問題は、なぜ結菜まで協力しているのか。
私は老人になった写真を家族LINEへ送った。
「もう一度見て。前に言ってた人、この人だから」
最初に反応したのは母だった。
「前の写真よりひどいじゃない。目まで濁ってるわよ。結菜ちゃん、いったい何を考えてるの。千紗もしばらく距離を置いたほうがいいわ」
続いて父から一枚の写真が送られてきた。
藤丘の街路樹のそばで、奏人がしゃがんで靴紐を結んでいる。
「さっきこの老人を見かけた。木につかまって、ずっと息を整えていたぞ。あの身体じゃ、いつ何があってもおかしくない。結菜ちゃんに早く別れるよう言ったほうがいい」
莉央もすぐ続いた。
「遺産目当てとかじゃない? でも、見た感じそんなにお金持ってなさそう」
一度目の私は、こういう言葉を見るたび必死になった。
身分証を見せれば偽物だと言われ、写真を出せば加工だと言われた。大学の知り合いまで奏人に騙されているのだと決めつけられた。
私はLINEを閉じた。
隣にいた奏人が、私の横顔を見る。
「もう説明しないの?」
「うん。意味ないから」
ソファにもたれ、息を吐く。
「それより知りたい。どうしてここまでして、私に信じ込ませたいのか」
3
夕食のあいだ、私はずっと奏人を観察していた。
最初は気づかないふりをしていた彼も、さすがに途中で箸を止めた。
「今日の俺、そんなに格好いい?」
普段なら何か言い返していただろう。
けれど今夜は、彼の左の鎖骨にある小さな赤いほくろから目を離せなかった。
「それ、昔からあったよね」
奏人も視線を落とす。
「大学の頃、初めて見つけた千紗が『針で刺した跡みたい』って言ってただろ。今さら?」
私は笑えなかった。
結菜から届いた写真を拡大すると、老人のしわだらけの首にも、同じ位置に赤い点があった。
適当な老人の写真を使っただけなら、そんな細部まで一致するだろうか。
少し迷った末、別のことを聞いた。
「奏人って、子どもの頃から目立ってた?」
彼の箸が止まった。
冗談で聞いているわけではないと分かったのだろう。顔つきが少し変わる。
「小学校の学校案内に載ったことはある。中学になると、下駄箱に手紙が入ってたり。大学の試合のあとも、連絡先を聞かれることはあったかな」
そう言って、昔の写真を見せてくれた。
小学校の集合写真、中学の文化祭、大学のバスケットボール部。
年齢とともに顔つきは変わっているけれど、どこにも不自然なところはない。
SNSに残っているコメントも普通だった。
格好いい、試合頑張って、連絡先を教えてほしい。
誰も、老人を見ているような反応はしていない。
特定の人間にだけ、一人の青年が七十年も老けて見える。
そんなことが本当にあるだろうか。
その夜、奏人はベッドにもたれてバスケットボールの試合を見ていた。
私は隣で横になっていたものの、眠気は少しも来なかった。
写真は加工できる。人も嘘をつける。
でも、触った身体まで誤魔化せるとは思えなかった。
家族は、奏人にはほとんど歯が残っておらず、皮膚はたるみ、老人斑だらけで、尿の管までつけていると言った。
私は起き上がり、奏人へ近づいた。
彼がイヤホンを片方外すより先に、顎をつかむ。
奏人は目を丸くした。
口を開けるよう合図すると、意味が分からないまま従ってくれる。
歯はきれいに揃っていた。
もちろん、触っても何もおかしくない。
そのまま顎から首、胸へと手を滑らせる。
肌には張りがあり、体温もいつも通りだった。
さらに布団の中へ手を入れようとしたところで、手首をつかまれた。
奏人は自分の胸元にある私の手と、私の顔を交互に見た。
「ここまで我慢してから聞いてる時点で、俺かなり優しいと思うんだけど」
動きを止める。
「歯を触って、胸まで確認して、今度はどこを見るつもり?」
逃げ切れそうになくて、小さく答えた。
「……管までついてるって言われたから」
沈黙のあと、奏人が枕に倒れ込んだ。
笑っている。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
「ごめん」
どうにか笑いを堪えながらも、彼は私の手首を離さなかった。
「ただ、このまま検査を続けるなら、途中から別の意味になるけど」
言葉の意味を理解したときには、もう遅かった。
翌朝、目を覚ますと腰が重かった。
奏人はすでに起きて、リビングで紺色のスーツにアイロンをかけていた。キッチンからはコーヒーとトーストの匂いがする。
鏡越しに私を見つけ、彼が振り返る。
「起きた?」
私は寝室の入り口にもたれ、ネクタイを整える奏人を眺めた。
本人はまだ服装が気になるらしく、ジャケットを羽織って鏡を確認している。
「初めて正式に挨拶に行くのに、これだと堅すぎるかな」
「似合ってるよ」
「じゃあ、これで行く」
少し安心したように笑った。
リビングの隅には、手土産が並んでいた。
父には手に入りにくい年代物の国産ウイスキー。母には百貨店で選んだ少し上等なスキンケアセットとブレスレット。莉央には、前に欲しがっていると私が話したことのある限定モデルのワイヤレスイヤホンを用意していた。
父が腰を悪くしていると聞いた奏人は、落ち着いたら一緒にマッサージチェアを見に行くつもりらしい。
少し張り切りすぎだと思う。
けれど初めて正式に挨拶へ行くのだから、と本人は真剣だった。
私は手土産をまとめて写真に撮り、結菜へ送った。
「今日、奏人がうちに持っていくもの。これでも、お金もなくて今にも死にそうなおじいさんに見える?」
返信はすぐだった。
「プレゼントなんて証拠にならないでしょ。金持ちに見せかけて騙す人なんていくらでもいるし、借金して買ったのかもしれない。千紗、物だけで信用しないほうがいいよ」
続きを打つ気にはならなかった。
何を見せても、結菜は別の理由を探す。
私が「自分は正しい」と証明しようとする限り、ずっと彼らの用意した土俵から降りられない。
4
藤丘の実家へ着くと、玄関の外まで強い消臭剤の匂いが漂っていた。
ドアは少しだけ開き、母はマスク姿で除菌スプレーを持っている。廊下の窓まで開け放たれていた。
奏人を見るなり、母は玄関へ何度かスプレーした。
さすがに彼も一瞬固まったけれど、すぐ丁寧に頭を下げる。
「初めまして。久我奏人と申します。本日はお時間をいただいてありがとうございます」
母は形だけ頷いた。
「手土産はそこに置いて。スリッパはこれを使ってちょうだい。最近みんな体調がよくないの」
奏人が私を見る。
私は黙って彼の手を取り、中へ入った。
すぐに莉央が私を廊下の端へ引っ張った。
「お姉ちゃん、本当に連れてきたの? お父さんもお母さんも若くないんだから、少しは考えてよ」
私には責めるような声を向けていたのに、奏人へ振り返った瞬間、表情が変わる。
「久我さん、ごめんなさい。うちのお母さん、最近ちょっと衛生面に神経質で。あまり気にしないでくださいね」
私はその笑顔をじっと見た。
本当に奏人が九十歳を過ぎた、よだれを垂らす老人に見えているのなら、どうしてそんな自然な顔で笑えるのだろう。
食卓に並んだ料理は、ごく普通のものだった。
それでも奏人は何も言わず、終始礼儀正しく振る舞っている。
途中、取り箸で豆腐を取り、父の小皿へ置こうとした。
「これ、美味しいですね。よかったらどうぞ」
父が勢いよく皿を引いた。
豆腐がテーブルに落ちる。
「いい。自分で取る」
父は奏人の手元を見ながら眉をひそめた。
「そんなに手が震えてるなら、無理にやらなくていい」
奏人の手は少しも震えていなかった。
「お父さん、人がせっかく取ってくれたのに」
莉央がたしなめる。
母は鼻の前を手で扇いだ。
「千紗も少し気をつけてあげなさい。口元、濡れてるでしょう」
奏人を見る。
何もついていない。
私はティッシュを一枚取り、あえて皆の前で彼の口元を拭いた。
紙には何もつかなかった。
奏人は黙ったままだった。
ただ、その目を見れば、この食卓が普通ではないと気づいていることくらい分かる。
しばらくして、彼のほうから母へ声をかけた。
「もし僕が何か失礼なことをしているなら、遠慮なく言ってください」
「そんなことないわ。うちは少し衛生面に気をつけてるだけだから」
母は笑ってみせた。
奏人はそれ以上言わず、私を一度見ただけだった。
食事は早々に終わった。
帰り際、母は玄関まで出てきて、これからはあまり頻繁に来なくていいと言った。家族の体調もあるし、客を迎えるのは大変だから、と。
ドアが閉まる直前、私はわざと歩調を落とした。
奏人を先にエレベーターへ向かわせ、忘れ物をしたと嘘をつく。
ドアは完全には閉まっていなかった。
隙間から覗くと、さっきまで嫌悪感を露わにしていた三人が、もう手土産の周りに集まっている。
父はウイスキーを持ち上げ、何度もラベルを確認していた。
母はブレスレットを取り出し、さっそく手首に合わせている。
莉央はイヤホンの箱を抱え、嬉しそうに眺めていた。
そこに怯えた様子はなかった。
私は中へ入らず、そのまま階下へ戻った。
車に乗った直後、家族LINEが鳴った。
母は、ブレスレットが安っぽく見えるから本物か怪しいと言った。
父は、ウイスキーも出どころが分からないので処分するつもりだと書いた。
莉央は、イヤホンだって偽物かもしれない、と続けた。
私は画面を閉じた。
隣の奏人は、来るときより明らかに口数が減っていた。
何も愚痴らず、静かにエンジンをかける。
しばらくして、彼のスマホが光った。
何気なく確認した奏人が、少し眉を寄せる。
表示されていたのは莉央からのメッセージだった。
「奏人さん、今日は本当にごめんなさい。両親に悪気はないんです。姉はちょっと気が強くて、人の気持ちを考えるのが苦手なところもあって……。もし嫌な思いをしたなら、私でよければ聞きます」
さっきまでは「久我さん」だった。
なのにLINEでは、もう「奏人さん」。
その距離の詰め方が、かえって気持ち悪かった。
私の前では老人扱いするくせに、本人にはこんなメッセージを送れる。
家族LINEを開いた。
「もう演技しなくていいよ。どうしてそこまでして奏人を九十歳の老人にしたがるのか、だいたい分かったから」
送信した途端、グループは静まり返った。
5
無反応の画面を見つめているうちに、考えが決まった。
「奏人、次の道で戻って。家に戻りたい」
彼は何も聞かず、まず交差点で車を曲げた。
藤丘へ向かう道へ入ってから、低い声で尋ねる。
「何を確かめるつもり?」
「ちょっと忘れ物」
自分でも苦しい言い訳だと思う。
奏人も分かったはずなのに、それ以上は聞かなかった。
十分ほどして、車は実家の下に着いた。
「ここで待ってて」
シートベルトを外すと、彼の眉が寄る。
不安そうな顔をされ、私は先に付け加えた。
「何かあったらすぐ電話する」
奏人はしばらく黙っていた。
「スマホ、マナーモードにしないで」
「分かった」
私は一人で上がった。
玄関の前で呼び鈴は押さず、昔使っていた予備の鍵を差し込む。
中の三人は気づいていなかった。
母の声が聞こえる。
「孝之、あのブレスレット本物っぽいわ。さっきブランドを調べたけど、結構するみたい」
父も上機嫌だった。
「あの酒のほうがもっと高い。限定品だ」
莉央が笑う。
「だから言ったでしょ。奏人、絶対条件いいって。お姉ちゃん、どこであんな人捕まえたんだろ」
しばらくして、母の声が少し低くなった。
「でも千紗、今日ちょっと変じゃなかった? 何か疑ってるんじゃない?」
少しの沈黙。
莉央はさほど気にしていないようだった。
「一、二回言ったくらいで信じるわけないでしょ。お父さんもお母さんも、私も結菜も同じこと言ってる。写真だってあるんだから、ずっと続けば自信なくすよ」
私はその場で録音を始めた。
今度は父が口を開く。
「とにかく今、久我と結婚させるわけにはいかない」
母が莉央に、本気で奏人を狙っているのかと聞いた。
莉央は少し面倒そうに答えた。
「別れたあとで話くらいできるでしょ。あれだけ条件いいんだから、試す価値はあるじゃん」
そこで、一つ目の理由は分かった。
莉央は奏人を欲しがっている。
両親も、それを知って手を貸している。
けれど、それだけでは一度目の人生の最後まで説明できない。
莉央は結局、奏人とは付き合えなかった。それでも私は病院から出してもらえなかった。
その疑問に答えるように、父が続けた。
「男のことだけ考えるな。もっと大事なのは、千紗を今結婚させないことだ。二十五になるまで何事もなく過ごさせるのもまずい」
母の声が小さくなる。
「夕映町の家、また話が来てるの?」
息を止めた。
夕映町。
祖父の源一郎が残した家だ。
祖父が亡くなる前、まだ幼かった私は一度だけ部屋へ呼ばれたことがある。将来お前に渡すものがある、と言われ、小さな鍵を渡された。
その鍵は後に、母が預かると言って持っていった。
ずっと忘れていた記憶だった。
莉央の声が続く。
「だから、まず精神科に通った記録を残させればいいの。ほかのことは、そのあと考えれば。少なくとも今すぐ本人だけで全部手続きできる状態にはしないほうがいい」
「本当に意味あるの?」
「何もしないよりマシでしょ」
そこまで聞けば十分だった。
彼らだって馬鹿ではない。悪役みたいに、計画の全工程を最初から最後まで口に出すはずがない。
私はドアを押し開けた。
笑い声が止まった。
父は「処分する」と言っていたウイスキーを手に持ち、母は「怪しい」と言っていたブレスレットを手首に当てている。莉央のイヤホンも、すでに箱から出されていた。
録音中のスマホを持ち上げた。
「続きは?」
母の顔から血の気が引いた。
「千紗? どうして……」
最初に立ち直ったのは父だった。
「帰ってきたなら声をかけろ。自分の親の話を盗み聞きして、何のつもりだ」
「奏人を老人に仕立て上げるよりは、まだ普通じゃない?」
部屋へ入る。
莉央がすぐに首を振った。
「お姉ちゃん、勘違いしてる。私たちは心配してただけ」
録音を再生した。
『ずっと続けば自信なくすよ』
自分の声が部屋に響いた瞬間、莉央の表情が固まった。
母がスマホを取ろうと近づいてくる。
「千紗、お願いだからまず話を聞いて。私たちはただ、奏人さんが本当にあなたのことを――」
「だから、老人の写真を作ったの?」
母の口が止まる。
私は莉央を見た。
「結菜にもお金払ったんでしょ?」
一瞬だけ目が泳いだ。
それで十分だった。
一度目の私は、泣きながら理由を聞いた。
どうして私にこんなことをするのか。何が本当なのか。誰か教えてほしいと何度も頼んだ。
今はもう、言い訳を聞く気にもなれなかった。
玄関へ向かう。
父がテーブルを強く叩いた。
「待て! 今日この家を出ていくなら、二度と俺を父親だと思うな!」
私は足を止めた。
振り返ると、父は私が謝るのを待つような顔をしている。
「分かった」
予想していなかったのだろう。
父の顔が固まった。
私はドアを開ける。
「私も、もう戻るつもりないから」
6
階下へ下りると、奏人はまだ車のそばに立っていた。
私を見つけるなり、こちらへ歩いてくる。
「大丈夫?」
頷くと、彼は事情を聞くより先に、私の持っていたバッグを受け取った。
車の前まで来て、私は立ち止まる。
「もう一か所、付き合ってほしい」
奏人は私の顔を見た。
「結菜さんのところ?」
思わず目を瞬いた。
「どうして分かったの?」
「今の顔。実家だけで終わらせる気じゃなさそうだから」
少しだけ笑ってしまった。
三十分後、水音町に着いた。
結菜は部屋着にフェイスパック姿でドアを開けた。
私と奏人が並んでいるのを見た瞬間、手にしていたスナック菓子の袋が床へ落ちる。
「千紗? なんで――」
「九十歳のおじいさんに会って、具合悪くなってないか見に来た」
最後まで言わせなかった。
結菜の顔色が変わる。
そのまま部屋へ入った。
テーブルには、午前中使ったらしいコーヒーカップがまだ置かれている。
パソコンも開いたままだった。
デスクトップ版LINEの画面には、莉央とのやり取りが表示されている。
一番新しいメッセージは莉央からだった。
『お姉ちゃん、信じ始めてる?』
結菜の返信。
『たぶん。あの加工写真、気持ち悪すぎ。自分で見ても吐きそう』
さらに遡ると、送金履歴まで残っていた。
写真を加工する人間を手配したのは莉央。結菜は電話で話を合わせ、本当に老人が見えているように振る舞う。
報酬は現金だけではなかった。
学生ローンと消費者金融の返済まで、莉央が一部負担する約束になっている。
私はスマホを取り出し、画面を順番に撮った。
そこでようやく結菜も我に返ったらしい。
「千紗、何してるの!」
奪いに来た彼女と私のあいだへ、奏人が入った。
手は出さない。
ただ結菜を見た。
「ずっと俺に老人臭がするって言ってたのも、莉央さんに頼まれた?」
結菜の身体が固まった。
「……ただの冗談だったの」
前なら、その言葉にすがって理由を聞いたかもしれない。
もうそんな気にはなれなかった。
「何度聞いても、老人に見えるって言ったよね」
結菜の目が赤くなる。
「千紗があんなに怖がると思わなかった」
「私が自分の目まで疑い始めてるの、分かってたでしょ」
俯いた結菜の頬を、涙が落ちた。
「莉央に借金のこと知られてたの。協力すれば、一部払ってくれるって……。私は本当に、二人を別れさせるだけだと思ってた」
長い付き合いだった。
それでも、もう戻れない。
「今後は連絡しないで」
奏人と一緒に部屋を出た。
車に乗っても、胸のつかえは消えなかった。
一度目に入院していた頃のことを思い出す。
あるとき職員が、若い男の人が何度も面会に来ているのに、家族がすべて断っていると話していた。
今になって思えば、あれは奏人だったのだろう。
もし莉央が彼を手に入れられなかったのなら、なぜ両親はその後も私を病院に置き続けたのか。
私たちを別れさせることだけが目的なら、そこで終わるはずだった。
ほかにも、私を支配しておく理由があったとしか思えない。
実家のドア越しに聞いた話が頭をよぎる。
「おじいちゃんが亡くなったあと、私に何か残してたかもしれない」
奏人がこちらを見る。
「自分の名義になってるものを、一度ちゃんと調べたい」
どうして今まで知らなかったのかとは聞かれなかった。
「相続に詳しい弁護士、探そうか?」
私は頷いた。
奏人には、相続や信託を扱う弁護士に心当たりがあった。その日のうちに連絡を取ってくれた。
調べてみると、私が知らなかったものがいくつも出てきた。
祖父の源一郎は、夕映町に古い戸建てと広い土地を残していた。
家そのものには大した価値はない。
けれど周辺は数年前から再開発区域に入り、地価が上がり続けていた。すでに複数の事業者から買い取りの話も来ているという。
遺言では、その不動産は最終的に私が受け取ることになっていた。
相続した当時はまだ子どもだったため、祖父は信託の仕組みも整えていた。契約上、私が二十五歳になるか、結婚後に必要な手続きを終えれば、自分の意思で処分を決められるようになる。
二十五歳の誕生日までは、あと数か月。
奏人と結婚すれば、それより早く手続きが進む。
両親が焦っていた理由が、そこでつながった。
弁護士はもう一つ、私が知らなかった保険も見つけた。
未成年だった頃から続いている生命保険と傷害保険だった。
死亡保険金の受取人には、父の名前が入っていた。
机に並んだ資料を見ながら、しばらく言葉が出なかった。
弁護士は、私が誤解しないよう念を押した。
「精神科に通った記録があるだけで、ご家族が千紗さんの財産を自由に動かせるわけではありません。成年後見が必要なら、家庭裁判所の手続きもあります」
もちろん、それは分かっている。
でも両親は、最初からすべてを一度に奪う必要なんてなかった。
精神的に不安定だという受診歴を積み重ねながら奏人から引き離し、身分証や印鑑、口座まで家族の管理下に置く。
一度目の私は、自分の記憶すら信じられないところまで追い詰められていた。あそこまで弱ってしまえば、その先は今よりずっと簡単だっただろう。
保険のことは、それ以上考えたくなかった。
帰りの車の中で、奏人は資料を読み終えてから長い間黙っていた。
「これだけあれば、警察に相談できる」
低い声だった。
私は資料をファイルへ戻した。
「今行ったら、まだ逃げ道があると思う」
両親は娘を心配しただけだと言えるし、莉央は結菜のせいにできる。結菜だって、悪ふざけだったと言い張るかもしれない。
話し終えると、奏人はさらに眉を寄せた。
「まだ何かするつもり?」
「第三者がいる場所で、もう一度同じ話をしてもらいたい」
少し考えただけで、奏人には伝わった。
「病院か」
頷く。
彼はすぐに賛成しなかった。
代わりに私の手を取り、強く握った。
「一人ではやらないで」
7
それから数日、家族の誰もブロックしなかった。
SNSには奏人との写真を一枚だけ載せ、家族と結菜にだけ見える設定にした。
添えた文章も短い。
『最近、自分が見てるものに自信がなくなることがある』
すぐ莉央が反応した。
『お姉ちゃん、少し分かるようになってきた?』
私は認めも否定もせず、
『自分でもよく分からない』
とだけ返した。
しばらくして、結菜からも個別にメッセージが届く。
『最近かなり疲れてるんじゃない? 一度病院行ってみたら?』
考えておく、と答えた。
三日後、私から母へ電話した。
「お母さん、最近ちょっと怖い」
それまで夕食の話をしていた母の声が変わる。
私は用意していた話を、少しずつ口にした。
奏人を見ていると、いつも通り若く見えるときもあれば、ふとひどく年老いて見える気がする。
自分でも、どちらが正しいのか分からなくなってきた。
電話の向こうで数秒、沈黙があった。
次に聞こえてきた母の声は、一度目の人生で何度も聞いたものと同じくらい優しかった。
「怖がらなくていいのよ。最近いろいろあったし、疲れてるだけかもしれないでしょう。一度きちんと診てもらえば、安心できるから」
私はその流れに乗った。
「お父さんと莉央も一緒に来て。結菜にも来てほしい」
母は少し戸惑ったようだった。
それでも、最後には了承した。
電話を切り、向かいに座る奏人を見る。
テーブルの上には一つのファイルが置かれていた。
祖父の遺言書、信託関係の資料、不動産と保険の書類。
莉央と結菜のLINEのスクリーンショット、送金記録、二種類のカフェ写真、実家のドア越しに録音した音声も入っている。
奏人の母方の叔父、三輪圭吾は精神科医だ。
だからこそ、彼本人には診てもらわないことにした。
奏人の親族が診察すれば、両親に「身内だから庇った」と言わせる材料を与えてしまう。
三輪には、葉澄総合医療センターの藤崎先生を紹介してもらっただけだ。
私たちとは私的なつながりのない医師だった。
母には、奏人は病院まで一緒に来るものの、診察には入らないと伝えてあった。
そのほうが家族も警戒しない。
翌日、家族と結菜を連れて病院へ行った。
数日ほとんど眠れていないように見せるため、化粧もせず、わざと疲れた顔を作った。
待合室に着くと、母が私の顔を見て心配そうに眉を寄せた。
「千紗、そんなにふらふらなら無理しないで。ちょっと待ってなさい」
母が自分から看護師に声をかけ、車椅子を借りてきた。
私は断らなかった。
自分から乗るより、そのほうがずっと自然だった。
奏人は少し離れたところから、その様子を見ていた。
母は最初から最後まで、娘を心配する母親そのものだった。
私の手を握り、穏やかな声をかけてくる。
「大丈夫よ。自分で『おかしいかもしれない』って気づけたのも大切なことだから。先生と話せば、少し楽になるわ」
父も、診察では正直に話せばいいと念を押した。
莉央は隣に座り、私の手の甲を軽く叩く。
「お姉ちゃん、みんないるから」
一度目の私は、こんな言葉に安心していた。
今はただ、ひどく疲れる。
名前を呼ばれ、最初は私と家族、結菜だけで診察室へ入った。
奏人は外で待っている。
藤崎先生は基本的な事情を確認したあと、まず家族側から話を聞くことにした。
母がすぐに口を開く。
「娘が最近、見えているものについておかしなことを言うんです」
慎重に言葉を選びながら、奏人のことを説明する。
「娘には二十四歳の若い男性に見えているそうなんですが、私たちにはかなり年を取った人にしか見えなくて……。最近は本人も、見え方が変わることがあると言い始めました」
藤崎先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「その方は今日、病院に来ていますか?」
母が一瞬、私を見た。
「待合室には……」
「では、ご本人にも少しお話を伺ってよろしいですか?」
母も父も、ここで断る理由はなかった。
やがて奏人が呼ばれた。
診察室へ入ってきた彼を見た瞬間、母の肩がわずかに強張る。
藤崎先生は奏人の身分証を確認し、いくつか簡単な質問をした。
それから母へ視線を戻す。
「久我さんは二十四歳です。少なくとも私には、ご家族がおっしゃるような高齢の方には見えません。身分証に記載された年齢とも矛盾していません」
母の笑顔が少し固くなった。
父がすぐ口を挟む。
「でも、私たちには同じ老人に見えるんです。腰も曲がってるし、歯もほとんど残ってない。手だってずっと震えてる」
藤崎先生は最後まで聞き、カルテに何かを書き込んだ。
「もし千紗さんだけが久我さんを若い男性だと認識し、まったく関係のない第三者が皆さんと同じように見えているのであれば、千紗さん側の見え方について確認する必要はあります」
そこで一度、顔を上げる。
「ただ、今のところ『高齢者に見える』と話しているのは、ご家族と牧瀬さんだけですね。その点も含めて考える必要があります」
診察室が静かになった。
母が無理に笑う。
「先生、まさか私たちが全員で嘘をついてるとおっしゃるんですか?」
「嘘をついてるよ」
私が答えた。
全員の視線が集まる。
車椅子から立ち上がった。
母の顔から血の気が引いていく。
「千紗……?」
「奏人が老人に見えたことなんて、一度もない」
莉央も立ち上がる。
「でもお姉ちゃん、この前――」
「あれは、あなたたちに信じさせるために言ったの」
それ以上の言葉は出なかった。
私は録音を再生した。
『ずっと続けば自信なくすよ』
莉央の声が、診察室にはっきり響く。
続けて、結菜とのLINEも見せた。
画像加工、送金、それから手の震えや入れ歯、車椅子についてどう話を合わせるか。
藤崎先生の表情が次第に硬くなる。
母がたまらず立ち上がった。
「先生、違うんです。これは娘が思っているようなことでは――」
言い訳が完成する前に、二枚の写真を机へ置いた。
「こっちは結菜から届いた写真です。もう一枚は、奏人のスマホに残っていた元の写真」
同じ場所、同じ時間。
違うのは、奏人だけ。
結菜は椅子の端で小刻みに震えていた。
父は一度出口へ目をやったが、近くにいた看護師から「まだ診察中ですので」と声をかけられ、そのまま席に戻った。
さらに祖父の遺言や信託、保険の書類を出す。
藤崎先生は財産関係について勝手な判断はせず、弁護士の確認を受けている資料かどうかだけを尋ねた。
すでに確認済みで、今後警察へも相談する予定だと答える。
その瞬間、結菜が耐えきれなくなった。
「私がやりたくてやったんじゃない……」
母が勢いよく振り返る。
「結菜ちゃん!」
けれど彼女はもう止まらなかった。
「私はお金をもらって、言われたことを話しただけ。写真を作ったのは私じゃない。莉央が別の人に頼んだの」
「何言ってるの!」
莉央が声を上げる。
結菜は泣きながらスマホを指した。
「LINE全部残ってるでしょ! 今さら何を誤魔化すの!」
母は私の手をつかんだ。
「千紗、お願い。最初は本当に心配してただけなの。莉央が、こうすれば奏人さんの気持ちを確かめられるって言うから……。こんなことになるなんて思ってなかったのよ」
ゆっくり手を抜く。
「精神科に通わせようとしたのも?」
母は答えない。
「私に『精神状態が不安定』って記録を残させることまで、奏人を試すためだった?」
唇が動くだけで、声は出なかった。
父が突然怒鳴った。
「もういい!」
立ち上がった顔は真っ赤だった。
「ここまで大ごとになったのは、こっちだけのせいじゃないだろ! 急にあんな条件のいい男を連れてきて、結婚するなんて言い出すから――」
途中で、自分でも何を口にしたのか気づいたらしい。
私は黙っていた。
沈黙に追い詰められるように、父はさらに声を荒らげた。
「お前の祖父さんが残したものだって、もともとはこの家の財産だ! どうしてお前一人のものになるんだ!」
もう、それ以上聞く必要はなかった。
8
病院からは、早めに警察へ相談し、財産や身分証類についても弁護士を通して守るよう勧められた。
その後の調査は、すぐには終わらなかった。
警察は関係者からそれぞれ話を聞き、LINEの履歴や送金記録、画像加工の経緯を確認していった。
莉央から画像加工を頼まれた人物も見つかった。
後になって聞いた話では、その人は最初、単なる悪ふざけだと思っていたらしい。
ところが莉央は、奏人をもっと老けさせるよう何度も要求した。
車椅子や老人斑、尿バッグまで加えさせたという。
結菜とのやり取りも残っていた。
その中に、しばらく目を離せなかった会話があった。
『千紗、本当におかしくならない?』
結菜の問いに、莉央はこう返していた。
『自分を疑い始めれば、それでいい』
一度目の私は、その通りになった。
夕映町の不動産については、弁護士と信託機関が改めて手続きを確認してくれた。
重要な財産に関する意思確認は、今後すべて私本人か、私が指定した弁護士を通すことになった。
両親が「娘の代わりに」と言って書類へ触れることは、もうできない。
保険の受取人についても見直した。
孝之や志保、莉央が最終的にどんな責任を負うのかは、その後の捜査と司法手続きに委ねた。
結菜は途中から捜査に協力し、LINEや送金記録など、いくつもの資料を提出した。
そのこともあって、ほかの三人とは事情を分けて扱われたと、あとで弁護士から聞いた。
謝罪のメッセージも何度か届いた。
私は一度も返さなかった。
長い付き合いだった。
だからこそ、もう元には戻れない。
私から家族へ連絡することもなかった。
昔の私なら、後悔する姿を見たいと思ったかもしれない。
謝らせたかったかもしれない。
けれど実際にあの家から離れてみると、そんなものがなくても生きていけると少しずつ分かってきた。
彼らが過ちを認めるかどうかで、私が経験したことは変わらない。
数か月後、夕映町の再開発が本格的に動き始めた。
弁護士と信託機関に手伝ってもらい、祖父が残した土地と建物を改めて査定した。
最初に接触してきた事業者の提示額は、一見すると十分高く見えた。
けれど弁護士によれば、相場を知らないうちに早く契約させたい意図が透けているという。
私は急がなかった。
何度か条件を交渉し直し、最終的には当初よりずっと納得できる内容になった。
代金が自分で管理する口座へ入った日、銀行の前でしばらく動けなかった。
一度目の人生のままだったら、祖父がこんなものを残してくれていたことさえ知らないまま死んでいたかもしれない。
背後から肩を軽く叩かれた。
「そんなところに立ってて寒くない?」
振り返る。
見慣れた顔があった。
私は無意識に、奏人の頬を指でつまんだ。
彼はされるがままになったあと、呆れたように笑う。
「最近また確認してない?」
「たまにね」
奏人は私の手をつかみ、そのまま自分のコートのポケットへ入れた。
「まだ二十四なんだから、一晩で七十歳老けたりはしないと思うけど」
思わず笑う。
しばらく並んで歩いたあと、奏人がぽつりと言った。
「でも、いつかは年取るんだよな」
横を見ると、あの加工写真を思い出したのか、自分の顎を触っている。
「何十年もしたら、あの写真に少しくらい近づいてるかも」
私は少しだけ想像してみた。
「そのとき考えればいいんじゃない?」
奏人はどうも納得していないらしい。
わざと顔を覗き込んでくる。
仕方なく笑った。
「本当に九十まで一緒にいられたら、病院にも付き合うし、薬も忘れないように言うよ。今より面倒くさくなってたら、そのぶん文句も言うけど」
それでようやく満足したらしい。
奏人も笑った。
その後、私たちは汐里にあるマンションを借りた。
すぐ家を買う気にはならなかった。
長い間、私の人生は周りの人間に勝手に決められていた。
選べるようになったからこそ、今度は急ぎたくなかった。
ある夜、二人でベランダに立ち、葉澄市の明かりを眺めていた。
背後から奏人の腕が回る。
しばらく街を見ていた私は、自分から口を開いた。
「今でも、たまに怖くなる」
奏人はすぐ慰めようとはしなかった。
抱く腕に、少しだけ力が入る。
「誰かにすごく自信ありげに『千紗が間違ってる』って言われると、一瞬だけ身体が固まるの。頭では確認すればいいって分かってるのに」
少しして、奏人が言った。
「俺の言うことだって、そのまま信じなくていいよ」
振り向くと、額が触れそうな距離に顔がある。
「変だと思ったら確かめればいい。家族だからとか、長い付き合いだからって、千紗のほうが間違ってるとは限らないだろ」
数秒、何も言えなかった。
やがて笑いがこぼれる。
「そんなこと言ってたら、プライバシーなくなるよ」
「全部は困る」
奏人も笑った。
それから少し声を落とす。
「少なくとも、次に身体検査するなら事前に言って」
あの夜を思い出し、一気に耳が熱くなった。
私は彼の口を塞ごうと手を伸ばした。
奏人はその手をつかみ、掌へ軽く口づける。
それから一度私を離し、ポケットから小さな箱を取り出した。
中を見た瞬間、分かった。
指輪だった。
一度目の人生で、奏人に最初にプロポーズされたときにもらったもの。
病院へ入れられたあと、あの指輪がどこへ行ったのかは知らない。
やり直したあとも、奏人は結婚の話をしてくれていた。
けれど次々と問題が起き、二人で落ち着いて向き合う時間がなかった。
箱を見つめながら言った。
「一回、もうプロポーズしてるよね」
奏人は小さく笑った。
「あのとき千紗、ずっと泣いてたから。俺、自分が何言ったかも半分覚えてない」
「ちゃんと、うんって言ったよ」
「知ってる」
そう答えながらも、奏人は私の前で片膝をついた。
「でも、もう一回ちゃんと言いたい」
夜風が、彼の黒髪を揺らす。
奏人が顔を上げた。
「千紗。俺と結婚してください」
すぐには答えなかった。
ただ、目の前の彼をゆっくり見た。
二十四歳の奏人が、このままの姿でいるわけではない。
いつかしわが増え、髪も白くなり、若い頃のようには動けなくなる。
本当に二人で九十歳まで生きられたら、誰かの世話を必要とする日だって来るかもしれない。
そう考えたら、なぜか笑えてきた。
家族は、老いた奏人の姿を作り上げて私を怖がらせようとした。
でも、人が年を取ることそのものは、怖いことではない。
私は手を差し出した。
「うん。結婚する」
奏人が指輪をはめてくれる。
立ち上がった彼を見ているうちに、ふとカフェの加工写真を思い出した。
「でも、一つだけ約束して」
奏人は何も言わず、続きを待った。
「本当におじいちゃんになっても、入れ歯を私のコーヒーに落とさないでね」
一瞬きょとんとしたあと、奏人は俯いて笑い始めた。
「まだ覚えてたんだ」
「忘れられるわけないでしょ。あのとき、本気であなたの歯まで触って確認したんだから」
奏人は私を腕の中へ引き寄せた。
顎が頭の上に触れる。
「じゃあ、なるべく格好よく年を取るよ」
胸元に頬を預けながら、私も笑った。
かつての私は、何が本当なのかを誰かに教えてもらおうとしていた。
今はもう、その必要はない。
自分が何を見たのかも、隣にいる人が誰なのかも分かっている。
何十年も先、奏人がどんなふうに年を取るのか。
今から想像しなくてもいい。
その日が来たら、自分の目で見ればいい。




