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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと罪そのものだったから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/07

「カミル・ヴァルクール。君との婚約を破棄し、この場で断罪する」


王立学院の卒業夜会。


白い花と金の燭台で飾られた大広間の中央で、王太子ジュスト・レグナールは高らかに告げた。


楽団の演奏は止まり、集まった貴族たちは息をひそめている。


その視線の先に立つ公爵令嬢は、少しも驚かなかった。


黒い髪を背へ流し、喉元まで覆う濃紺のドレスをまとったカミルは、ただ静かに王太子を見返していた。


「承りました」

「……何だと?」

「婚約破棄を、承りましたと申し上げました」


取り乱すと思っていたのだろう。

ジュストの眉がわずかに寄った。


彼の隣には、聖女候補アニエス・ロアンが立っている。淡い金髪の少女は青ざめ、両手を胸の前で固く組んでいた。


「まだ罪状を聞いていない」

「聞く必要がございますか」

「自分が何をしたかも分からないと言うのか!」


王太子の声が大広間へ響く。

誰かが肩を震わせた。


カミルがそちらを見ると、その令嬢は慌てて目を逸らした。白い手袋の上に、赤い染みが広がっている。


実際に血がついたわけではない。

あの令嬢にだけ、そう見えている。


半年前、病弱な姉へ届けられるはずだった薬を隠し、その金で舞踏会用の真珠を買った。

本人が忘れたふりをしているだけだ。


カミルは何も言わなかった。

言わなくとも、令嬢は両手を胸元へ隠した。


「君はアニエスを何度も苦しめた」


ジュストは続けた。


「廊下ですれ違うたびに睨みつけ、礼拝堂では息もできないほど追い詰めた。彼女の部屋へ黒い花を置き、眠るたび悪夢を見るよう呪った」

「黒い花を置いたことはございません」

「ならば、彼女の枕元に現れた花をどう説明する!」


カミルはアニエスへ目を向けた。

少女はびくりと肩を跳ねさせた。


「アニエス様には、お心当たりがおありでしょう」

「や、やめてください」

「わたくしは何も申し上げておりません」

「その目が、その目が私を責めるのです」


アニエスの声が震える。

彼女が初めてカミルとすれ違った日の夜、枕元に黒い花が咲いた。

花弁は一枚ずつ、幼い少女の指へ変わったという。


王都の施療院で、アニエスは一度だけ、配られる薬を自分の分より多く受け取った。

熱に苦しむ隣の寝台の少女が、翌朝まで保たなかったことを知りながら。


黒い花は、カミルが置いたものではない。

罪が、自ら形を選んだだけだ。


「ほら、まただ!」


ジュストがアニエスを庇うように前へ出た。


「君は何も言わず、人を追い詰める。君のそばにいる者は、皆が苦しむ。過去の過ちを思い出し、ありもしない声を聞き、眠れなくなる。君こそが、この国に悪意を広める元凶だ」

「わたくしは、悪意を広めてはおりません」

「では何をしている」


「何も」

カミルは答えた。


「わたくしは何も作りません。何も植えつけません。皆様がご自身の中にお持ちのものが、わたくしのそばでは見えるだけです」


大広間がざわめいた。


ジュストの顔に嫌悪が浮かぶ。


「それを呪いと呼ぶのだ」

「そうお呼びになりたいのでしたら」

「認めたな」

「いいえ。ただ、殿下がそうお決めになることを止めなかっただけです」


王太子の頬が赤くなった。

幼い頃から、彼はカミルのこの話し方を嫌っていた。


反抗はしない。

だが、決して同意もしない。

間違いを指摘するときも、声を荒らげず、逃げ道だけを静かに塞いでいく。

彼はそれを、冷酷さだと思っている。


「もうよい」


低い女の声が響いた。


玉座の傍らに座っていた王妃コンスタンス・レグナールが立ち上がる。


銀を混ぜた黒髪を結い上げ、深紅のドレスをまとった王妃は、騒ぎの中でも少しも表情を変えていなかった。


「カミル・ヴァルクール。王家に仇なす呪いを用い、王太子の婚約者としての地位を利用して聖女候補を害した罪により、そなたを死罪とします」


今度こそ、大広間がどよめいた。


婚約破棄ではない。

修道院送りでも、国外追放でもない。


死罪。


「処刑は明朝。日の出に先立ち、建国王の霊廟前にて執り行います」


カミルは王妃を見た。


王妃もまた、カミルを見返した。

恐れを何度も押し殺し、もはや手順だけを見る者の目だった。


「承りました」


カミルが頭を下げると、会場の端で何かが倒れる音がした。


養母のセシルだった。


夫であるヴァルクール公爵ベルトランが、その身体を支えている。


彼は妻を抱きとめながら、カミルを見なかった。


見られないのだ。

何年も前から、この日が来ると知っていたから。

言わずとも、ベルトランの足元には黒い鎖が見えている。


沈黙という名の罪が、形を得ていた。


夜半。


王城地下の拘禁室で、カミルは三人の訪問者を迎えた。


最初は養父ベルトランだった。

「私は知っていた。お前が十八になれば、罪を着せられ、処刑される。そのために我が家へ預けられたのだと」

「はい」

「逃がせば妻も領民も処罰される。そう言い訳して、私は何もしなかった」


彼の喉へ、黒い鎖が巻きついていく。


「許してくれとは言えない」

「わたくしは罰ではございません。許しでもございません」


カミルは鉄格子越しに、父と呼んだ男へ告げた。


「お父様は、わたくしを殺してはおりません。ただ、殺されると知りながら育て、送り出しただけです」

「……そうだ」


父として愛したことも、王家へ差し出したことも、どちらも彼のものだった。


次に来たアニエスは、自分は嫌がらせを訴えていないこと、王太子の庇護を失いたくなくて途中から黙ったことを認めた。

「明日、皆の前で話します」

「そうなさいませ」

「あなたは助かりますか」

「いいえ」


それでもアニエスはうなずいた。

知りながら黙った者。

利益を失いたくなくて黙った者。


二人が去ったあと、最後に現れた王室記録官エリアス・サヴァールだけは、知ったことを黙らなかった。


髪は乱れ、片方の眼鏡のつるが折れている。両腕には古びた記録簿と、布に包まれた石板を抱えていた。


彼は鉄格子の前へ記録簿を広げた。


「百二十年前、王太子を呪ったとして処刑された公爵令嬢。二百四十一年前、王妃毒殺未遂で処刑された侯爵令嬢。三百八十年前、聖女を害したとして火刑にされた伯爵令嬢」


記録上は別人だった。

生家も身分も異なる。

だが、添えられた肖像はすべて同じ顔をしている。


黒い髪。

白い肌。

夜色の目。


「あなたなのですか」

「わたくしです」

「人ではないのですか」

「生まれは違います」


カミルは答えた。


「けれど、名を与えられ、人として生きたことはございます」


エリアスは石板から布を外した。

灰色の表面には、削られた古い文字が残っている。


「王宮最古の礼拝堂から見つけました。ここに名があります」


彼の指が文字をなぞる。


「初代王妃、カミル・ツゴウマ」


その名を聞いた瞬間。


六百年の時間が、カミルの中で静かにほどけた。


まだアルヴェリアという国がなかった頃。

大地には、焼けた鉄と死者の匂いが満ちていた。

最後の城門が破られ、三十年続いた戦争が終わった日。


レオヴァルト・レグナールは、勝者として屍の間を歩いていた。


敵王を討ち、同盟を破り、降伏した兵まで斬らせた。

彼が掲げた旗の下で、人々は歓声を上げた。

救国の英雄。

乱世を終わらせた王。


だが、その夜。

死者を積み上げた広場の中央に、一人の女が立っていた。


裸足だった。


衣服の代わりに、血と煤が薄い布のように身体へまとわりついている。

長い黒髪は風もないのに揺れ、足元からは無数の声が聞こえた。

殺された者。

見捨てられた者。

命令に従った者。

命令した者。


兵たちは剣を抜いた。

女を見た途端、誰もが自分の背後に何かを見たからだ。


奪った指輪を握る手。

焼いた村から逃げ遅れた子供。

食料を隠して飢えさせた仲間。


「化け物だ!」

誰かが叫んだ。

弓が引かれた。


レオヴァルトは手を上げ、それを止めた。


「名は」


女は彼を見た。


「ツミ」


人の声に似ていたが、人のための言葉ではなかった。


「カルマ」


一歩、彼女が近づく。


「ゴウ」


兵たちは後ずさった。


レオヴァルトだけが動かなかった。


彼の背後には、誰より多くの死者が立っていた。


敵兵だけではない。

勝つために切り捨てた味方。

飢えたまま進軍させた民。

和睦を信じて門を開けた使者。


そのすべてを、彼は見た。


「お前が見せているのか」

「いいえ」

「では、これは何だ」

「あなたが、したことです」


「私を裁きに来たのか」

「いいえ」

「許すのか」

「いいえ」


レオヴァルトは、疲れ切った低い声で笑った。


「ならば、お前は何のためにいる」


女は答えなかった。


答えを持たなかったのだ。


罪に目的はない。


人が犯すから存在する。

積み重ねるから残る。

忘れようとするから、形を得る。


「ツミ、カルマ、ゴウでは呼びにくい」


レオヴァルトは剣を鞘へ戻した。


「名ではございません」

「分かっている。それは、お前が何であるかだ」

「わたくしには、違いが分かりません」

「ならば今から覚えろ」


彼は、血と煤の中に立つ女へ手を差し出した。


「カミル」


女は初めて瞬きをした。


「カミル」


もう一度、王は呼んだ。


「家名はツゴウマでよい。すべてを消す必要はない。お前が何であるかも残せ」


「カミル・ツゴウマ」


「そうだ」

「それが、わたくしですか」

「少なくとも、私が呼ぶときは」


差し出された手を、女は見つめた。


「触れれば、あなたの罪は消えません」

「消すつもりはない」

「苦しみます」

「すでに苦しい」


「わたくしを殺せば、見えなくなるかもしれません」

「お前を殺した罪が、新しく増えるだけだろう」


その言葉を聞いたとき。


罪という概念は、初めて人間を理解できないと思った。


人は罪を隠す。

誰かへ押しつける。

消えたことにする。

そのためなら、さらに罪を犯す。


目の前の男も、多くを殺した。

国を作り、戦を終わらせるために必要だった。

それでも彼は、罪ではなかったとは言わない。

必要だったことと罪であることを、同時に認めていた。


カミルはその手を取った。


レオヴァルトは、彼女を城へ連れ帰った。


その翌朝から、城は混乱した。

兵は彼女を見て眠れなくなった。

官吏は帳簿へ触れられなくなった。

聖職者は祈りの途中で、自分が見捨てた病人の声を聞いた。


臣下たちは口々に訴えた。

「あの女を城から追放してください」

「兵の士気に関わります」

「国を建てる前に、内側から崩れます」


レオヴァルトは玉座の隣にカミルを立たせたまま、彼らの訴えを聞いた。


「カミル。お前が何かしているのか」

「いいえ」

「ならば、あれらが見ているものは」

「彼らが、したことです」

「そうか」


それだけ言い、王は追放を退けた。


数日後。


北方軍を率いた将軍が、敗残兵の処刑を正当なものだったと報告した。


カミルが彼を見ると、その背後に十七人の少年兵が現れた。


将軍は顔色を変えた。


「敵の兵です!」

「武器は持っていたか」


レオヴァルトが尋ねた。


「持っておりませんでしたが、後に反乱へ加わる恐れが」

「命令したのは私か」

「陛下から、敵勢力を残すなと」

「私は武器を捨てた子供を斬れと命じたか」


将軍は答えられなかった。


レオヴァルトは将軍の位を剥ぎ、遺族への補償を命じた。


だが、その夜。

彼は一人でカミルの部屋を訪れた。


「私にも責任がある」

「ええ」

「命令を曖昧にした。勝利を急がせた。あの男だけの罪ではない」

「ええ」

「お前は、いつもそれしか言わぬな」

「否定してほしいのですか」

「いや」


レオヴァルトは窓辺へ腰を下ろした。


「だが、時々は腹が立つ」

「わたくしに」


「自分にだ」


それから彼は、夜ごとカミルの部屋を訪れるようになった。


何を決めたか。

誰を罰したか。

誰を救えなかったか。

何を知らなかったことにしたか。


彼女へ話しても、赦されることはない。

責められることもない。


ただ、したことが、したことのまま残る。


「なぜ、わたくしへお話しになるのです」

ある夜、カミルは尋ねた。


「話せば、罪が軽くなるわけではございません」

「知っている」

「苦しみも消えません」

「知っている」


「では、なぜ」

「自分一人で考えていると、都合のいい言葉へ変えてしまうからだ」


必要だった。

仕方がなかった。

国のためだった。

他に方法はなかった。


そう言い続ければ、いつか本当に罪ではなかったと思い込める。


「お前の前では、それができぬ」

レオヴァルトは笑った。


「不便な女だ」

「追い出しますか」

「いいや」

「殺しますか」

「それもない」


「では、どうなさいます」

「隣に置く」


その言葉どおり、レオヴァルトはカミルを評議会にも裁判にも連れ出した。


彼女の前で、虚偽の報告や帳簿の改竄は減った。

罪を犯す者はいなくならない。

ただ、犯したことをなかったことにするのが、少し難しくなった。


ある冬には、村から穀物を奪った徴税官の腹から、幻の麦が溢れた。

男はすべてを認め、村人はカミルを救いの女神と呼んだ。


その夜、カミルは王へ尋ねた。

「わたくしは、この国に必要ですか」

「必要だ」

「罪を見せるために」

「それもある」

「あなたには」


レオヴァルトの手が止まった。


国に必要とされることと。

彼に必要とされること。

その違いを、カミルは知りたいと思った。


「私にも必要だ」

「罪を忘れないために」

「それだけではない」

「では、何のために」


「それを今から考える」


春。


レオヴァルトは、カミルを妻にすると宣言した。

臣下の半数が反対した。


聖職者は、罪そのものを王妃にすれば国が穢れると訴えた。


「すでに穢れている」

レオヴァルトは言った。


「この国は戦で奪った土地と、殺した者の骨の上に建っている。今さら罪を城の外へ追い出せば清らかになるとでも思うのか」

「陛下は惑わされております!」

「そうかもしれぬ」


王は認めた。


「だが、惑わされているかどうかを決めるのは、私だ」


婚礼の前夜。

カミルは彼の部屋を訪ねた。


「わたくしは、あなたを幸福にはできません」

「お前が幸福というものを知っているのか」

「知りません」


「ならば、できないと決めるな」

「わたくしのそばでは、皆が己の罪を見ます」

「王のそばに必要なものだ」

「民は、罪のない王を望みます」

「罪のない王など、最も信用ならぬ嘘だ」


レオヴァルトは彼女の髪へ触れた。


最初は血と煤でできていた髪は、いつしか人間のものと変わらなくなっていた。


「私は、お前に赦されたいのではない」

「では、なぜ妻に」

「お前がいない夜が、嫌になった」


カミルは目を瞬いた。


「それは、何ですか」

「私にもよく分からぬ」


レオヴァルトは困ったように笑った。


「お前が国に必要だからではない。罪を忘れぬためでもない。ただ、お前が隣にいないと、何かが足りぬ」

「わたくしが、必要なのですか」

「カミルが必要だ」


罪ではなく。

カルマでも、業でもなく。

彼が名を与えた、一人の女。


「それを、愛と呼ぶのですか」

「おそらくは」

「分かりません」

「私もだ。だから一緒に覚えればよい」


カミルは彼の妻になった。

やがて子を宿した。

罪が子を成す。


そのことを恐れたのは、人間たちではなく、カミルの方だった。


「この子は、わたくしの何を受け継ぐのでしょう」


膨らんだ腹へ手を置き、彼女は尋ねた。


「私の血も継ぐ」

「あなたの罪も」

「そうだな」

「恐ろしくはないのですか」


レオヴァルトは彼女の腹へ耳を当てた。


「罪を知らぬ子より、自分の中にあると知る子の方がましだ」

「この子も、罪を犯します」

「私たちの子なら、間違いなくな」

「それでも、愛せますか」


レオヴァルトは顔を上げた。


「お前は、罪を犯さぬから愛されていると思っていたのか」


カミルは答えられなかった。


生まれたのは男児だった。


泣き声を聞いたとき、カミルは胸の奥に、罪には不要な痛みを覚えた。

乳を求めるたび。

指を握るたび。

熱を出し、立ち上がり、転ぶたび。


失う未来を恐れながら、彼女は少しずつ人になった。


王子が五歳の頃。

庭で遊んでいた従者の子を突き飛ばし、怪我をさせた。

王子は、自分は触れていないと言い張った。


カミルがそばに立つと、王子の手から赤い土が流れ落ちた。

突き飛ばした場所の土だった。


王子は泣いた。

「母上が、僕を怖いものにした!」

「わたくしは何もしておりません」

「母上がいなければ、誰にも分からなかった!」


レオヴァルトは息子の前へ膝をついた。


「分からなければ、していないことになるのか」

「僕は王子です」

「だから何だ」

「謝れば、弱いと思われます」

「間違いを隠す王の方が弱い」


王子は泣きながら、従者の子へ謝った。


その夜。

カミルはレオヴァルトへ言った。

「この子は、わたくしを嫌うかもしれません」


「そうかもしれぬ」

「それでもよいのですか」

「よくはない」

彼は即答した。


「だが、嫌われぬために嘘を許すことはできぬ」

「親とは、難しいものですね」

「今頃気づいたか」


レオヴァルトは笑い、彼女の肩を抱いた。


長い年月の中で、カミルは彼の笑い方を覚えた。


怒ると眉間へ指を当てること。

眠れぬ夜には左へ寝返りを打つこと。

葡萄酒を二杯飲むと、若い頃の失敗を話し始めること。


人を愛するとは、善いところだけを集めることではなかった。

愚かさも、醜さも、繰り返す過ちも見た上で、隣にいることだった。


レオヴァルトは老いた。

カミルは老いなかった。


建国から四十二年。

病床の王は、若いままの妻の手を握った。


「私が死ねば、あれらはお前を恐れる」

「存じております」

「息子は守るだろう。だが、その先は分からぬ」

「人は、見たくないものを消そうとします」


「すまない」

「なぜ、あなたが謝るのです」

「お前に名を与え、人にした」

「わたくしは、嬉しかった」


「後悔しているか」

「いいえ」

「私と会う前へ戻りたいか」

「いいえ」


「ならばよい」


レオヴァルトは目を閉じた。


「カミル」

「はい」

「私は、罪を愛したのではない」

「存じております」

「お前を愛した」

「はい」

「泣いてくれぬのか」

「泣き方が、まだ分かりません」


「そうか」

彼は弱く笑った。


「ならば、いつか分かったときに泣け」


その夜。

建国王レオヴァルト・レグナールは死んだ。

カミルは泣かなかった。

息子は父の言葉を守った。

カミルを母として敬い、王として判断に迷うたび、彼女の前で自らの行いを語った。


孫もまた、彼女を祖母と呼んだ。

だが、建国の戦を知る者が減るにつれ、老いない王妃を恐れる声は大きくなった。


彼女の前で罪を見る者たちは、己ではなく、見せる女の方を憎んだ。


王家の者たちもまた、自分たちの血が罪そのものから生まれたという事実に耐えられなくなった。


レオヴァルトの遺言は王宮最奥へ封じられた。


初代王妃カミル・ツゴウマの名は、少しずつ記録から削られていった。


王の妻ではなく、戦場に現れた魔女。

国を呪った災厄。

王家の血へ入り込んだ悪しきもの。


そう書き換えられた。


レオヴァルトの死から百三十七年後。

遠い子孫の王は、カミルを王家に取り憑いた災厄として処刑した。


首を落とされる直前。


その顔に、ほんのわずかレオヴァルトの面影を見つけたとき、カミルは初めて涙を流した。


痛みのためではない。

泣き方を知ったときには、泣いてほしいと願った男は、もうどこにもいなかった。


王は、罪が消えたと宣言した。

処刑ののち、最初の朝日が昇ったとき。

建国王の霊廟で、女児の泣き声がした。


黒い髪。

夜色の目。


誰にも教えられていないはずの名を、その赤子は口にした。


カミル、と。


王家は恐れた。

殺しても戻る。

それどころか、殺したという罪を加えて戻ってくる。


だから、やがて手順が作られた。


幼いカミルには、まだ他者の罪を形にする力がない。

王家に近い貴族へ預け、人間の令嬢として育てる。

力が満ちる十八か十九の頃、王太子の婚約者として国中へ知らしめる。


人々が彼女のそばで見た過去も、悪意も、不幸も、すべて彼女の呪いだったことにする。

国中で露わになった罪の責任と原因を、記録と言葉の上で一人の悪役令嬢へ押しつける。


そして、次の王となる者が自らその首を落とす。


それは、罪を直視する王を育てるための婚姻ではなくなった。

自らの罪を王家の外へ捨てられる者だけが、王になれると証明する継承儀式へ変わった。


処刑は、日の出前に執り行われる。

肉体を失ったカミルは、処刑した者が犯した罪を核として、次の身体が現れるまで影の姿を取る。


そして最初の朝日とともに、建国王の霊廟へ新たな赤子が現れる。

影に残っていた記憶も、愛も、殺された痛みも、すべてその身体へ移る。


王家は赤子をまた別の家へ預ける。

令嬢として育てる。

婚約者にする。

悪役令嬢と呼ぶ。


同じことを繰り返す。

何度殺しても。

何度名前を変えても。

カミルはすべてを覚えていた。


「では、あなたは」


六百年を隔てた声に、カミルは拘禁室へ引き戻された。


「建国王妃、その人なのですか」

「最初にそう呼ばれた者です」

「王家は、自らの始祖を何度も処刑してきた」

「ええ」


「なぜ抵抗しないのです」

「抵抗すれば、何が変わりますか」

「逃げることはできる」

「罪から逃げられる場所がございますか」


エリアスは言葉を失った。


カミルは石板へ目を落とした。

そこには、レオヴァルトが遺した言葉が刻まれている。


我が子らよ。

罪を消そうとしてはならぬ。

己の外へ追いやり、刃を向けたとき、罪はさらに大きくなって帰る。

カミルを殺すな。

あれは我らの敵ではない。

我らが己を忘れぬため、ここにいる。


「これを明日、皆の前で読みます」

エリアスは石板を抱きしめた。


「王家が止めても」

「殺されるかもしれません」

「それでも」

「では、お読みください」


「あなたを救えますか」

「いいえ」


エリアスの顔が強張る。


「ですが、あなたが真実を知りながら黙らなかったという事実は残ります」


それは救いではない。

免罪でもない。

ただ、その人が選んだこととして残る。


東の空が、白み始めていた。


建国王の霊廟前には、白い処刑台が組まれている。


カミルはそれを見上げた。


前回は黒い木だった。

その前は石だった。

火刑にされたこともある。

水へ沈められたこともある。

だが、首を落とされるのが最も早い。


痛みを好まない彼女には、その方がよかった。


広場には王族、貴族、学院関係者が集められている。


国王ヴィクトール四世は玉座に座り、顔色を悪くしていた。


十八年前。

彼も王太子として、先代のカミルの首を自ら落とした。


あれは人ではない。

王となるために必要だった。

罪ではない。

そう言い聞かせて王位に就いた男は、今度は妻に手順を管理させ、息子へ同じ剣を持たせようとしていた。


王妃コンスタンスは、その隣で処刑の手順書を確認している。


ジュストは白い正装に身を包み、剣を帯びていた。


アニエスは少し離れた場所に立っている。


ベルトランの隣に、セシルの姿はなかった。


最後まで、連れてこなかったのだろう。


「カミル・ヴァルクール」

ジュストが進み出た。


「王家に仇なした罪を、今一度ここに宣告する」


カミルは処刑台の中央へ立った。

冷たい夜明け前の風が、黒髪を揺らす。


「最後に申し開きがあるなら聞こう」

「ございません」

「罪を認めるのか」

「認めておりません」

「では、なぜ弁明しない」

「殿下は、わたくしの言葉を聞くために、ここへ立っておられますか」


ジュストは答えなかった。


「それとも、ご自身が正しいと確かめるためでしょうか」

「最後まで人を見下すのだな」

「そのように見えるのでしたら」


「殿下!」

アニエスが声を上げた。


人々の視線が集まる。

彼女は震えながら、それでも前へ出た。


「私は、カミル様から嫌がらせを受けたことなどございません」

「アニエス」

「黒い花も、悪夢も、カミル様がなさったことではありません。私は一度も、そう申し上げておりません」


ジュストの顔が歪んだ。


「彼女に脅されたのか」

「違います」

「まだ呪いが残っているのだ。下がれ」


衛兵がアニエスを押さえた。


そのとき、広場の後方から叫び声がした。


「処刑を止めてください!」


エリアスが人をかき分け、石板を抱えて走ってくる。


額から血を流していた。


「建国記録が改竄されています! その方は災厄ではない。初代王妃カミル・ツゴウマです!」


広場が揺れた。


ヴィクトール四世が立ち上がる。


コンスタンスだけは動かなかった。


「記録官を拘束なさい」

「王妃陛下! 建国王の遺言があります!」

「偽書です」

「王家の封印が残っている!」

「それが何だというのです」


コンスタンスは冷ややかに言った。


「それが初代王妃であったとしても、人ではありません」


エリアスが息を呑む。


王妃は初めから知っていた。


「母上」


ジュストが振り返る。


「どういうことです」

「今は儀式を終えなさい」

「儀式?」

「そなたが王になるために必要なことです」


コンスタンスは処刑台のカミルを見た。


「王となる者は、国の罪を王家の外へ捨てられなければなりません。あれを一人の女だと思い、刃を止めるような者には王冠を渡せない」

「ですが」

「あれは令嬢の姿をしているだけ。罪が形を取ったものです。処分することを殺人とは呼びません」


カミルは静かに王妃を見返した。


「あなたも、そう教えられましたね」


コンスタンスの指が止まった。


「何を」

「あなたがまだ七歳で、二代前のわたくしの処刑をご覧になった朝です」


王妃の顔から、初めて血の気が引いた。


「覚えて、いるのですか」

「すべて」

「そんなはずは」

「あなたは、お母様へ尋ねました。あの方は痛くないの、と」


コンスタンスの唇が震える。


「お母様は答えました。あれは人ではないから、痛くないのだと」

「黙りなさい」

「あなたは、もう一度お尋ねになりました。けれど血が出ていた、と」


「黙れ」

「お母様はおっしゃいました。人のふりをしているだけだから、あれも本当の血ではないのだと」


「黙れ!」


王妃の叫びが広場へ響いた。


その足元に、小さな少女が現れる。

七歳のコンスタンス。

泣きながら処刑台を見上げている。


王妃にだけ見える過去だった。


「始めなさい!」


コンスタンスは命じた。


「今すぐ、その首を落としなさい!」


ジュストは混乱した顔で母とカミルを見比べた。


「殿下」


カミルが呼ぶ。


「わたくしの本当の名を、お聞きになりますか」

「……名?」

「カミル・ヴァルクールは、皆様がお作りになった令嬢の名です」


彼女は処刑台の上で、まっすぐに立った。


六百年前。


血と煤の中で、ただ存在を示す言葉しか持たなかった。


その彼女へ、一人の男が人としての名を与えた。


「最初のあの方からいただいた名は、カミル・ツゴウマと申します」


ジュストの目が見開かれる。


「罪」


カミルは言った。


「カルマ」


風が止まる。


「業」


広場にいた者たちの背後で、何かが立ち上がった。


見殺しにした者。

奪った者。

嘘をついた者。

命令した者。

従った者。

忘れたふりをした者。

許されたと思い込んだ者。


「それらが、人の形を取ったものが、わたくしです」


悲鳴が上がった。


国王ヴィクトールの背後には、十八年前に彼が首を落としたカミルが立っている。


切断された首を両腕に抱き、夜色の目で彼を見つめていた。


王妃コンスタンスの足元には、歴代のカミルを処刑した刃が積み上がる。


ベルトランの喉には、黒い鎖が食い込んだ。


アニエスの手には、薬を求めた小さな指が絡みついている。


そしてジュストの背後には、まだ人の姿を取らない黒い影があった。


足元から細く伸び、処刑台へ向かいながら、何かを待っている。


最後の選択を。


自分が正しいと信じたまま、一人の女の首を落とす、その瞬間を。


だが、ジュストには見えていなかった。


「見ろ!」


彼は勝ち誇ったように叫んだ。


「私の後ろには何もいない! やはり、お前が皆を惑わせているだけだ!」


カミルは、ほんの少し悲しそうに目を細めた。


その表情だけは、罪ではなく、人として覚えたものだった。


「最初のあの方も、多くの罪をお持ちでした」

「建国王を侮辱するな」

「ですが、あの方は一度も、ないとはおっしゃいませんでした」


「私は正しい」

「そうですか」

「この国を守るために、お前を処刑する!」


「では、お尋ねします」


カミルは首を傾けた。


「わたくしを殺すことは、罪ではないのですか」


ジュストの口が止まった。


「罪そのものを殺すのだ。これは浄化だ」

「人の姿をし、人として育ち、痛みを感じる者の首を落としても」


「お前は人ではない!」

「初代王も、同じことを知っておられました」

「ならば、なぜ殺さなかった!」


カミルは微笑んだ。


六百年の中で、何度も失い、それでも消えなかった記憶に触れるように。


「愛してくださったからです」


ジュストの顔に、理解できないものへの怒りが浮かぶ。


「罪を、愛したというのか」

「いいえ」


カミルは答えた。


「あの方は、罪であるわたくしを、カミルとして愛してくださいました」


風が、再び吹いた。


建国王の霊廟の扉が、低い音を立てて開く。


誰も触れていない。


暗い内部から、古い石棺が見えた。


その上に刻まれた建国王の言葉が、白み始めた空の光に照らされる。


カミルを殺すな。


「殿下」


カミルは最後に言った。


「お止めになることもできます」


それは赦しではない。


試しでもない。


ただ、選べるという事実を伝えただけだった。


ジュストは剣を抜いた。


「処刑を執行する」


エリアスが叫んだ。


アニエスが衛兵を振りほどこうとした。


ベルトランは一歩踏み出し、しかし足を止めた。


コンスタンスは目を閉じた。


ヴィクトール四世は、十八年前の自分がしたように顔を背けた。


誰も、王太子の腕を止めなかった。


剣が振り下ろされた。


一瞬だけ、痛みがあった。


カミルの視界が傾く。


白い処刑台。

白み始めた空。

建国王の石棺。


六百年前、差し出された手。


――ならば、何度でも戻れ。

レオヴァルトの声がした。


首が台へ落ちる。

身体が崩れた。


広場は静まり返った。


ジュストは荒い息を吐き、血のついた剣を下ろした。


「終わった」


誰に言うでもなく、彼は呟いた。


「これで、この国から罪は消えた」


その瞬間。


彼の背後で、黒い影が立ち上がった。

夜明け前の光に逆らい、細い足を作る。

濃紺のドレス。

長い黒髪。

夜色の目。


処刑台には、まだカミルの首と身体が残っている。

そこに立ったものは、蘇った肉体ではない。


今しがたジュストが犯した罪を核として、肉体を失ったカミルの記憶が、次の身体へ移るまで一時的に形を得た影だった。


広場の全員が、それを見た。


ジュストだけが、すぐには振り向けなかった。


彼の背後に、初めて罪が立ったからだ。


「ただいま」


聞き覚えのある声がした。


ジュストの手から剣が落ちる。


ゆっくりと振り返った彼へ、影のカミルは告げた。


「あなたの罪として、戻りました」

「違う」


ジュストの声がかすれた。


「私は国を守るために」

「ええ」

「必要だった」

「ええ」

「人ではなかった」

「ええ」

「罪ではない!」


影は、六百年前と同じ問いを返した。


「それを決めるのは、わたくしですか」


ジュストは答えられない。


彼の足元から、黒い花が咲いた。


一輪。

二輪。

やがて処刑台を覆うほどに。


花弁は、一枚ごとに人の口の形をしていた。


国を守るため。

必要だった。

人ではない。

罪ではない。


花々は、ジュスト自身の声で繰り返す。


彼は耳を塞ぎ、膝をついた。


東の空から、最初の朝日が昇る。

その光が建国王の石棺へ届いた瞬間。

霊廟の奥から、赤子の泣き声が響いた。


黒い影が、ゆっくりとそちらを振り返る。


次の肉体。

次の名。

次の悪役令嬢。


朝日が広場を満たすにつれ、影の輪郭が薄れていく。


六百年の記憶も。

レオヴァルトへの愛も。

何度も殺された痛みも。


すべて霊廟で泣く赤子へ移っていく。


また育てられ、王太子の婚約者にされる。

また国中で露わになった罪の原因を押しつけられ、悪役令嬢と呼ばれる。


彼らが、自分の罪を自分のものとして認めるまで。


霊廟では、次のカミルが泣いていた。


王家はまた、同じ罪を重ねた。


彼女を殺し、それを罪ではないと呼ぶ罪を。

罪そのものを人の姿にしてみたら、いつの間にか建国王との恋愛が中心になっていました。


必要だったことと、罪ではなかったことは、同じではない。


レオヴァルトは多くの罪を抱えていたからこそ、カミルを外へ追いやらず、一人の女として愛せたのだと思います。


ちなみにカミル・ツゴウマは、罪、カルマ、業から、やや力技気味に作りました。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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>罪そのものを人の姿にしてみたら、いつの間にか建国王との恋愛が中心になっていました。 これはピグマリオンの神話だな。彫刻から人間をガラテアとして愛したピグマリオン――――――。 そこでふと思うのが、ピ…
罪の擬人化。(そう取りました) なんという業。なんという摩訶不思議! 建国王レオヴァルトはすごい人ですね。略奪した土地の王となり、その際己の犯した罪業を認めて罪の擬人化たるカミルのことを妃として隣に…
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