第九話 守れぬものなど、ない
梅雨前線は、まるで狙い澄ましたかのように潮見橋商店街の上に居座っていた。
朝から空は低く垂れ込め、湿った風がアーケードの隙間をすり抜ける。
雨粒はまだ落ちていないが、匂いが違う。
嵐の匂いだ。
黒峰ガルドは店先に立ち、空を睨んでいた。
「今日は降る」
「天気予報でもそう言ってました」
背後から、朝倉澪の声。
「しかも夕方から大雨。夜市の時間、直撃らしいです」
今夜は、商店街再生をかけた夜市の本番。
大型チェーン店の出店告知が貼られてからというもの、客足はさらに遠のいた。
商店街が生き残るには、この一夜で“何か”を示さなければならない。
ガルドは腕を組む。
「雨程度で撤退はせぬ」
「程度って……」
澪は苦笑するが、その目には不安が浮かんでいた。
各店舗はテントを張り、即席の屋台を準備している。
だが豪雨になれば、客は来ない。
来なければ、意味がない。
店の奥から、小さな咳が聞こえた。
ガルドの表情が一瞬で変わる。
ひなたが、布団の上で身じろぎしていた。
「……パパ」
「ここにいる」
額に触れる。
熱い。
ほんのりと、だが確かに熱がある。
ガルドの胸に、冷たいものが落ちる。
「朝は平気そうだったのに……」
澪が心配そうに覗き込む。
「たぶん、昨日の疲れと湿気ですね」
ひなたは小さく笑った。
「よるいち、いく」
その無邪気な一言が、刃のように刺さる。
父としての本能が叫ぶ。
店を閉めろ。
守れ。
だが同時に、別の声が響く。
逃げるな。
商店街の人々の顔が浮かぶ。
豆腐屋の婆さん。
魚屋の親父。
駄菓子屋の子どもたち。
彼らは今日に賭けている。
ガルドは拳を握った。
「……澪」
「はい」
「我はどうすべきだ」
澪は驚く。
この男が、誰かに問いを投げるのは珍しい。
「父親としてなら、休ませるべきです」
「商店街の一員としては?」
「……立つべきです」
沈黙。
遠くで雷鳴が転がった。
ひなたが小さく身を寄せる。
「パパ、だいじょうぶ?」
その言葉に、ガルドは膝をついた。
「大丈夫だ。我は魔王だ」
「まおー?」
「そうだ。守れぬものなど、ない」
それは誓いではない。
宣言だった。
午後六時。
空が裂けたように、雨が降り始めた。
叩きつける豪雨。
アーケードを打つ轟音。
テントの布が揺れ、客足は止まる。
「……やっぱり」
澪の声は、かき消されそうだった。
だが商店街の灯りは消えない。
魚屋の親父が氷を補充する。
豆腐屋が湯気を立てる。
八百屋が野菜を並べ直す。
ガルドは店の暖簾を上げた。
ひなたは店の奥で布団に横になっている。
氷枕を当て、薬を飲ませた。
「すぐ戻る」
小さな額に口づける。
雨の音が、戦場の轟きのように響く。
かつてなら、この音に高揚した。
だが今は違う。
守るための戦いだ。
店頭に立つ。
湯気が立ち上る。
「子ども弁当、できてるぞ!」
声を張る。
雨の中、足を止めたのは一組の親子だった。
「……買おうか?」
「ハートのたまごやき?」
小さな女の子が覗き込む。
ガルドは、静かに頷く。
「勇者用だ」
「ゆうしゃ?」
「今日を乗り越える者だ」
母親が笑う。
「じゃあ二つ」
最初の売上。
だがその一つが、火種になる。
口コミは雨より早く広がる。
「魔王の弁当、やってるらしい」
「雨でも開けてる」
「子どもが喜んでる」
ぽつり、ぽつりと客が増える。
だがそのとき。
店の奥から、ひなたの泣き声が響いた。
ガルドの心臓が跳ねる。
足が、動きかける。
「行ってください」
澪が前に立つ。
「ここ、私やります」
「だが」
「父親なんでしょ」
言葉が胸を射抜く。
ガルドは奥へ走る。
ひなたは汗をかき、涙を流していた。
「パパ……」
「いる」
抱き上げる。
体温は高い。
小さな身体が震えている。
その瞬間、外のざわめきが変わった。
「手伝うぞ!」
魚屋の親父の声。
「こっちで会計やる!」
澪の声。
「おい、列整理!」
誰かの声。
商店街が、動いている。
ガルドはひなたを抱いたまま、店先に戻った。
雨は激しい。
だが、行列ができている。
傘の花が並び、笑顔が並ぶ。
誰も帰らない。
「魔王さん! 早く!」
誰かが笑う。
ガルドは、深く息を吸った。
「守る。両方だ」
ひなたを背中におぶい、前に立つ。
火をつける。
卵を巻く。
ハートの形に整える。
その動きは、かつてないほど滑らかだった。
豪雨の中、湯気が立ち上る。
匂いが広がる。
笑い声が混じる。
戦いは、破壊ではなく連帯だった。
やがて雨脚が弱まり、空が静まる。
雲の隙間から、薄い月が顔を出す。
夜市は成功した。
完売。
商店街は、確かに一つになった。
店の奥。
ひなたは眠っている。
熱は下がり始めていた。
ガルドはそっと額に触れる。
「……勝ったか?」
澪が隣に立つ。
「はい。完全勝利です、魔王様」
「様はいらぬ」
「じゃあ、ガルドさん」
その呼び方に、彼は少しだけ目を細める。
「悪くない」
澪は空を見上げる。
「守れましたね」
「ああ」
かつて世界を支配しようとした男は、今、小さな商店街を守った。
その重みは、どんな王座よりも重い。
ひなたが寝言のように呟く。
「パパ、だいすき」
ガルドの胸が、静かに震えた。
「……世界征服より難しいな、これは」
だが、その声には笑みがあった。
潮見橋商店街の夜は、静かに更けていく。
魔王の戦いは、終わらない。
だが今夜だけは。
確かな勝利だった。




