第六話 過去の影
夜市まで、あと十日。
潮見橋商店街は、目に見えて変わり始めていた。
和菓子屋の店先には色とりどりの団子。
八百屋には「夜市特価」の赤い札。
銭湯の煙突からは、いつもより勢いのある湯気。
だが、ガルドの胸には、わずかなざわめきがあった。
焦りではない。
不安でもない。
――記憶。
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その夜、夢を見た。
黒い空。
焼け落ちる城。
膝をついた配下。
「魔王様……申し訳……」
血に濡れた手が、彼を掴む。
「我が、弱かったのだ」
勇者の光。
絶望。
そして――空白。
ガルドは飛び起きた。
暗い天井。
静かな部屋。
隣で、ひなたがすやすやと眠っている。
小さな寝息。
その音が、現実に引き戻す。
ガルドはそっと起き上がり、店へ降りた。
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深夜の厨房。
冷蔵庫の低い唸りだけが響く。
ガルドはカウンターに手を置き、俯いた。
「……守れなかった」
魔界。
忠誠を誓った部下たち。
己を信じて戦った者たち。
全てを、失った。
強さを誇った。
だが最後は、守れなかった。
拳を握る。
今度は違う。
そう思っても、過去は消えない。
「起きてたんですか」
背後から声。
振り向くと、澪が立っていた。
「眠れぬだけだ」
「目、怖いですよ」
「元からだ」
澪はカウンターに腰を預ける。
「……何かあったんですか」
沈黙。
ガルドは視線を落とす。
「我は、守れなかった」
「何を」
「全てだ」
具体的な説明はしない。
だが、声に滲む重さは、嘘ではない。
澪は少し考え、言った。
「でも今、守れてるでしょ」
即答だった。
ガルドが顔を上げる。
「ひなたちゃん、毎日笑ってます」
澪は続ける。
「商店街も、ちょっとずつ変わってる。あなたが来てから」
「我は何も」
「してます」
静かな声。
「守れてる人は、自分で気づかないだけです」
しばらく、沈黙。
ガルドは視線を外し、低く言う。
「……我は、怖いのだ」
「え?」
「また、失うことが」
澪は目を瞬く。
魔王の口から出る言葉ではない。
だが、そこにいるのは父親だった。
「失わない保証なんて、誰にもないですよ」
澪は肩をすくめる。
「でも、だからって何もしないんですか?」
ガルドは、ひなたの寝顔を思い浮かべる。
小さな手。
柔らかな頬。
「……否」
「なら、今できることやりましょ」
澪は笑う。
「夜市、成功させるんでしょ?」
ガルドはゆっくりと頷いた。
「我は魔王だ」
「はいはい」
「守るための戦いなら、敗れぬ」
「今度は、ちゃんと弱火でお願いします」
思わず、ガルドの口元が緩む。
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翌日。
保育園の帰り道。
ひなたが、突然立ち止まる。
「ぱぱ」
「どうした」
「こわいゆめ、みた」
小さな声。
「まっくら、だった」
ガルドの胸が、わずかに締めつけられる。
彼はしゃがみ込み、娘を抱きしめる。
「大丈夫だ」
低く、しかし柔らかく。
「暗闇が来ても、我がいる」
ひなたは小さく頷き、ガルドの首に腕を回す。
「ぱぱ、つよい?」
「……ああ」
少しだけ間を置いて。
「お前を守る強さはある」
ひなたは満足そうに笑う。
その笑顔を見て、ガルドは悟る。
過去は消えない。
だが、今は選べる。
恐怖で支配する強さか。
守るために立つ強さか。
商店街の奥で、風鈴が鳴る。
夜市まで、あと一週間。
魔王は、自分の影と向き合いながら。
静かに、前を向いた。




