第三話 魔王の一言
開店初日。
暖簾は新しく洗われ、入口には小さな黒板が立てられている。
本日のお弁当
・鶏の照り焼き
・だし巻き卵
・ほうれん草のおひたし
六百円
黒峰ガルドは、店の前に直立していた。
黒マントは今日も翻る。
その上に、白いエプロン。
「……威圧感が強すぎます」
隣で澪が呟く。
「開店の儀は厳粛に行うものだ」
「儀じゃなくて商売です」
午前十一時。
開店。
――しかし。
誰も来ない。
通りを通るのは買い物帰りの高齢者と、自転車の学生だけ。
暖簾を一瞥し、通り過ぎていく。
十五分。
三十分。
沈黙。
ガルドは腕を組む。
「……敵は強大だな」
「敵って言わないでください」
澪はため息をつく。
「味は悪くないんです。でも、“理由”がない」
「理由?」
「ここで買う理由です。大型スーパーのほうが安いし、便利」
確かに、商店街の入口から少し歩けば、巨大なショッピングモールがある。
冷房完備、品数豊富、価格も安い。
小さな弁当屋に勝ち目は薄い。
そのとき。
スーツ姿の男性が足を止めた。
四十代半ばだろうか。
疲れた目。曲がった背中。
暖簾を見上げ、少し迷うようにして店内へ入る。
「……一つ、ください」
第一号の客だった。
ガルドは無言で弁当を詰める。
その瞬間、不思議な感覚が走る。
男の背中から、淡い“影”が見えた。
重い。冷たい。
疲労と焦燥。
――眠れていない。
――叱責された。
――誰にも言えない。
声なき声が、伝わってくる。
魔界で培った、残滓の能力。
“本当に欲しているもの”を察知する力。
ガルドは弁当の蓋を閉じる前に、ふとペンを取った。
裏側に、ゆっくりと書く。
――今日はよく戦ったな。
そして差し出す。
「六百円だ」
男は金を払い、怪訝な顔をしながら店を出た。
澪が小声で言う。
「何書いたんですか」
「必要な言葉だ」
「勝手に宗教始めないでくださいよ」
昼休み。
男は近くの公園のベンチで弁当を開けた。
蓋を裏返す。
文字が目に入る。
――今日はよく戦ったな。
箸を持つ手が止まる。
しばらく、動かない。
そして。
ぽたり、と何かが弁当の上に落ちた。
涙だった。
誰にも言われなかった言葉。
家族にも、上司にも、自分自身にも。
“よくやった”と。
男は小さく笑い、卵焼きを口に運ぶ。
温かい。
味だけではない。
何かが、胸の奥に落ちる。
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夕方。
その男が再び店に現れた。
「……あの」
ガルドが顔を上げる。
「今日の、もう一つください」
「二つか」
「同僚に」
少し照れたように言う。
澪は横目でガルドを見る。
何かが、変わり始めている。
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翌日。
二人目の客は、杖をついた老婦人だった。
「昔、この店、好きだったのよ」
弁当を受け取り、ゆっくり帰る。
ガルドはまた、蓋の裏に書いた。
――今日は、誰かと話したか?
老婦人は家でそれを読み、思わず笑った。
「おせっかいねぇ」
だがその夜、隣家を訪ねた。
「久しぶり。お茶でもどう?」
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三日目。
高校生の少年。
部活帰りで汗だく。
無言で弁当を買う。
蓋の裏には。
――無理するな。お前はもう十分だ。
少年は帰宅後、それを見て目を逸らした。
そして、そっと弁当箱を閉じる。
翌日も、また来た。
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客は一日数人。
だが、確実に増えている。
SNSに写真が上がる。
「弁当の裏に魔王みたいなメッセージ書いてある」
「怖いけど泣ける」
「地味にうまい」
澪がスマホを見せる。
「ちょっとバズってます」
「ばずる?」
「話題になるってことです」
ガルドは腕を組む。
「言葉は武器だ」
「だから戦わないでください」
店の前に、小さな列ができる。
ほんの数人。
だが、この商店街では久しぶりの光景だ。
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夜。
ガルドは店のカウンターに肘をつき、静かに考えていた。
魔界では、恐怖で支配した。
この世界では、違う。
守る。
満たす。
腹だけではない。
孤独を。
「……征服より難しい」
そのとき、背後から小さな声。
「ぱぱ」
ひなたが眠そうに立っている。
「どうした」
「だっこ」
ガルドは即座に抱き上げる。
軽い。
温かい。
「ぱぱ、えらい?」
「……どうだろうな」
「えらい!」
即答。
ガルドは目を細める。
「ならば、もう少し戦ってみるか」
娘の頬に額を寄せる。
店の灯りが、静かに夜を照らしている。
潮見橋商店街の奥で。
小さな弁当屋が、少しずつ。
人の心を温め始めていた。




