第二話 魔王、開店準備を開始す
夜の潮見橋商店街は、静かだった。
街灯の下、シャッターに貼られた色褪せたポスターが風に揺れる。
かつて祭りや大売り出しで賑わったであろう通りは、今や通り抜ける足音もまばらだ。
その奥で、ひとつだけ灯りがともっている。
――日の丸菜々。
店内では、黒峰ガルドが腕を組み、厨房を睨んでいた。
「まずは、敵を知る」
敵。
すなわち“料理”である。
流し台、冷蔵庫、炊飯器。
それぞれに触れ、仕組みを確かめる。
魔界では、鍋は溶岩で満たされ、肉は業火に投げ込まれていた。
焼く、煮る、蒸す――すべてが極端だった。
だがここは違う。
この世界の火は、従わせるものではない。
調律するものだ。
ガルドは炊飯器を開けた。
蒸気がふわりと立ち上る。
「……白い」
それは、純白の粒。
宝石のように艶やかだ。
ひなたが好んで食べる、米。
ガルドは指先でつまみ、口に運ぶ。
甘い。
魔界の黒麦とはまるで違う、柔らかな甘み。
「……これは、武器になる」
その時、背後で物音がした。
「まだやってたんですか」
振り返ると、エプロン姿の朝倉澪が立っている。
「八百屋の仕込みは終わったのか」
「終わりました。こっちは煙出してないですよね?」
「出しておらぬ」
澪は厨房を見回し、腕を組む。
「本気でやるんですか。弁当屋」
「当然だ」
「冗談で看板借りる人、初めて見ました」
「我は冗談を言わぬ」
その声音は真剣だった。
澪は少しだけ表情を和らげる。
「……ひなたちゃんのため、ですよね」
「他に理由があると思うか」
即答。
澪は息を吐く。
「なら、基礎からやりましょう」
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翌朝。
潮見橋商店街の一角に、妙な光景が広がっていた。
黒マントの男が、包丁を握っている。
その横で、澪が腕まくりをして立つ。
「まずは玉ねぎ。薄く、均等に」
「均等とは、どの程度だ」
「見て覚えてください」
澪の包丁は、軽やかに動く。
トン、トン、トン。
同じ厚みで揃う玉ねぎ。
ガルドが真似る。
ゴン。
板が鳴る。
「力みすぎです」
「刃が鈍いのだ」
「腕です」
再挑戦。
今度は、慎重に。
不思議なことが起こる。
刃を入れた瞬間、ガルドの視界がわずかに揺れた。
玉ねぎの内部構造が、ぼんやりと浮かぶ。
水分量、繊維の方向、甘みの核。
「……見える」
「何がですか」
「いや、なんでもない」
魔力はほぼ封じられている。
だが、わずかに残った“本質を見抜く力”。
それが働いているのだと、直感する。
ガルドは刃を滑らせる。
今度は、音が違う。
トン、トン、トン。
少し不揃いだが、先ほどより整っている。
澪が目を丸くした。
「……急に上達しました?」
「当然だ。我は学習する」
誇らしげに言う。
澪は半信半疑のまま、次の工程へ進む。
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昼過ぎ。
試作第一号弁当が完成した。
白米。
鶏の照り焼き。
卵焼き。
ほうれん草のおひたし。
見た目は、悪くない。
「味見します」
澪が箸を取る。
鶏肉を口に入れ、噛む。
沈黙。
「……しょっぱい」
「何だと」
「醤油、入れすぎです」
「だが味は濃いほうが支配力がある」
「料理は支配しなくていいんです!」
ガルドは腕を組み、考える。
「弱火は対話……ならば、味付けも対話か」
「そうです。足りなければ足す。入れすぎたら戻れない」
戻れない。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
魔界では、常に“やりすぎ”だった。
破壊し、踏み潰し、焼き尽くす。
だがここでは違う。
取り返しがつかない。
ひなたの笑顔を曇らせたら、戻れない。
ガルドは静かにうなずく。
「もう一度だ」
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夕方。
再挑戦の弁当を、ひなたの前に差し出す。
「今日は、どうかな?」
「ぱぱ、つくった?」
「無論だ」
ひなたは卵焼きをつまみ、ぱくりと食べる。
もぐもぐ。
目が細くなる。
「おいち!」
今度は、確信のある声だった。
ガルドの肩から、力が抜ける。
「……勝利だ」
「なにに?」
「己にだ」
ひなたはよく分かっていないが、楽しそうに笑う。
その様子を、店の外から澪が見ていた。
小さく微笑む。
「……変な人だけど」
商店街の奥で、失われかけた灯りが一つ、確かに強くなっている。
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夜。
店のカウンターに、白紙の紙が置かれている。
ガルドはペンを持ち、考え込んでいた。
「弁当とは、ただの食糧ではない」
戦場では、兵を鼓舞する酒があった。
演説があった。
ならば、この世界でも。
彼はゆっくりと書く。
――今日はよく頑張ったな。
文字はやや不格好だが、力強い。
ガルドはそれを弁当箱の蓋の裏に貼り付ける。
「……悪くない」
商店街の外では、遠くに大型商業施設の灯りが見える。
まばゆく、巨大で、隙がない。
だが。
ガルドは小さな店の中で、静かに笑った。
「征服ではない。守るための戦いか」
かつて世界を恐怖に染めた魔王は、
今、フライパンと向き合っている。
その戦いは、まだ始まったばかりだった。




