第十話 父の名は
夜市から三日後。
潮見橋商店街には、まだ余韻が残っていた。
アーケードに吊るされた提灯はそのままに、子どもたちが走り回り、八百屋の前では「例の弁当はまだか」と噂話が続いている。
大型チェーン店の出店計画は、延期になった。
理由は単純ではない。
だが商店街の売上が急に伸び、地域紙が「復活の兆し」と記事にしたことが、少なからず影響しているのは確かだった。
ガルドは店の前を掃きながら、静かに息を吐く。
勝利。
だが、終戦ではない。
「おはようございます」
朝倉澪が店先に立つ。
「おはようございますー、魔王さん」
「様はいらぬ」
「じゃあガルドさん」
最近、彼女はそう呼ぶ。
その響きに、彼はまだ少し慣れない。
ひなたは保育園へ向かう準備をしていた。
熱はすっかり下がり、今朝は自分で靴を履こうとしている。
「パパ、できた!」
左右が逆だ。
「……惜しい」
しゃがみ込み、そっと直す。
その様子を、澪が静かに見ていた。
「ねえ」
「何だ」
「もしですよ。もし、向こうの世界に戻れる方法があったら」
箒を持つ手が止まる。
「戻ります?」
風が吹く。
遠くで踏切の音が鳴る。
ガルドは、空を見上げた。
青い。
魔界にはなかった色。
「戻らぬ」
即答だった。
「迷わないんですね」
「我が玉座は、ここにある」
ひなたが、彼の指を握る。
その小さな力が、何より雄弁だ。
「世界を征するより、困難だ」
「はい」
「だが、価値がある」
澪は少しだけ笑った。
「それ、記事にしたら泣けますね」
「やめろ」
そのとき、商店街の入口がざわめいた。
黒いスーツ姿の男が二人。
見覚えがある。
チェーン店の開発担当だ。
「黒峰さん」
名を呼ばれる。
「正式にお話ししたいことがあります」
澪が緊張する。
ガルドは一歩前に出た。
「何だ」
「共同出店の提案です」
予想外だった。
「御社の弁当を、当社の新業態店舗で扱いたい」
静寂。
商店街の空気が止まる。
「条件は悪くありません。安定供給、販路拡大、収入増」
合理的だ。
父としては、悪い話ではない。
だが。
「断る」
再び即答。
「理由をお聞かせ願えますか」
ガルドは商店街を見渡す。
八百屋。
魚屋。
豆腐屋。
顔なじみの客。
「我の弁当は、ここでしか意味を持たぬ」
「しかし――」
「蓋の裏に書く言葉は、大量生産できぬ」
男たちは黙る。
「効率は否定せぬ。だが我は、効率の王ではない」
ひなたが彼の脚に抱きつく。
「パパ」
その一言で、すべてが決まる。
「我は、父だ」
静かな宣言だった。
スーツの男は、しばらく沈黙し、やがて小さく頭を下げた。
「……失礼しました」
去っていく背中を、商店街の人々が見送る。
空気がほどける。
「かっこよすぎでしょ」
澪が呟く。
「そうか?」
「自覚ないのがまた」
ガルドはひなたを抱き上げる。
「我が娘よ」
「なあに?」
「誇れ」
「なにを?」
「お前の父は、魔王より強い」
ひなたはきょとんとし、やがて笑った。
「パパ!」
ぎゅっと首に抱きつく。
その重みが、何よりの勲章だ。
夕方。
店を閉め、三人で商店街を歩く。
灯りが一つずつともる。
かつて消えかけていた光だ。
「ねえ」
澪が言う。
「これからも大変ですよ」
「無論だ」
「保育園の行事とか、反抗期とか」
「……それは強敵だな」
真顔で言うので、澪が吹き出す。
「でも」
彼女は少しだけ真面目な顔になる。
「一人じゃないですから」
ガルドは、ゆっくりと頷いた。
孤独ではない。
それが、かつてとの最大の違いだ。
夜。
ひなたを寝かしつける。
「パパ」
「何だ」
「だいすき」
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
「……我もだ」
小さな寝息が部屋に満ちる。
ガルドは窓を開ける。
夜風が入る。
遠くにネオン。
近くに提灯の灯り。
世界は広い。
だが、守るべきものはここにある。
かつて恐怖で支配した男は、今、愛で繋がれている。
その鎖は、どんな魔力より強い。
「世界征服は、もうよい」
小さく呟く。
「この商店街で十分だ」
彼は静かに微笑んだ。
父の名は、黒峰ガルド。
元・魔王。
現在、弁当屋。
そして――
ただの父親だ。
潮見橋商店街の夜は、穏やかに更けていく。
物語は終わらない。
だが、ひとつの章は、確かに閉じた。
――完。




