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第一話 魔王、保育園に降臨


 それは、終焉のはずだった。


 漆黒の空を裂く聖剣の光。

 崩れ落ちる魔王城。

 忠誠を誓った配下たちの叫び。


「これで終わりだ、ガルド=ヴァル=ディアグロス!」


 勇者の声が、燃え落ちる玉座の間に響いた。


 魔王ガルドは血を吐き、なお笑った。


「終わりだと? 愚か者。魔王に“終わり”など――」


 言い切る前に、光が視界を飲み込んだ。


 世界が裂け、音が消え、闇が落ちる。


 そして――


 目を開けたとき、そこは見知らぬ天井だった。


 白い。

 妙に清潔で、妙に平和な空気。


 魔力の気配はない。

 血の匂いも、硝煙もない。


 代わりに。


「……う、あ?」


 小さな、温もり。


 視線を落とすと、腕の中に赤子がいた。


 黒い髪。小さな手。無防備な寝顔。


 魔王ガルドは、しばし沈黙した。


「……何故だ」


 状況が理解できない。


 ここはどこだ。

 この弱き存在は何だ。

 なぜ我の腕の中にある。


 赤子が、ぱちりと目を開けた。


 そして。


「……ぱ、ぱ」


 世界が止まった。


 その音は、いかなる禁呪よりも強烈だった。


 魔王は、その瞬間に敗北した。


---


 それから二年。


 大阪府内、潮見橋商店街。


 午前八時三十分。


「ひなた、靴は自分で履けるな?」


「うん!」


 黒いマントを翻す長身の男と、黄色い帽子を被った幼児。


 不思議な組み合わせが、朝の通学路を歩いている。


 男の名は黒峰ガルド。


 かつて異世界を震え上がらせた魔王――の、成れの果てである。


 腕には保育園バッグ。

 片手には水筒。


 マントの下はエプロン姿だ。


「ママはー?」


「我が家には母はおらぬ。だが案ずるな。父がいる」


「パパ、つよい?」


「当然だ。世界を滅ぼしかけた男だぞ」


「すごーい!」


 屈託のない笑顔。


 黒峰ひなた、二歳。


 この世で最も尊き存在。


 魔王の全てである。


---


 潮見橋商店街は、かつては賑わっていたという。


 だが今は、シャッターが目立つ。


 空き店舗。色褪せた看板。

 人通りもまばらだ。


「おはようございます、ガルドさん」


 八百屋の前で、女性が声をかけてきた。


 短めの髪。きびきびとした目。

 朝倉澪、二十八歳。


「おはようございます、朝倉澪。今日の野菜の出来はどうだ」


「普通です。いちいち大仰なんですよ、あなたは」


 澪の視線が、ひらりと揺れるマントへ。


「……で、なんで今日もマントなんですか」


「威厳は常に纏うものだ」


「保育園に威厳いりません」


 ひなたが笑う。


 澪はため息をついたが、目元は柔らかい。


---


 保育園の門前。


「いってくるね!」


 小さな手が振られる。


 ガルドは片膝をつき、娘と目線を合わせる。


「よいか。今日は友と争うな。だが理不尽には屈するな」


「うん!」


「給食は残すな。野菜は敵ではない」


「うん!」


 先生が苦笑しながらひなたを連れていく。


 門が閉まる。


 静寂。


 ガルドはしばらく動かない。


 胸の奥が、妙に空虚になる。


 戦場では味わったことのない感覚。


「……戻るか」


 向かう先は、商店街の奥。


 暖簾が外されたままの古びた店。


 看板にはこうある。


 ――日の丸菜々。


 かつて地元で愛された老舗弁当屋。


 高齢の店主が引退し、空き店舗となった。


 ガルドは扉に手をかける。


「ここを、我が城とする」


 理由は単純だ。


 娘に、毎日ちゃんとした飯を食わせたい。


 それだけ。


---


 店内は埃っぽく、古い匂いがした。


 だが、悪くない。


 厨房に立つ。


 ガスコンロ。フライパン。包丁。


 魔界の兵器に比べれば、ずいぶん小さい。


「……よかろう」


 卵を割る。


 殻が全部落ちた。


「ぬ」


 混ぜる。勢い余って飛び散る。


 火をつける。


 最大。


 フライパンが一瞬で白煙を上げる。


「む……弱い」


 さらに捻る。


 バチッ、と嫌な音。


 卵を流す。


 瞬間、焦げる。


「何故だ!? 何故均一に焼けぬ!」


 黒煙。


 警報音。


「ちょっと何してるんですか!!」


 澪が飛び込んできた。


 換気扇を回し、火を止める。


「火力、強すぎです!」


「我は常に全力だ」


「料理で全力いりません!」


 フライパンの中は、炭。


 卵だったもの。


 ガルドはそれを見つめる。


 戦いでは敗北を認めぬ男だった。


 だが。


「……ひなたは、これを食わぬな」


 ぽつりと呟く声は、弱い。


 澪は少し黙り、言った。


「弱火ってのはね、征服じゃなくて対話なんです」


「対話……」


「食材と、火加減と。ちゃんと向き合うの」


 ガルドはコンロを見つめる。


 火を“弱”に回す。


 小さな炎。


 頼りない。


 だが、安定している。


「……再挑戦だ」


---


 夕方。


 保育園帰り。


 弁当箱を開けるひなた。


 中には、少し歪だが、黄色い卵焼き。


「おいち!」


 満面の笑み。


 ガルドは固まる。


「……本当か?」


「うん!」


 小さな口が頬張る。


 その姿を見て。


 魔王は、初めて震えた。


 勇者の剣でもなく、神の裁きでもない。


 たった一言。


 “おいち”。


 それが、心を射抜いた。


 夜。


 店の前に立つガルド。


 看板を見上げる。


「日の丸菜々……」


 やがて静かに言う。


「我は魔王だ。ならば、この店も征服してみせよう」


 だがその声に、かつての傲慢さはない。


 あるのは、不器用な決意。


 娘のための、戦い。


 世界征服より、ずっと難しい戦場が。


 今、始まる。


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