第一章2:『ハチミツ』
フユノとヒノは、分厚く積もった雪の中を慎重に進んでいった。 雪を踏みしめる「ザクッ」という音は心地よかったが、同時に命取りにもなり得た。その音が、熊や悪意ある人間を引き寄せてしまうかもしれないからだ。
熊や狼の群れがいつ森から飛び出してきてもおかしくない。二人のサーマルスーツは頑丈だが、狼の牙による一撃はスーツを貫通し、出血を引き起こす恐れがあった。 だからこそ、少なくとも一丁の銃器を準備しておく必要があったのだ。
ヒノ: 「弾をくれ。俺のリュックに入ってる」
フユノ: 「うん」
フユノはヒノが背負っているリュックから、ライフル用の弾薬をいくつか取り出した。 ヒノはそれを手際よく装填していく。
ヒノ: 「撃たずに済めばいいんだがな。発砲すれば音で逃げてくれるかもしれないが、逆に他の危険を呼び寄せることにもなりかねない」
二人は再びゆっくりと歩き出した。雪を踏むリズムは精神を安定させてくれたが、同時に居場所を知らせる合図にもなってしまう。
フユノ: 「ヒノくん、もうすぐ日が暮れるよ。私の腕時計だと18時32分」
ヒノ: 「まだその時計を使ってるのか。言っただろ、エネルギーの無駄だって」
フユノ: 「時間がわかると便利だもん」
ヒノ: 「お前のはまだマシか。超ハイテクなやつじゃなくてよかったよ」
夜行性の生き物たちが動き出す音が聞こえ始めた。フクロウの鳴き声、そしてコウモリたちも姿を現した。
フユノ: 「ひゃっ、コウモリ……!」
ヒノ: 「パニックになるな……熊が寄ってくるぞ」
フユノ: 「怖がるなって言われても、私コウモリ恐怖症なんだもん……ヒノくんは何も怖くないの? たまに人間じゃないみたい」
ヒノ: 「恐怖症がない人間だっているさ、生まれつきな……人間じゃない扱いは少し心外だな」
フユノ: 「ごめん……」
ヒノ: 「謝らなくていい」
突然、森の奥から重苦しい音が響き渡り、二人は即座に警戒態勢に入った。
ヒノ: 「しっ、動くな」
ヒノはフユノの口を手で塞いだ。
フユノ: 「んんーーー」
ヒノが指差した森の先には、巨大な生物の影があった。 熊だ。
ヒノ: 「絶対に動くなよ。一歩でも動けば、ブーツと雪が擦れる音で気づかれる……あいつ、どうやら蜂の巣に夢中みたいだ。木をあんなに引っ掻いて巣を落とそうとしてる。かなり腹が減ってるな」
フユノ: 「…………」
ヒノは静かにライフルを構えた。 それは20世紀や21世紀に使われていた骨董品だったが、武器としての威力はまだ健在だった。
熊は執拗に木を引っ掻き、蜂の巣を落とそうとしている。
ヒノ: 「策がある……」
フユノ: 「…………」
ヒノ: 「俺が熊の気を引く。その隙に、お前はできるだけ遠くへ逃げろ」
フユノ: 「んんーーー!!」
その「んんー」は「嫌だ」という意味だった。彼女はヒノの提案を拒絶した。
ヒノ: 「心配するな……勝算はある。熊は俺たちに気づいてない、いや、気づいていても俺たちより蜂蜜に興味があるはずだ。俺が撃って巣を落とす。……そこからは五分五分の賭けだ。熊が巣を食うか、俺に向かってくるか……危険だが、奴は進行方向にいる。これ以上遠回りをする余裕はない」
フユノ: 「んんーーー……」
ヒノ: 「俺はお前の兄貴分だろ。守らせてくれ」
ヒノはフユノのスーツにあるスイッチを押した。それは外部への音声を遮断する機能だった。これでフユノがどれだけ叫んでも、誰にも聞こえない。 スーツの腕部分は重く作られているため、彼女自身でそのスイッチを解除することはできなかった。
ヒノ: 「よし……」
ヒノは大きく一歩踏み出し、木の間から蜂の巣に狙いを定めた。 4秒かけて息を吸い、4秒止める。そして4秒かけて吐く。 このサイクルを4回繰り返し、平常心を研ぎ澄ます。 そして再び4秒吸って息を止めた瞬間、引き金を引いた。
銃弾は蜂の巣を支えていた枝に直撃し、巣が地面に落下した。
熊は最初こそ音と状況に驚いた様子だったが、目の前に落ちてきた蜂蜜に気づくと、それまでのことはどうでもよくなったかのように貪り始めた。
ヒノはフユノの元へ戻った。
ヒノ: 「ほらな……生きてるだろ」
フユノ: 「…………!!」
ヒノ: 「今のうちに、熊の背後をそっと通り抜けるぞ」
フユノ: 「…………」
ヒノ: 「俺を信じろ、そして自分を信じろ。4秒吸って、4秒止めて、4秒吐く。これを4回やるんだ」
ヒノはパニックになりかけているフユノを落ち着かせようとした。 呼吸を整えた後、二人は極力音を立てないように森を進み、夢中で蜂蜜を舐める熊の横を通り抜けた。
そしてついに、森を抜けることができた。
ヒノはフユノの音声機能を解除した。
ヒノ: 「もうすぐ到着だ」




