千佳子の休日
全裸の男は体を小さく屈め荒い鼻息を立てながら肩を上下に震わせていた。歯を食いしばり低い呻き声を上げると、からだ中の汗腺から噴き出す粘着質の汗を振り払った。そして片目を細め、わずかに開かれた襖の隙間から部屋の様子を覗き見た。白いテーブルに置かれたアロマキャンドルの炎はゆらゆらと揺られ、部屋は橙黄色に染まり、カモミールの香りが漂っている。浴室から出てきた千佳子は濡れた髪をバスタオルで覆うと、ソファに脚を伸ばし、ラメの入ったパープルのマニュキアを右足の小指に塗った。塗り終えると薬指、中指、人差し指、親指と続けて塗っていく。シンナーの匂いが部屋中に漂いカモミールの香りと混ざり合う。右足をすべて塗り終えるとテレビを点け録画予約していたドラマを再生する。男は固唾を飲みその様子を見つめる。千佳子はときおり笑ったり独り言を呟いたりした。右足に塗ったマニキュアが乾くと同じように左足にも塗っていく。普段、ズボラな千佳子が入念に準備をするのは、これから会う女友達のためだった。友達と言っても会社の同僚で休日に宅飲みをする程度の仲なのだが、オシャレに気を遣わない千佳子をいじり倒すほどのツワモノたちなので、ツッコまれまいと気合いを入れ準備しているのだ。社内では基本的に服装は自由だが、千佳子にとってはそれが悩みの種でもあった。とはいえ、毎日着る服に時間をかけてはいられない。そのような考えから、似たようなコーディネートが続き、同僚たちから「女版スティーブジョブズ」と揶揄されることもある。しかし、千佳子はそれを笑って受けながすほどの余裕があった。彼女自身も、スティーブジョブズのように仕事熱心で、部屋の壁紙にはスティーブジョブズの尊敬する、アインシュタインとガンジーの写真が貼り付けてある。彼女の場合は額に飾るのではなく、直接、壁に画鋲を打ちつけるスタイルだ。だが、賃貸ということもあり壁紙を傷つけることは出来ない。やってしまえば退去時に修繕費が嵩む事になる。千佳子もそのことを十分理解していたが、ついついがさつな部分が出てしまうのだ。左足のマニキュアを塗り終えるとドライヤーで髪を乾かす。彼女が髪を掻き上げるたびにフローラルのシャンプーの香りが部屋中を漂い、その分子は空気中のシンナーとカモミールに混ざり合う。男は襖の隙間からその様子をじっと見つめタイミングを伺っている。右手の腕時計を一瞥すると人差し指を何度もパタパタと動かした。──このままでは真由美が帰って来てしまう。そんな焦りと不安からじっとしてはいられなかった。
二人が別居してからもう五年が過ぎようとしていた。別れた理由はいくつもあったが、一番大きかったのはセックスレスになった事だった。次女が産まれてから男は真由美にすっかり欲情しなくなってしまったのだ。今では高校生になった二人の娘の養育費を毎月ATMに振り込む時が家族を思い出す唯一の瞬間になっていた。──今日の長女の誕生会を逃してしまえば、もう家族と会う機会を得られなくなるかもしれない。男は静かに肩を揺らし千佳子をじっと見つめていた。髪を乾かし終えると千佳子は服を着替え始めた。そして同僚からのショートメールに返信し時刻を確認した。二人はもうすぐ彼女のマンションにやって来る。千佳子は少し急いで支度を始めた。灰皿の中身をゴミ袋へ捨て、カップラーメンの汁をシンクの排水口へと流した。床に散らばるTシャツや靴下、トランクスをまとめて掴むとゴミ袋へ放り込む。この日のために買っておいた中華包丁をバッグから取り出すと研ぎ石で入念に磨く。普段、自炊をしない千佳子が包丁を握ったのは小学校の家庭科の授業以来のことだった。千佳子は切れ味を確認するため、冷凍ボックスから、前日、市場で仕入れたカツオ一匹を取り出しまな板の上に乗せた。そして、両手でしっかりと握りしめた包丁を振り上げると、エラをめがけて勢いよく振り下ろした。その瞬間、千佳子の顔に鮮血が飛び散り、着替えた白のワンピースに赤い斑ら模様がついてしまった。見事にカマは床に転がり、まな板の上の胴体部分と綺麗に切り離された。千佳子は安堵のため息をつくと洗面所の鏡の前に立ちタオルで顔に飛び散った血液を綺麗に拭き取った。そのままタオルをゴミ袋に捨てると、浴槽に張った水に気づき慌てて水中に手を突っ込んだ。これは計算外だった。普段、要領の良い千佳子にしては少々、手際が悪かった。ゴム線を掴み水に浸かった腕を引き上げようとした、ちょうどその時、チャイムが鳴った。
「まことー。いるんでしょ?」
「ねぇー。入るよ」
「ちょっと、もう、美咲も萌も待ちくたびれてるよ」
真由美はそのとき押入れの方から何か物音がすることに気づいた。恐る恐る襖を開けると手足を拘束された誠が必死に喘いでいる。口にはガムテープが巻きつけられ何を言っているのか聞きとれない。誠の視線に気づいた真由美は振り返ると、そこには中華包丁を振りかざした千佳子が立っていた。