8話
過酷な旅路だ。サルーグを旅立ってから幾度も思う。最初の魔物の山は今になって思えばかなり楽な部類だったと思わざるを得なかった。なにせ歩く為の道自体は確かにあって、魔物の処理さえ済ませれば良かったのだから。
「ウォォォォ!!?」
恐怖で口から声が漏れた。覚悟は決めていたし、大丈夫だろう、そう思ってやった事だったがいざやるとなると大きなうめき声が漏れた。成程、ショーでの綱渡りの練習を始めた頃を思い出す。アレは渡れる様になる為の技術以上に恐怖と向き合う為の練習でもあった。ある程度の安全も確保しているつもりだったがそれが安心には繋がらない。
「ルーク!?」
ミラの絶叫するような声が聞こえた。しかし手を振り返す余裕は無い。何せ今は荒れ狂う大河の真上にいるのだ。それも壊れかけの橋の上、一歩間違えればカフェラテの様な川にダイブすることになる。腰に巻かれた紐は命綱だがこれで助かる保障にはならない。一応新品と言っても良い位の状態だが切れない訳ではないのだ。両手で架け橋の太い紐をしっかりと握りしめ直す。
今、渓谷にある大河の上に立っていた。それもボロボロの、何時架けたかも分からないボロボロの大橋の上に、たった一人で波しぶきと突風を身に受けていた。人気を避ける最短の道を進む上でこの渓谷は避けて通れない。これを避ければかなり大廻する。それぐらいなら最初から他国を経由する。しかし、今、それを渋った事を若干後悔した。そして商人の話だけは信じない。そう心に固く誓った。
「が、頑張って!!」
既に遠くなったスタート地点から、いつになく大きな声で叫んだのだろうプロトの声援が背中に乗るが、ちっとも気休めにならないのは自分が薄情だからか。はたまた勇気が無いからか。心なしか声援も重みに感じられ、橋が大きく軋んだ様にも思えた。
大橋は此処が使われていた時代に架けられた物らしく、当時から酷い荒波の大河を渡るために架けられたから幾分立派な見た目だった。しかしそれも時が経ち、中継できる国が成り立って、人通りが無くなってしまえば放置もされ、寂れるのも事実だった。おまけに、川の中に支柱を立てられないからか、両端を頑丈なロープで括り付けただけの桟橋だ。正直穴も空いて入れば抜けてもいる。むしろよくここまで残ったと感心する。でも出来ればあと一回、自分たちが渡るまで持ってほしいと心底祈った。
自分が先に一人で渡っているのは命綱を掛けるためだ。先に誰か渡ってしまえば、それを軸に、ロープと人を繋げば橋が抜けても渡る事は出来る。だから一番身軽という理由で先行した。これで向こうに渡り次第、木にでもロープの先を括りつければ仕事は終わりだ。荷物も全部向こうに置いて、負担を減らしたが、きっと全員が橋の上を歩ける確立は低いと思えた。ウィリアムはかなり怪しい。プロトとミラにしても一人なら兎も角、あれだけの体格なのだ、きっと大いに揺れるだろう。彼の足が竦むとは思わないが。ただ自分でもこれだけ怖いのだからミラの顔も自分が渡る前、青ざめていたのは気のせいでは無いだろう。
「ハァ、ハァ、ハァ・・・やった・・・生きてる」
橋は落ちなかった。渡り切った先の地面はいつになく暖かく、自分が地に足を着けた生き物なのだと実感する。手に伝わる苔むした土が滲むのも気にならない。雨に降られた訳でも無いのに、髪はぐっしょりと濡れ、ズボンも洗濯したように重い。外套が無ければ心底冷えたに違いない。走った訳でも無いのに息も整わず、眉間に皺が寄っているのが分かった。
「とりあえず結ぶか」
息も整わないがサッサとロープを結んで合図を送らなければならない。武器も持っていないのだから魔物に襲われれば一瞬で困難に見舞われる。それだけは避けたい。それに今、誰も乗ってはいないのに桟橋が崩れてもなんら違和感が無い。だから少しでも早くに仲間に来てほしいと思わずにはいられない。とはいえまずは荷物だ。ロープは2本。片方が命綱。片方は予備だ。兎に角、ロープを結んで用意を整えなければならない。
手を振る。荷物は何とか運びきった。後は三人が順番に来ればいい。そして後は荷物と同じように新たに張った縄に命綱を付けて渡れば良い。万が一橋が落ちてもこの縄さえ切れなければ大河に落ちる事はない。そう思えば少しだけ気が楽になった。
「よし、順調、順調。大丈夫だったか?」
ミラ、プロトの順で二人が桟橋を渡り切る。ミラはおっかなびっくりではあったが彼女は意外にもタフだ。後半にかけて足取りはスムーズになって、最後に陸へ着いた時には腰がやや抜けてしまったくらいで済んだ。
「うん。僕は全然」
渡り切ったプロトが首を横に振る。見る限り本当に平気そうだ。もっとも表情、と呼べる様なものも無いのだが。彼自身は感情豊かだが、其処は彼のルーツ的に恐怖、のようなものはかなり鈍い。ある意味では羨ましいと思う。
「最後はウィリアムか・・・大丈夫かなぁ」
彼自身に不安は無いが、彼の体重だけが不安だ。どう考えても自分の倍以上はある巨躯だ。ミラやプロトなら三倍は固い。問題ないとは思うが落ちたら流石の彼でもこの大河を泳げるかは怪しい。そう思うほどに大河はシェイクしている時の様に荒れていた。
「悪いんだけど、最悪引っ張るからさ、ロープ持っててもらっていいか」
二人にお願いすれば頷きが返って来て、三人でロープを持つ。こちらと対岸でロープを結んでいる以上、必要無いかもしれないが念には念を、だ。
ウィリアムが渡河し始める。間違いない、ここ一番の大揺れだ。息をのむ。しかし遠目に見える彼に焦りは見えない。流石だと思う反面、腹の其処から何かが湧き上がる様な感覚に襲われる。早くこっちに来てくれ。彼に対して初めてそんな感情を持った。それから中ほど、尤も揺れる場所にウィリアムが差し掛かった時、異変が上流からやってきた。
「ねぇ、あれって何かしら?」
ミラの言葉に釣られて彼女の視線の先を追う。其処は大河の上流、濁濁とした水が流れてくる先にぽつんと、見慣れないものが飛び出していた。
「なんだ、あれ?」
思わず首を傾げる。ポツリとしたそれは大河を割る様にして突き出して、波に乗る様に、或いは掻き分けるようにしてユラユラと蠢いていた。一見すれば細い岩のようにも見えたが、どうにもこっちへと下ってきている倒木の先端にも見えた。いずれにせよ、今このタイミングで来てほしくない。とは思った。
「ウィリアムに伝えておくか。聞こえるかなぁ・・・ちょっと手離すよ」
そう言って橋のギリギリに立つ。
「おーい!!何か来てるから気を付けろ!」
右腕を一杯に振り、左手で上流を差す。声が聞こえたかは分からないが、ウィリアムは一度立ち止まると視線を上流の方に向けたのが分かった。彼の鬣が飛沫で濡れて、風に煽られたせいで彼自身も大河の一部になってしまったかのように見えた。
暫し、港で船を待つようにしていたウィリアムだったが突如として彼は走り出した。それに合わせて桟橋が大きく揺れ、彼の脚力に負けた木の板が吹き飛ぶ。
「な、何してんだアイツ!」
急いで命綱を握りしめる。流石にウィリアムの足に耐えられる橋ではないし、勢いをつければこの新しいロープだって容易く千切れてしまう。そんな事は百も承知の筈なのにウィリアムの足は止まらず加速していく。そして当然、向こう岸の桟橋が千切れるのが見えた。後で絶対に文句を言ってやると思ったその瞬間、視界の隅にあの黒い影が桟橋の近くまで流れてきているのが見えた。
(速くないか?)
そう思った。結構な遠くにあった筈だがもう目と鼻の先。それなりに大きいのだからいくら荒れた川でも少しは時間が掛かるものだ。なのに、まるで波に乗った様にその黒点はグングンと壊れていく桟橋とその上を走るウィリアムに向かって加速する。そしてウィリアムが待てないとばかりに大きく飛び、強引に地上に向けて宙を歩くと同時にその黒影が一瞬大河に沈む、その姿を露わにした。
先に現れたのはぬらぬらとした黒色の三角形の先端だ。ペン軸のような先が天を付くように飛び出し、壊れた桟橋を呑み込んでいった。上部にはさっきまで見え隠れしていた棘棘の山脈、下はぽっかりと空いた谷に羊歯が群生していた。表面は磨かれた石の様な鱗がびっしりと並び、そいつが蠢くたびにキラキラと太陽は反射した。魚のようにも見えた。龍にも見えた。或いは蛇か。兎も角そいつは桟橋を呑み込み、こちらをギョロギョロとした赤目で睨みつけながら再び荒波に大飛沫を上げながら消えた。
「なんだあれ!?」
見たことのない魔物だ。そりゃ、ウィリアムだって焦る。そのウィリアムはこっちに辿り着いてからも鋭い目つきで大河の方を睨んでいる。
「まだ来るぞ。急げ、流石に吾輩も水の中までは如何ともしがたい。逃げるぞ」
そう言われてしまえば仕方がない。彼が無理だと言うならこちらの戦力ではどうしようもないということなのだから。全員で慌てて荷物を背負う。その最中、ずっとウィリアムは濁り切った大河を睨む。
「走れ!吾輩も直ぐに追う!」
そうウィリアムが叫んだ直後、水柱が上がり、奴が姿を出す。顎下から腹部にかけて真っ白の一本線が引かれ、天を仰ぐようにしていた奴が鎌首を擡げる。充血したような目はギラギラと、獲物を前にした獣のようにこちらを見る。その目は雄弁に逃がさぬと告げていた。そして次の瞬間、奴の頬が膨れたと思った瞬間に大口が開かれ、土砂の様な勢いで水が吐かれた。
「逃げろぉ!!」
大慌ててミラとプロトの後ろを走り、叫ぶ。速度は逃げられる物ではないがどうやらウィリアムが受け止めたのか地震のような響く音と共に自分たちの左右へ水の線が走り、木々を薙ぎ倒した。本格的に不味い。ウィリアムを信じて、渓谷の森へ逃げる他無かった。
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