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ロゼが叫んで倒れこんだエドの元に駆け寄る。私はそれを、全身を硬直させてただ眺めていた。
執事服で隠れていて分からなかったが、恐らくしっかり筋肉のついた男の腕が、エドから離れ、顔に苦痛を浮かべながら倒れ込むエド。ロゼの甲高い叫び声。
それらは全て、私にあの日を思い出させる鍵になる。
「……っ」
頭の中に、眩しすぎる光とともに断片的に蘇る記憶が、私の中に恐怖を流し込んでくる。胸に広がる、耐えるには辛すぎる痛みに、私はその場に座り込んだ。
「アリシア・オルシアス様、私達と共に来て頂きたい。さあこちらへ」
エドの体を跨いだ男が私に近寄ってくる。その顔には大きな刀傷が走っており、鋭い目で私を見下ろした。
がくがくと震える体で後ずさろうとしても、下がった分だけ詰められる。男の一歩は大きく、ここで立ち上がってどんな速さで走ろうと、私の足では到底逃げることは出来ないだろう。
(どうしよう、どうしたらいい?逃げられない、でも逃げなきゃ。あぁでも、エドは?ロゼは無事なの?)
頭が混乱して、もうろくに思考が回らない。呼吸が早く浅くなり視野が狭まる。みっともないほどに震える手では、もう溢れる涙を拭うことすら出来ない。その場に倒れ込んでしまわないようにすることが精一杯だった。
「い、嫌と、言ったら…」
「………」
男の手が自身の胸元に伸びた。まさか、そこから何を出す気なのかと想像し、気が遠くなりかけた時、男の肩に手が乗った。
「こらこらこら、何をしているんですか。怖がらせろと命令した覚えはありませんよ。旦那様に殺されますよ、まったく…。ああこんなに怯えてしまわれて。大丈夫です、あなたをとって食おうだなんて思っていませんから」
背後から姿を表したもう一人の男は、刀傷のある男よりもずっと長いコートを羽織っていて、話し方からして位も高いようだった。こちらは特に傷跡もなく、のんびりとした話し方をしている。
「大変失礼致しました。この男はこれが初任務でして、少々力んでいただけなのです。怖がらせてしまって本当に申し訳ありません」
立てますか、と手を差し伸べてくる。その後ろを見ると、後ろに控えていた兵士たちがエドを介抱していた。震えるロゼに、中腰になりながらブランケットを渡す者もいる。
「あ、あなた方は、一体な、何を……」
「手紙、読まれていませんか?」
男が目を丸くして言った。頷くと、おやおやと首を傾げながら、人差し指をたてた。
「アリシア・サミュエル様。あなた様の本当のご出身は、亡きオルシアス大公が残した、たった一人の愛娘なのですよ」
「オルシアス、大公…?」
名前くらいは聞いたことがあるけれど、大公というのだから大公なのだろう。つまり、この国で皇族の次に権力を持った人物だ。
「私は、海辺の孤児院の生まれです」
「えぇ。そこに、オルシアス大公と死に別れた大公夫人があなたを連れ逃げ込んだそうなんです。大公夫人とやり取りをした先代マザーはもう既に亡くなっておられましたが、その息子から、あなたは確かにオルシアス大公の娘だと証言が取れています」
自分は今何を聞いているのだろうかと瞬きを繰り返す。ただ呆然としていると、咳き込みながらエドが起き上がった。その隣でロゼがエドを心配げに支えている。
「……だから、なんだと言うんだ。アリシアがそのオルシアス大公様の娘だと今更分かったところで、大公様も死んでいるんだろう」
「えぇ。その通りです。ですが生前にオルシアス大公は遺言として、「もし自分に娘が生まれたなら、次世代のノベルディック公爵に嫁がせよう」と」
床に座り込んだままの私にハンカチを渡しながらそう言った。かなり上等なもので、それで涙を拭うのは気が引ける。
「…まさか、そのノベルディック公爵とやらに嫁がせるために、ここへアリシアを迎えに来たのか」
「…え?」
信じられない思いで男を見上げると、少し申し訳なさそうにしながら、いや、あれはそう思っている訳では無い。まるで、仕方の無いことだから受け入れろと、実際受け入れるしかない私達を憐れむような笑顔を浮かべて頷いた。
「その通りです」
「ふざけるな!そんな真実かどうかも分からないような遺言のためにアリシアを連れていこうって言うのか!…っ、ごほっ」
「エド!」
脇腹を押さえて苦しそうに何度も咳き込んでいる。あの傷のある男、相当な力で殴ったのではないだろうか。
「申し訳ないのですがその通りです。現皇帝陛下はオルシアス大公を剣の師に持ち、実の親子のように親しい関係を築いていました。そのためあなたというオルシアス大公の娘が生きている事実を知った時、必ずや見つけ出し、そして現ノベルディック公爵に嫁がせるようにと仰せになられました。よってアリシア様が我が主、ノベルディック公爵閣下に嫁ぐことは、皇命によりすでに約束されたことなのです」
私が公爵に嫁ぐか嫁がないかという話をしているのに、私はどこか他人事のように聞いていた。自分が実はオルシアス大公の遺した娘で、遺言により、ノベルディック公爵に嫁ぐことがもう定められているだなんて、そう簡単に受け止められない。
ようやく足の震えが収まり始め、私はぐっと力を込めて立ち上がった。
「……それを、お断りすることは…」
まだ僅かに肩を震わせる私を見下ろしながら、男はうーんとうなった。そしてしばらく悩ん様子を見せたあと、また姿勢を正し、静かに言った。
「…皇命なのです。アリシア様」
「………」
それが、全てであると、そういうことなのだろう。
皇帝陛下、この国で最も尊いお方。その方の命令は、何人たりとも逆らうことは出来ない。もし逆らったとしたら、待っているのは不敬罪による処刑。
(顔も分からない男に嫁ぐのは嫌。それに、この街と、ロゼやエドと離れるのも嫌。けれど、そんなことは許されないということなのね……。だったら、このままごねていても仕方がない。早くエドをお医者様にも診せなくてはならないし、どっちみち私がこの状況から逃れることは出来ない)
「…分かり、ました」
「だめだ、アリシア!」
「アリシア、待って、まだ考える時間が必要よ」
(…時間って?今はこうするしかないじゃない)
「その考える時間がこの一ヶ月だったのですよ。残念ですが、考えられても逃れることは出来ないのですが」
「もう分かっていますわ。このまま拒否し続けていてもなにも変わらないということは。それよりお医者様を連れてきてくださいますか?エドを診て頂かないと」
男はにっこり笑い、胸に手を当てて頷いた。軽く頭を下げているその姿勢は、まるで本物の貴族令嬢に対するような丁寧なもので、私は目を逸らした。
「問題ありません。直ぐに名医をお連れします」
「アリシア、アリシアやめろ。俺はいいから、お前は行くな」
「エド……」
二人のそばに駆け寄ると、エドに強い力で腕を掴まれた。ロゼも涙目で首を振っている。
「…こうするしかないわ。二人と離れるのはとっても悲しいけれど、……行くしかないんですって。仕方ないわ」
「こんなの残酷すぎるわ。あなたがオルシアス大公の娘で、ノベルディック公爵と結婚しなきゃいけないなんてどう受け入れろというの」
(そんなの私だって同じだわ。なにかの間違いだと思う気持ちしかない。だけどここでどう抵抗したって敵うわけないんだもの、まずは私が行かないと二人の安全も保証できない)
これが最善の策だと言うことは分かりきっているのに、私の手はロゼから離れなかった。こんなに兵士をぞろぞろ引き連れてきている状況では逃れられるものも出来ないだろう。とにかく着いて行って、結婚に関しては実際に公爵にでも会ってから話をした方がいいに決まっている。
「……私もよ、ロゼ。でも考えてみて。こんな田舎くさい私を見たら、公爵様だって結婚したいとは思わないはずよ」
「そんなの分からないじゃない。あなたが可愛らしすぎて手放したくなくなったらどうするのよ」
ロゼが涙ぐみながらそう言うので、私は思わず笑った。
「そんなことありえないわ。やめてよ恥ずかしいわ」
頬に傷のある男が私達の横を素通りし、そのまま目の前に止まっていた馬車の扉を開けた。その目はじっと私を睨みつけており、早く乗れという無言の催促のようだ。
後ろから別の男の圧も感じるし、そろそろということなのだろう。
ロゼから手を離し、立ち上がった。
「じゃあロゼ、少しお休みをいただくわね。すぐに戻ってくるから」
「待てアリシア……!」
エドが私に向かって手を伸ばすけれど、あの手をとったらエドは絶対に離そうとしなくなってしまうことが分かっていた。そのため、ただ微笑みかけて、馬車の前に立った。
「あなた方の言う通りにしますわ。けれど、…男性と同じ馬車に乗るのは怖いです…」
涙目を作って傷のある男に視線を向ける。ぴくりと眉根に皺を寄せた。
あの男が一番危害を加えてきそうな気配がある。執事服を着ているのだから馬に乗ってきた訳では無いのだろうけど、狭い空間に一緒に閉じ込められることだけは勘弁してもらいたい。
「分かりましたアリシア様。あの者は御者台に乗せます。申し訳ありませんが私めはご一緒させて頂きます。アリシア様の安全が最優先ですから」
馬車の中にいるというのに何が危険なのか。ただの見張り役と言うことだろう。
「出発致します」
御者の声がかかり馬車が動き始める。馬車のカーテンは閉ざされており、ロゼとエドの姿を見ることは叶わなかった。
「先程、公爵様はアリシア様を見れば結婚する気が失せると申されておりましたが、そんなことはありませんよ」
男を見ると、僅かに微笑みながら胸元から一枚の絵を取り出した。
「そちらがノベルディック公爵閣下です。見ての通り見目麗しい方ですから、それなりに貴族令嬢からのアプローチを日々受けておられますが、頑なに断っていますからね。周りにいる淑やかな令嬢よりも、一癖ある魅力をお持ちの方にもしかしたら惹かれるかも」
つまり育ちが悪い粗悪な女の方が面白がって貰えるんじゃないですか、と言っていることが伝わった。
手元にあるその姿絵に書かれた人は、確かに綺麗な顔立ちをしていた。
柔らかそうなホワイトゴールドの髪に、濃いエメラルド色の瞳。前髪はかきあげられ、端正な顔立ちが顕になっている。
一見物腰が柔らかそうな紳士的な雰囲気があるが、肩幅がしっかりあって、筋肉のつきが良い。さらに腰に剣を指しているあたり、日頃から鍛錬しているのだろう。
けれど、私にとってしてみれば、見た目の良さというところは大して重要ではなかった。
公爵が男であり、日頃から剣を扱うがたいのいい男であること、私にとってはそれで十分だ。
「結婚されたくなりました?」
(なるわけないでしょう。こんな誘拐未満のような連れ去られ方をして、さぁ結婚してくださいと言われても嫌悪感しかあがってこないわ)
と心の中で舌打ちしつつ、頬に手を当て目を丸くし、いかにも公爵様のお顔に見惚れている女の子を装った。
「…そうですね、ここまで格好いい方だとは思っておりませんでした」
「そうですか。公爵様は今社交界で一番の花婿であると言われているお方ですからね、嫁げるだなんてある意味幸福ですよ」
(本気で言ってるのかしらこの人頭おかしいんじゃないの)
「まぁ、そうなのですね。……でも、やっぱりそんな素晴らしい方が私を見て落胆されないはずがありませんわ。選り取りみどりのはずでしょうし」
「その事なら心配ありませんよ、公爵様は容姿はさほど気にされない方ですから。見た目よりも、心で判断する方なんですよ」
「心?」
心ということなら汚れ方には自信がある。それなら私はどのみちお眼鏡には適わないのでは無いだろうか。
(まぁ、本性晒すような真似はしないけれど)
「公爵家までまだ時間がかかります。もし途中でお疲れになられましたら、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます」
そう言われても、この総勢二十はいるだろうという兵士たちすらも巻き込んで休憩を貰うことも気が引け、結局休むことなく公爵家まで駆けることになったのだった。
もちろん、馬車酔いはした。