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話しながらやはり泣き出した私の背中を、公爵様はずっと撫でていてくださった。けれど、子爵が夜私を呼び出して背中の傷に塩を…と話している時からその手は止まった。
そして今話し終えたと同時に、服のリボンを解かれ、中に公爵様の手が入ってきた。
素肌に公爵様の荒々しい手を感じて、私は背中を反らせる。背筋をなぞられて声を上げて止めそうになったが、公爵様のシャツを握りしめて耐えた。
(大丈夫、公爵様だから、大丈夫)
声を上げそうになる口を覆って、震えそうになる体を押しとどめて、公爵様の手を掴みそうになる自分の手を押さえつける。
男の人が体に触れるのは、あの頃の記憶が蘇ってしまうから、私にとっては恐怖でしかない。公爵様だから大丈夫だと分かっていても、そう心から思っているのに体は拒絶しようとする。
(大丈夫です公爵様。公爵様なら。……私が嫌がっても、続けてください)
どうしても身を捩ってしまう。公爵様に私が嫌がっていると勘違いされたくなくて、心の中で必死に訴えた。大丈夫です。続けてください、好きにしてください、と。
公爵様の指が背中にたどり着き、動きが止まった。しきりにそこにある傷跡を撫でている。
きっと、皮膚のひきつれた痕が無数にあることだろう。背中以外にも、太ももや腹部にも同じような傷が無数にある。それを私の心の声を聞いて知ったのだろう、公爵様の手が今度は太ももに伸びる。
さらに身を縮こませて耐えようと身構えるが、公爵様の手が触れることは無かった。公爵様は服の中から手を抜き、また毛布をかけ直している。
「…公爵様」
「すみません。怖かったですね」
そう言いながらまた優しく抱きしめてくれる。私の顎に指を置いて上を向かせ、息をしてください、と言われる。それでようやく私は空気を吸うことができ、咳き込みながら公爵様に縋り付くがあまり、肌に爪を立てていたことに気がついた。
「あっ、ご、ごめんなさ」
「いいえ。……いいえ」
髪を優しく撫でられる。見上げると公爵様の顔が苦しそうに歪んでいて、また息を詰まらせた。まるで自分が槍で貫かれたかのように、必死に痛みをこらえているような顔。そのエメラルド色の瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちてきそうだった。
「……今、情けないことに、あなたになんと声をかければいいのか分からないのです」
その声があまりにも悲痛で、まだ震える手を必死に公爵様の頬に伸ばした。指先が触れる時、上から公爵様の手で押さえつけられる。
「あなたがどれだけの恐怖を植え付けられていたか、痛かったか、寂しかったか。それを想像するだけで、苦しくてたまらない」
あぁ。公爵様は今、私の痛みを理解してくれようとしている。それだけでなく、一緒に背負おうとしてくれている。
そう気づいた時、真っ先に私を襲ったのは後悔だった。公爵様がここまで傷ついてしまうのなら、やっぱり話さなければよかったのではないかと。責任感が強くて、こんなにも優しい公爵様なら、自分の事のように悲しんでしまうだろうと分かっていたのに。
公爵様に話したことを後悔した。ごめんなさいと、謝りたくなった。だけど、喜んでしまっている自分がいる。
公爵様が、一緒に苦しんでくれていることが嬉しい。私のために怒ってくれていることが嬉しい。
(お願い、涙…出てこないで)
視界がぼやけて、愛しい公爵様のお顔が見えなくなってしまうから。
「…あなたは、何を恐れますか?」
「…え」
「あなたが少しでも恐怖を感じるものは、私が全てあなたの世界から排除してみせます。教えてください。…何を、恐ろしいと思うのか」
それで家中の装飾もルヴェイユリリーも切ってしまったのかと知り、言い表しようのない幸福感が私を襲う。
「…男の人が笑う時の低い大きな笑い声。女の人の体を品定めする時の下品な目付き」
挙げている時も、思い出してしまうかと思ったら、そんなことは無かった。不思議と、口元に微笑みをたえたまま私は話せていた。先程の自分に染み込んだ不気味な笑みでは無い。
(公爵様が聞いてくれていると思うと、何故かそれだけで幸せ)
「どれだけ抵抗してもぴくりともしない太い腕。厚い胸板。剣、手錠、鎖、猿轡。…それと、………夜」
全てを言い終えた時、公爵様は私の体に回す腕の力を強めた。何も怖くは無いのにまた涙が溢れて、そしてなぜだか分からないが笑っていた。
「…太い腕と、厚い胸板は持ってしまっています。……怖いですか?」
「いいえ。公爵様のものなら怖くはありません。……ありがとうございます、公爵様」
どうして震えているのか分からない。まだ恐怖が残っているのか、それとも一度も味わったことのないない幸せに対する喜びなのか。
震えながら自分にしがみついてくる私をさらに引き寄せ、空いている所がないくらい体を密着させる。そうしていると温かくて、この世に怖いことなんてもう何も無いと勘違いしてしまうほど安心できて、なんて私は幸せ者なんだろうとまた泣いてしまった。
「公爵様…。公爵様は、私がこんな過去を持っていても、愛してくださいますか……?」
すぐに言い返そうとした公爵様を止める。
(分かっています。答えならもう…。だけど、あなたの言葉で、聞きたいんです…)
「……もちろんです、アリシア。私はあなたを心の底から愛しています」
体に回る公爵様の腕が、力が、そして髪を撫でる指が、苦しげな声が。全てが私を誘惑するように熱を帯びている。
初めて公爵家へやって来た時は、なんて居心地の悪い場所なのだろうと思った。ずっと気を使う必要があるし、公爵様もノア様もしつこくアプローチしてくるからうっとおしいとさえ。
それがどうしたことか。
今、私は公爵様の腕に抱かれてこの上なく安心しきっている。なんて温かくて居心地のいい場所なのだろうと。もうこの人なしでは生きていけないんじゃないかと思い込んでしまうほど、公爵様は優しかった。
(私、もう、楽になってもいいんだわ…)
素直にそう思えた。もう仮面を被らなくてもいい。もう気を張りつめていなくてもいい。何があっても守ってくれる最愛の人が、私には出来たから。
「…公爵様。私も、あなたを愛しています」




