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私の部屋は、私がベリーが含まれたお菓子ばかり食べるので入るとベリーの香りがするけれど、公爵様のお部屋はインクと、紙と、独特の爽やかな甘い香りがした。
(この甘い香りは何かしら。お菓子ではないようだし…。…公爵様の、体臭?)
不思議に思いながら書物に溢れるその部屋を見回している時、公爵様がぎょっとしたように振り向いてきた。
その顔が心底驚いていて、まさか今のが口から出ていたのかと口を塞ぐ。
「わ、私、いま口から出ていましたか」
「え、あ、いえ」
おかしい。私も焦っているし、公爵様も何故か焦っている。それに私は今、本当に言葉にしていただろうか。心の中だけで、考えていたはずなのに。
「…この部屋に女性を通すのは初めてだったと気づきまして…。殺風景でお恥ずかしいです」
なんだそういうことかと手を下ろす。
「そんなことありませんわ。上品でとても素敵だと思います。本がお好きなのですね?」
「えぇ。ここ以外にも、この屋敷には図書館が併設されています」
「まぁ、そうなのですか!では、公爵様の頭の中にはたくさんの知識が詰まっているのですね」
男性は大袈裟に反応されることと、褒められることが好き。拍手をするように手を合わせ、目を開いて驚い多様な顔をしつつ、笑顔を見せる。
褒められて嬉しがる男性は、次にこの笑顔を見て堕ちる。これが私の男性の攻略方法だ。
やっと本調子に戻ってきた、と胸を撫で下ろしていたが、予想とは違う公爵様の反応に内心首を傾げる。
「ノベルディック公爵家は代々本好きなのです。子は親に似るというだけですが」
と、淡々と言うだけなのだ。私の顔には見向きもしない。大体の男性は私の顔に釘付けになるのに。まるで私の顔を大して美しくないものだとでも言うように関心を持たない。
あれ?と思っていると、どうぞ座ってくださいと椅子を勧められる。その時も、私の顔は見ていない。
(…もしかして私の顔って、社交界で美人慣れしてる公爵様には、通用しない…?)
やっとその可能性に気づいた私は、急激に恥ずかしくなり手を膝の上で組んだ。
(むしろ、私の顔は公爵様が今まで見てきた女性たちの中では不細…いやいや!そんなこと…。…有り得るわ)
自分で勝手に想像しているだけなのに顔が赤くなっていっているのが分かった。自分のことを美人だと勘違いしていい気になっていたようで、とても恥ずかしいのだ。
(別に、自分の顔に自信があるわけじゃ…!…あるけど。い、いいわよ。使えるものは使うっていう精神なだけなんだから。顔が使えないなら性格で勝負するから…。…私性格も悪かったわ…)
「ふっ…」
と、また先程の吹き出す音が聞こえた。
公爵様は今私に背中を向けているけれど、確かに肩が震えている。さっきといい今といい、どうもタイミングが噛み合いすぎている。
そろそろ恐ろしくなった私は、意を決してすこし声をいつもより低くして尋ねてみた。
「…公爵様、先程から、一体どうされたのですか?今度はなぜ笑っておられるのですか?」
「こ、今度は…」
笑いながら私の向かい側に腰掛ける。そうすると窓からの光がちょうど公爵様の顔面を照らしていて、その美貌が有り得ないくらいに眩く光り輝いていた。
私も思わず息を呑んで身を引く。
かきあげられた前髪が先程の一件で崩れてしまったのか、一筋だけ流れ落ち目にかかっている。けれどその奥から除くエメラルド色の瞳の美しい色合いをより引き立てていて美しいとしか言いようがない。
彫り深い顔立ちは、眉も凛々しく整っており、鼻筋も真っ直ぐ通り、唇の形でさえ美しい。
執務中だったためか第二ボタンまで空けられたシャツから覗く鎖骨は言い表しようのない色っぽさを演出していて、腕まくりされた袖から出る太い腕も、ベストのみ着用しているためはっきりと分かる鍛え上げられた体のラインも、全てが完璧に美しい。
(…まるで美の化身ね)
「……先程のアリシア嬢の表情がとても可愛らしくてつい」
「は、はい?」
先程の、とはまさかあの空ぶった反応のことだろうか。
公爵様がはにかむように笑いながら右手で前髪をかきあげた。それでもやはり一筋だけ目にかかっている。
「初めてお会いした時からなんて綺麗な方なのかと思っていましたが、先程のアリシア嬢はとても可愛らしくて、それを思い出してつい…。不快に思われたら申し訳ありません」
「あ…いえ。…………ふふ」
話しながら、公爵様は何度も髪をかきあげた。恐らくその目にかかる一筋がうっとおしくてたまらないのだろう。ただ、なんどかきあげようとその一筋はまるで意志を持ったように落ちては公爵様の瞳を攻撃している。
その様子がなんだかおかしくて、それに先程の私の作戦はしっかり成功していたことが嬉しくて、思わず私まで笑ってしまった。
「…今度はアリシア嬢の番ですね。なぜ笑われているのですか?」
「公爵様の…ふふ、髪の毛がまるで意志を持っているかのように動いているんですもの」
「あぁ…」
と言いながらまたかきあげるけれど、やっぱり落ちてくる。
(もうその一筋だけ捕まえてしまえばいいのに…)
と思った私の心が通じたのか、公爵様はその一筋を掴もうとする。が、公爵様からはよく見えないのか、空ぶってばかりだ。
もう少し上です、もう少し左です、と声をかけるが、一向に捕まえられる気配がない。それどころかその髪を見るために目を見開いているためそこに刺さり続け、目が痛そうに赤くなり始めていた。
(違うわ、あ!今捕まえられたのに…。ああもう公爵様の瞳が…)
時折痒そうに瞬きをしている。せっかく綺麗な瞳をしているのに…とだんだんじりついてきた私は、ついに立ち上がって公爵様に近づいた。
「アリシア嬢?」
「公爵様、少し失礼致します」
声をかけながら指を伸ばす。なんとか垂れる一筋を掴みあげ、上に持っていきほかの髪の毛の中に突っ込む。落ちてこなくなったのを確認し、今度は公爵様の瞳を覗き込んだ。
「目は大丈夫ですか?…あぁ、赤くなってしまっています。痛みますか?」
「…いえ。アリシア嬢のおかげで痛く無くなりました」
ありがとうございます、と言われた時、やっと私は自分の行動の大胆さに気づくことになる。
(え?あれ?私何して…)
慌てて公爵様から離れて椅子に座り直す。焦りから表情が変わってしまうのが恥ずかしくて、両手で顔を覆う。
(平常心!平常心よアリシア!私が反応しなければ公爵様だって流してくださるんだから…)
と自分に言い聞かせるが、間近に迫った時の公爵様の顔を思い出し、どうしても頬に熱が集まっていってしまう。しかも位置も顔を覆ってしまうとその手を外すのが怖くて動けなくなってしまった。
公爵様の前でこんな意味の分からない行動をして、私は一体何がしたいんだと自問自答している間に、公爵様が疑問に思ってしまった。
「アリシア嬢?どうされたのですか」
(聞かないでくださいませ〜)
と思うが、公爵様は無慈悲にも立ち上がって近づいてくる。そばに立った公爵様は、私の腕に手をかけた。
「まさか、アリシア嬢も目が痛むのですか?見せてください」
「い、いえ、そんなことは…あっ」
手をどかそうとする公爵様の手を振り払う訳にも行かず、私のきっと真っ赤に染まっている頬が晒される。
「あっ、あの、これは…その」
言葉が詰まって上手く出てこない。こんな時こそ演技をすればいいのに、何故かそうすることも出来ずにいた。
(ど、どうやったらこの状況を天然で可愛いアリシアまで持っていけるの!?公爵様のお顔を見て真っ赤になっている時点で純情ではないわ)
とにかくこれ以上口を滑らすまいと思い固く口を閉ざす。
が、公爵様は何も言わずにただ私の顔を見つめているので、段々私も耐えられなくなってきた。
「こ、この顔を見たのですから、なにか仰ってくださいませ…」
(何を口走ってるのアリシア!?一体何を言ってくれと言ってる訳!?まるで愛の告白を待っているような台詞になっているわよ〜…)
もうさすがに耐えられなくなった私は、公爵家の手を振りほどき、その腕の中から抜け出した。その時ちょうどノア様が戻ってくる。
そして、私たちの顔を見て唖然としていた。そのぱちぱちと繰り返される瞬きが言っている。「一体何をしていたんですか」と。
「あ、ノア様!ルヴェラは大丈夫でしたか?」
「え?あ、ええ。一週間ほどで歩けるようになると…。…アリシア様?どちらへ?」
困惑したように後を追って来るノア様を、扉を開けてから振り返る。
「ルヴェラの様子を見てきますわ!」
それだけ言い残してばたん!と扉を閉めた。
やっと逃げられた、と胸を撫で下ろす自分に驚いていた。逃げられただなんて、自分から男性から逃げることなんてなかったのに。
完全に公爵様の美貌に敗北してしまった。ろくに考えることも出来なくなり、アリシアとしてふさわしくない言動を連発してしまうだなんて。
「あ〜〜〜〜〜」
意味もなく声帯を震わすが、そんなものにはなんの意味もない。少しもまだ残る恥ずかしさは消えてくれないのだから。
(こんなの初めてだわ。私が、人前でアリシアを演じられなくなるだなんて…)