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第1章 品種名:リィリオン

~第1章 品種名:リィリオン~




   浮き草の夢言葉


 私を私たらしめるものはなんでしょう。

 ずっと疑問でした。誰も彼も、私の問いに答えてくれなかったからです。

 皆が無知だったわけではないのでしょう。悪いのは私なのでしょう。


 私が、女なのに小賢しいから、目障りなのでしょう。


 父も母も他の人々も、私を女として扱いました。政治に参加することはおろか、家事をしない日を過ごすことすら許されませんでした。そういう時代なのです。納得はせずとも理解はしています。


 ですから、私が自身の性に違和感があると言っても信じてもらえないのも、自明の理なのです。


 男として扱われることを望みました。男のように生きたかったわけではありません。男として生きたかったのです。

 ですが荒っぽいことは苦手で、喧嘩も好まない性分なので、嘘吐き呼ばわりされ味方など唯の一人もいませんでした。


 そんな私があなたと出会ったのは、モイラの思し召しだったのでしょうか。


 思い通りにならない子どもを捨てる親など溢れています。売られなかったのは、不良品だと発覚し報復されることを恐れたからに他なりません。身体は女ですから娼婦に売るしかありませんが、男と言い張る女を抱くことは大変気味が悪いことでしょう。身体が女でも魂は男だと言い張る者を神の娼婦にするわけにもいきません。どこにも売れない商品ですが、生命(いのち)がある子どもです、殺すのも少なからず良心が痛むことでしょう。捨てように捨てられない商品を買わされた商人が、報復に思い至らないわけありません。

 知恵のある両親の元に生まれた幸福を感謝せずにはいられません。

 報復を恐れた両親のおかげで、私は猛獣の餌や罪人の慰め物になることなく、森を彷徨うことが出来たのです。

 月明りだけを道しるべとしながら森の中を歩く私の前に現れたあなたは、迷子の瞳をしていました。


「――答えよ、ヒトの子。

 ワタシは、ダレだ?」


 古の怪物を思い出させる問い掛けでした。

 人にはまず存在しえない動物の角を持っていましたから、威圧感は凄まじいものでした。けれどなにより、緊張感を孕んだ雰囲気よりも、人を殺めた後のような荒い呼吸よりも、羊ではありえない憎悪に歪み切った人の表情を浮かべている顔よりも――寂し気に輝く月の色の瞳に惹かれました。


「私をヒトと思うなら、私はあなたと共に、あなたを探しましょう」


 これが、一匹の羊の長い永い夢の始まりとなったのです。




   宿り木の夢言葉


 羊に連れられ、見たことがない造りの屋敷に通されました。今日から私達はここで共に暮らすのでしょう。

「あなたはここでヒトリ、暮らしているのですか?」

「ああ」

 ヒトリで住むには広すぎる屋敷です。自分が誰かも分かっていない迷子には尚更でしょう。

「あなたのことを知りたいです。どうか教えてくださいませんか?」

 私の問いに羊は目を見開くと、疲れ切った様子で椅子に座り込みました。

 そして、ぽつぽつと、まるで降り始めた雨のように、羊は自身のことを語り出しました。

 神への供物として捧げられたこと。目を覚ました時、小さな神殿が血に染まっていたこと。仲間の元へ戻り、拒絶され、その時に初めて怪物と成り果てていたことに気付いたこと。閉鎖的な怪物の輪に入ることも叶わず、森の奥で静かに暮らしていたこと。一人の迷子の少年と出会ったこと。

 雨は次第に強くなっていきます。羊の言葉はもはや嵐のようでした。

 少年が家へ帰そうとした羊を殺そうとしたこと。気が付くと羊の手は再び赤く染まっていたこと。少年の遺体を家の前に置き、家族に見つけてもらえるまで見守っていたこと。家族が少年の名を呼びながら泣き縋り吼えていたこと。小さい子ですら名があることに衝撃を受けたこと。


 名があれば、生きていても良いのだと、思ったこと。


 名には願いが込められています。様々な祈りと共に授けられるものですから。


「帰る場所が欲しいのですね」

 私の言葉に、羊は憔悴しきった様子で頷きました。


「私をヒトと思うなら、私はあなたの名前を見つけましょう」


 嗚呼、お赦しください。

 私が自らの欲のために、この迷子羊を利用することを。




   芝生の夢言葉


 羊との生活は心穏やかなものでした。

 男として扱ってほしいという私の願いを聞き届け、家事は二人で分担することになりました。家のことに口を出すことを許されました。助け合い生きていく、古の物語のような暮らしに、私の心が満たされていくことを実感しました。

 ですが神は私を赦してはくれませんでした。

「――どうした?」

 羊と共に生きるようになって数年経った頃、その日は唐突に訪れました。

「見ての通り、洗い物ですよ」

 羊の声に、私は振り返ることが出来ませんでした。笑みを貼り付け背を向けたまま、応じました。

 羊の問いは続きます。

「なにを洗っている?」

「血ですよ。匂いで分かるでしょう?」

食事時(しょくじどき)までまだ早いだろう。何故血を洗っている?」

「汚れてしまったからに決まっているでしょう。汚れは落とさなければなりません」

「何故汚れた?」

「いつの間にか、としか」

「そうか」

「はい」

「ところで」

「ええ」


「なんの血だ?」


「……」


 沈黙が下ります。

 それでも手を止めることは出来ませんでした。

「――……私は、男なのです」

 絞り出した言葉は、あなたの名前を見つけることを誓ったのちに告げた言葉。

 羊が困惑している空気を感じ、私は思わず嗤いました。

 ヒトではないからでしょうか。あなたは私の言うことを、一度だって捨てることはありませんでした。

「膨らんでいるこの乳房も、変わることのないこの声も、私には違和感でしかないのです」

 嘘だと吐き捨てられること。邪魔だと切り捨てられること。

 人の価値観の中で生きる以上、それらから逃れることは出来ません。自分で自分を卑下しない日々はありませんでした。私だけが、ヒトが形成する社会の中で異常でしたから。

「? そうか。怪我をしていないなら良い」

 まるで今日の夕食を聞いたような声色に、今度こそ、私は笑いました。

 ――人の価値観が無い、人で無し。

 そんなあなたのそばが、ヒトとして扱われなかった私には、大変心地好いものでした。




   藻の夢言葉


 その鳥が家を訪れたのは、寒い冬の日でした。

 夜を思い起こさせる漆黒の翼と、同色の嘴と瞳を持った鳥の怪物でした。鳥は好奇心旺盛で、怪物の社会で暮らさない羊の噂を聞きつけ、遥々遠くの島国から渡って来たのだと言いました。

 鳥は陽気で、疑うことをまずしないような怪格者(じんかくしゃ)でした。太陽のような温かさに、私はすぐに心を赦しそうになりました。それは私だけではなく、永らくヒトリで生きていた羊にとってもそうでした。

 私以外の存在と話す羊を初めて見ました。

 私以外の存在に羊の月の光が柔らかくなったのを初めて見ました。


 その時に初めて、私は、自分が女であったならと強く思いました。


 身体を赦せば、この羊を永遠に私のものに出来るでしょうか。

 その月に、永遠に私だけを映してくれるでしょうか。

 嗚呼、それは叶いません。


 私は男なのです。羊に抱かれたいのではないのです。

 かの全能神は性別問わず美しいものを愛したと聞きます。

 けれど怪物は神にはなりえず、私は美しくありません。


 夜闇(よやみ)の鳥との出会いは、大変恐ろしいものでした。

 それは私の心に、嫉妬と憎悪をもたらしました。




   枝のない木の夢言葉


 迷子を家に帰すこと。それが己の役割であり誇りなのだと鳥は言いました。

 鳥は、もし私より先に出会っていれば、羊と二匹で暮らしていたのかもしれないと笑いました。

 怪物の寿命はヒトより遥かに永いものでしょう。刹那の瞬きに過ぎない私との思い出など、気心の知れた仲間との記憶に呑まれ、きっとすぐに埋もれてしまうに違いありません。

 ならば私も――そう思う度に、奥歯を強く噛み締めその願いを喉の奥で殺しました。

 羊のために永遠を生きる覚悟など、ヒトですらない私が持って良い筈がありません。


「――お前さん、性別が迷子なんだってな?」


 隠す気のない好奇心に溢れた言葉で我に返ると、羊はどこかへ行っていました。見ると、水が満たされていた筈の容器の底が露わになっていました。

「つーことは、お前さん男なのか? なんで?」

 鳥の言葉は嘴から私に深く突き刺さりました。

「全てに理由があるわけではありません」

「でも男だって思う理由はあるだろ?」

「……あなたは、あなたがあなただと思う理由があるのですか?」

 私の問いに、鳥は目を見開きました。

 共感など得られずとも良いのです。理解し(わかり)合えないということを理解してもらえれば、それで。

 けれど私の望みは理想論であったと、鋭い痛みがそれを教えてくれました。


「『男みたいに生きたかったから自分は男だ』と言い張るのは、自分に嘘を吐いているのとおんなじだぞ。

 お前さんはちゃんと分かってるのか?」


 嗚呼、嗚呼。

 何故、何故こんな仕打ちをするのですか神よ。


 私は――怪物にすら、存在を認めてもらえないのですか?




   ユリの夢言葉


 羊との生活は続きました。

 鳥を拒絶し、家から出ず、季節を感じることなく、あなたと穏やかに死に向かうだけの日々はとても心地好く――永遠に失くしたくないと思わずにはいられない、夢のような日常でした。

 羊との生活は続きました。

 私の身体が不自由になってきても、あなたは私を捨てようとはしませんでした。見捨てることも切り捨てることも出来たのに。

 羊との生活は続きました。

 私が枯れ朽ち果てるまで。


「逝ってしまうのか?」


 嗚呼、また迷子になってしまう。

 私が、迷子にさせてしまう。

 起き上がることも叶わない、今までなに一つ思い通りになってくれなかった身体の右手が持ち上げられました。右手は辛うじて羊の感触を伝えてくれました。

「……はい。逝って、きます……」

 声を絞り出しました。吐息が混ざった声に、羊は月を潤ませました。

 あなたに雨は似合いませんよ――そう告げる時間がないことは分かっています。だからこの言葉は、私があの世まで持って逝きます。

「永遠の生命(いのち)をキミに。だから、」

「言いました、よ……私は、それを望まない、と……」

 私が成人を迎えた頃から、羊は焦ったように私に永遠を与えようとしていました。私が好きだと告げた花を使って実験を繰り返していたことも知っていました。

 それは、多くの人が望んで止まない、人々の永遠の願い。

 それは、私が受け入れることは、永遠にない願い。

「私は、ヒトに、なりたいのです。

 次こそ、ヒトとして、生きていきたいのです」

 どちらにも属さない人で無しではなく。

 どちらにも属する蝙蝠でもなく。

「ヒトとして、あなたを、愛したいのです」

 一人のヒトとして、あなたと生きていたいという夢を抱いて、私は眠りましょう。


「あなたは、どのような夢を、見るのでしょうね――ドリー」


 私の言葉で、止まないと思われた雨が、止みました。瞳に映っている私の顔が辛うじて見えます。

 月面(つきも)で、そばかすの“少年”が笑っているような気がしました。

「次に会ったら、ぜひ、おしえてください。

 やくそく、です、ょ……――」

 力が抜けていきます。瞼が下がってきます。

 遠くで、やっと(いばしょ)を見つけてもらえた獣の慟哭が聞こえました。

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