第2章 品種名:蔡 封
~第2章 品種名:蔡 封~
嚆矢濫觴
瞼を持ち上げると、見慣れない天井が視界に飛び込んだ。素早く昨日のことを思い出す。
嗚呼、そうだ、そうだった。僕は怪物に取引を持ち掛けられ、此処まで来た。
台に置かれた布団から起き上がる。百合の匂いに顔を顰め、開いている窓の外を見遣る。毎日見ていた筈の森は、怪物の力が働いているのか、まるで僕の知らない場所に見えた。
知らない場所は安心する。誰も彼も僕のことを知らないから。
喉の渇きを覚え扉に手を掛けると、鍵が掛かっていない扉は簡単に開いた。
整理整頓
「お前さん、なんでここに来たんだ?」
此処の主の友に訊かれ、自室を整理する手を止める。
この烏の怪物は、迷子を家に帰すことを己の役割と信じて疑っていないようで、僕を家に帰そうとよくこの家に来るようになっていた。
嗚呼、そういえば僕が初めて此処に来て、そろそろ一月か。
「戦が絶えないので、死んでしまう前に安全な場所に行きたいと思っていただけです」
机の掃除を再開する。何も入っていない引き出しを全てしまい終えると、外国語が溢れている本棚に向かった。
烏の怪物も話を続ける。友であるこの家の主が不在の時にしか出来ない話を。
「家族は死んじまったのか?」
「生きていると思いますよ。僕の村自体は戦に巻き込まれていないので」
「なら、なんで一人でこんなところに来たんだ? アイツが無理矢理連れて来たってわけじゃなさそうだし」
「僕は臆病な人間なんです。安全な場所に行ける選択肢を与えられたのに、家族を置いて行けないと言ってその選択を破棄してまで死にたくないんです。
生きられるなら生きたい。それだけですよ」
僕がまだ畑仕事も儘ならない程に幼かった頃、僕の面倒をよく見てくれていた人が呪いで死んだ。誰からも愛されるような人だったから誰からも疎まれる人だった。呪術医は「村から出て一生戻らなければ、その呪いは命を取るには至らない」と診断した。
僕が兄のように慕っていたその人は、母親を一人残して置いて行けないと笑って、見るに堪えない姿になって死んだ。
僕はあんな風に死ぬくらいなら、一人でだって生きると誓った。
「利用していると思っても良いですよ。先に取引を持ち掛けたのは彼方です」
見たこともない字の背表紙を眺めながら布で埃を拭き取る。水を使えば更に綺麗になるのだろう。
「取引……ねぇ……」
烏の怪物が呟く。
なんとなく一冊を手に取り頁を捲る。子供へ向けた本だったようで、階段を駆け上っている男女の挿絵が描かれていた。学があれば読めるだろうか。否、成人にも満たない僕には必要の無いことだ。本を戻す。
「『共に来てほしい』と言われたので、『僕を死なせないなら』と応えました」
本がそれほど詰まっていない本棚は、本を戻された振動でまた一冊、本を吐き出した。
拾い上げると何かが床に落ちた。
「僕は僕の身と引き換えに生命の安全を手に入れました。だから此処にいます」
本に挟まっていたのは、乾燥させ押し潰されていた百合の花だった。
嗚呼、そういえばやりたいことがあったんだ。
吐き出させないよう丁寧に本を本棚に押し込む。自室の整理を切り上げ、食料庫へ向かう。
「ご心配無く。帰りたいと思える家なんて、僕には無い」
在ったとしても、その為に死ねるとは、どうしたって僕には思えない。
毫釐千里
紅葉を窓から眺めながらお茶を啜る。納得がいく出来になるまで数月を要するとは思わなかった。
対面でお茶を口にした羊の怪物は「ほう」と驚いた声をあげた。
「花の香りがここまで強いお茶は初めて飲みました。キミが茶葉を?」
「百合の匂いを移した茶葉で淹れただけですよ」
家で似たような物を作っていたから、作ってみようと思っただけだ。
「このリィリからの贈り物は初めてですね」
羊の怪物は此処に招く人を『リィリ』と呼ぶようだ。名前を教えても、この怪物は頑なに僕の名前を呼ばない。此処で暮らすようになってすぐの頃、そんな怪物との生活を演劇のようだと思ったことを思い出した。
「作り方を教えましょうか?」
「いいえ。キミが作ってくれれば、ワタシは、それで」
自分では淹れたくないのか。怠惰な。嗚呼、そういえば。
「貴方はいつも何処に買い出しに行っているんですか?」
必要な物は必ず此処にあった。無い物も、怪物に伝えればすぐに調達してくれた。
「森から近い村や町を転々と。驚かせてはいけないので、ヒトに見えるよう術を掛けて行っています」
「人間が誰も此処に来ないのも貴方の術ですか?」
「ええ、そうです。ここに辿り着けるのは、キミのように、リィリの証を持った少年だけですよ」
思い出す。薬草を取りに森に入った僕の顔を、羊の怪物が観察するように見つめていたことを。
「お金はどう工面しているんですか?」
「多くの術を使えるので、それで。流れの便利屋のようなものでしょうか」
「それだと噂になってしまうのでは?」
「どこにでもいるヒトに見えつつ記憶に残らないよう、調整していますよ」
怪物の容姿で仙人のようなことが出来るのか。
「ただ怪我や病の治癒は苦手なので、そこまで記憶に残らないようですが」
「嗚呼、納得しました」
水を使いたがらない僕に料理をさせてくれなくなったのはそれが理由か。僕が作った料理で僕だけ腹を下したことがあって、あの時は怪物が大変なことになっていたな。最後にした料理の思い出だ。思えば、怪物の過保護はその時からかもしれない。
「正確には、この家に掛けている術もその類です。リィリの証を持った少年にだけ、この家の周囲を見えるようにしています」
「なので山火事に巻き込まれそうになることもしばしばあります」と続けた言葉に思わず噴き出す。完全無欠の結界等ではなかったことに拍子抜けした。
「そういう時はどうするんですか?」
「家と、近くにあるワタシの花畑を移動させています。この二つは失くしてはいけないものですから」
怪物の声色が変わる。生んですぐ亡くなった赤ん坊のことを語っていた時の祖父のようだった。
「この百合の匂いは術ではないんですか?」
窓の外の季節を問わず室内に漂う匂い。これも怪物の幻術なのかと思っていた。
僕の問いに、怪物は微笑みながら首を横に振った。
「術は使っていますが、幻ではありません。実際に咲いている花を、術を使って永遠に咲くようにしています」
「――」
予想外の返答に息が詰まった。
永遠に咲く花――それは不老不死とどう違うのか。
「それは、」
「植物だから出来ている術です」
怪物は僕の問いを遮り、僕の問いに答えた。微笑みが凍てついているように見えるのは何故だろう。
「花は花でも、特別なこの花だから、成功しています。複雑な生命を持って動いているヒトや動物には不可能でした。
この家の近くにある花畑の花は、根から摘み取らない限り、何度でも花を咲かせ続けます」
「……生きているんですよね? その花は」
花はいつか必ず枯れる。生き物はいつか死ぬのだから。
それなら、枯れない花は生きていると言えるのか。
「生きていると思えば、生きているのと同じですよ」
背筋に冷たいものがはしった。
僕が取引を交わしたのは怪物だったと今更実感した。
梁冀跋扈
木が焼ける匂いで目が覚めた。
寝台から飛び起きて窓を見遣る。そばかすが目立つ顔を映した窓硝子を完全に開け切り、窓の向こう、遠くで煙が上がっているのを見た。原因は分からないが、これから何が起こるのかは容易に想像がつく。
冬は空気が乾燥する。何処かで発生した火種は簡単に大きな火となり、あっという間に燃え広がる。
「――」
数月前に交わした羊の怪物の話を思い出す。この国から発つ時が来たのだと確信した。
「――……」
――良いのか?
この国から発てば、僕がこの地に戻ることは永遠にないだろう。だがこのまま家族を置いて僕だけ生き永らえても良いのだろうか。
自ら家族を捨てようとした癖に、もう戻れないと思った途端、もう一度欲しくなってしまうのは何故なんだ。
「――…………」
村は戦に巻き込まれる。誰も何も言わないが、僕は確信していた。小さな村だ、戦火に呑まれ無事な訳がない。
だから僕は逃げ出した。絶対に生きたいと思っていたから。
変わり果てて人とは思えない死に方をした義兄に縋り泣く姉をもう見たくなかったから。
「――」
そうだ、僕は生きたい。
急いで玄関へ向かう。扉に手を掛けると――伸ばした僕の手を、柔らかく、僕のでない手が、押さえ付けた。
「――っ!」
咄嗟に振り向く。
黄金の瞳が、無感情な金色が、僕を見下ろしていた。
「どこへ行こうとしているのですか? リィリ」
「……、森が、火事になりそうで……」
震えた声で答えると、羊の怪物は静かに手を離した。
身体が震える。背中が冷たい。
この怪物の目はこんなに冷たい色を帯びていたのか。
「ではすぐに発つ準備をしましょう。ワタシはここと花畑の術式を確認してきます。キミはここから出ないでください」
「待って!」
呼び止める。久々に上げた大きな声に自分で驚きながら、なんとか言葉を紡いだ。
「最後に、家族だった人達の姿を見たい。お願い」
「……」
怪物は何か考えているようだった。只管に冷たい金色を見つめながら暫く待っていると、「良いでしょう」と扉を開けた。
外の風が、木々と火の匂いと共に室内に入って来る。
「ありがとう!」
外へ飛び出そうとした時、真冬の川より冷たい声が降った。
「取引内容を、お忘れなく」
「――!」
足が止まりそうになり、慌てて駆け出す。走り去りながら後ろを振り返る。
羊の怪物は、見えなくなるまでずっと、僕を見つめていた。
画竜点睛
僕は生きたいんだ。
煙の勢いが増してきた森の中を駆けながら、怪物の家に行った理由を思い出す。
人とは思えない姿で死にたくなかった。そんな物に縋り付く姉の姿を考えたくなかった。男達に引き剥がされ、何処かへと運ばれる死体に泣き喚きながら手を伸ばす姉の姿を、もう、村の奴らに見せたくなかった。
――「生きていると思えば、生きているのと同じですよ」
死にたくなくて家族を捨てた。人の形を持ったまま死にたかった。
死にたくないから生きていたい訳じゃない。
僕はただ、人間として生きていたいんだ!
押し付けられる『誰か』じゃない。
生きているように見えればそれで良いなんて反吐が出る。
僕を『僕』として見てくれる、「蔡封」と呼んでくれる人のそばで、人として生きていきたい。
「っ、げほ、げほっ」
煙が目に染みる。胸が苦しい。足が縺れる。死ぬかもしれないと思いそうになる。
「げほっ、……っ、……ねぇさん……っ」
帰りたい場所なんて無い。ましてや死んでまで帰りたい場所なんて。
僕にあるのは、行きたい場所。生きて生きて、最期まで生き続けたい場所。
それは――僕で『誰か』を埋めるような、あんな場所じゃない。
Who are you?
森を下ってすぐ川に向かうと、川には避難していた村人達がいた。掛けられる声を無視して見渡す、と――
「――封!?」
振り向く。
少ない荷物を抱えた女性二人と男性少年数人が、僕を見て呆然としていた。
「……っ姉さん!」
駆け寄る。
姉さんは持っていた荷物から手を離すと、走って僕を強く抱き締めた。
「嗚呼、嗚呼! 良かった、夢じゃないのね! 愛しい可愛い私の封っ!」
涙が僕に降り掛かる。
嗚呼、なんて心地良い雨だろう。
この人を泣かせるのはこれを最後にしようと、僕は姉さんを抱き締め返しながら、心の内で密かに誓った。
こうして蔡封は元の生活に戻りました。
ですが大切なことを忘れました。
それでも蔡封は姉や家族と共に、平穏な日常を送ることでしょう。
ユリに執着している羊の人外が、その匂いを辿るまでは。
「死なせない代わりに、永遠に共に」という取引を、思い出すまでは。
NORMAL ENDです。
全エンディングをコンプするまで、物語は続きます。