第4章 品種名:リィリエ
~第4章 品種名:リィリエ~
邂逅
雨が降りしきる森の中をボクは独りで歩き続ける。
――「アンタみたいな出来損ない、生まなきゃ良かった!」
――「気味が悪ぃんだよ、クソガキッ!」
「……ボクだって、生まれたくて生まれたわけじゃなかった」
物心ついた時から違和感はあった。みんなと同じ見た目なのに、考え方は全然違っていて、まるで白い羊の群れに紛れてしまった灰色の羊のような気分だった。他の白羊の家族に拒絶されても、少ない黒羊達に馴染むことが出来なくても、ボクを生み育てた両親ならいつかは分かってくれると信じていた。
でも冷静に考えると、白羊から違う色の羊が生まれて、愛してくれるわけなんかなかった。
空を見上げる。暗く深い森から見える空はちっぽけで、厚い雲が色んなものを遮っていて、光なんか見えもしない。
風が木々を揺らす音に本能的に身構えつつ、静かに死に方を考える。
昔話で語り継がれるほど、森というのは獰猛な獣や不審者が多いから、本当ならボクみたいな幼い子どもは絶対に一人で入れない。狼に騙されて胃袋に収まってしまった赤いずきんの女の子みたいになりたくなくて、ほとんどの子ども達は素直に言いつけを守っていた。中には肝試しで行く子どももいたけど、無事に帰ってきた子はそう多くはなかった。そんな森の奥に置いてけぼりにされたということは、両親がボクに常日頃言ってきた言葉は本心なんだろうと思う。
「……いたいのは、やだな」
せめて丸呑みが良い。でもお腹の中で死ぬのを待つのも痛そうだ。
あてもなく歩き続ける。足を止めたらそこが死に場所になると分かっていた。
「――リィリ?」
馴染みのない語感に足を止めて振り向くと、羊の頭を被った人が呆然とした様子でボクを見つめていた。
――十年にも満たなかったボクの人生は、この異常者に殺されて終わるのか。
その人の方へ歩みを進めると、その人は戸惑った様子でボクを待った。
「はじめまして、ボクをころしてくれる人?」
ボクの言葉に、被り物のはずの羊が黄金の瞳を見開かせた。
開幕
「リィリは今回も、ワタシのことを覚えていないんだね」
嘆かわしそうに羊頭の化け物はそう言うと、ボクにユリの匂いが強いハーブティーを勧めた。飲んでみると、初めてのよく分からない味と共にユリの香りが口の中に広がった。
「このおちゃ、なに?」
「東の国で再会したリィリが教えてくれたものを、ワタシがアレンジしてみたんだ。口に合わなかったかい?」
「よく分かんない」
「そうか。いずれ思い出すから大丈夫だよ」
化け物は嬉しそうに笑い、ボクの顔を見つめる。
――「ワタシにキミが殺せるわけがないじゃないか」
そう言った化け物は昔話のお姫様のようにボクを抱きかかえると、この館へ連れてきた。誰かと勘違いしているのかと思ったけど、化け物の話し振りからすると、生まれ変わりというものを信じているようで、ボクを誰かの生まれ変わりだと思い込んでいるようだった。
生まれ変わりなんて、あるわけないのに。
でも穏やかに死にたいボクは、わざわざそれを言ったりしない。怒った人で無しがする殺し方ほど残虐なものはないに決まってる。痛いのも苦しいのも嫌だ。
「リィリってこの国の人じゃなかったんだよね?」
少しでも話を合わせようと質問すると、思い出そうとしていると思ったのか、化け物は花が咲くように笑った。
「ここより南の方だよ。もう何百、何千年になるだろう。リィリがワタシを置いて行った日から、ワタシはリィリを探して様々な国を渡り歩いているんだ」
嬉しそうだけど、当時のことを思い出したのか、少し寂しそうだった。言葉通り『リィリ』が出て行っただけなら、こんな表情はしないだろう。だから、きっと『リィリ』は――
「……リィリをキミと同じにはしなかったの?」
化け物に愛された者は化け物になる。だから普通の人になれなかったボクは化け物に愛されて生まれてきたのだとみんなから言われたことを思い出した。
「キミが言ったんじゃないか」
胸倉を掴まれる。突然のことで息が止まったけど、あまりにも冷たい黄金に見下ろされて、辛うじて言葉を絞り出す。
「……なんて、言ったの?」
黄金に怒りの炎が宿る。
「キミが、『私は次こそ、ちゃんとヒトになりたい』と。だからワタシは、キミをヒトにするために、ワタシは……キミを……」
炎が揺れる。二つの黄金は、水中から見上げた月のようだった。
「――あい、してた?」
ボクの声が揺れていたのは、何故だろう。
こんな、羊の頭の化け物の表情で胸が苦しくなるのは、どうしてなのだろう。
「愛している……ワタシはキミを……リィリを……」
少し話をしただけ。それでもボクには、この化け物が人の心なんて持ってないと分かる。
人と分かり合えない人で無しが、こんなにも心を乱されている。
「リィリはワタシだけの花なんだ……キミがいなければ、ワタシは生きていたって仕方がない……」
――化け物をここまで執着させる『リィリ』が誰なのか、興味を持ってしまった。
きっとこれが、ボクの死の始まりだった。
烏人
羊のドリーとの生活は穏やかで、ボクを普通の子どもとして扱ってくれた。本や字の読み方を教えてくれた。少しだけ料理も教えてくれた。時々連れて行かれるユリの花畑は内心好きではなかったけど、『リィリ』なら喜ぶと思って嬉しそうに笑ってみせると、花が咲いたように笑った。
村にいた頃より人らしい生活に戸惑いながらも、居心地の悪さは全く感じない。だからここから出る気になれなくて、ドリーが家にいない時も、ずっと家にいた。死ぬまでこの日々が続くなら、ずっとここにいようと思っていた。
雪が降り積もるようになったある日、今までドリーと二人ぼっちだった家に、初めての来客が訪れた。
「コイツが今回の『リィリ』か?」
化け物というのは、どうして見た目でそうだと分かるように出来ているのだろう。
カラスの化け物はボクを不思議そうに見つめると、何故か安堵の表情を浮かべた。
「この『リィリ』は大人しいな」
「ワタシの元から離れて行こうとしない、良い子だよ」
誇らしげに語るドリーを、カラスは感情が読めない表情で見つめた。昨日、ドリーから旧知の友が来ると聞いていたけど、仲良しこよしな大親友というわけではないのかもしれない。それとも、化け物と人は友情の考え方も結構違うとか?
「コクバ、すまないが夕食の支度がまだ終えていないんだ。リィリの相手をしてやっていてくれ」
「ほいほーい」
コクバと呼ばれたカラスはボクの腕を優しく掴むと、ボクの部屋へ連れて行った。
「んで、お前さんは誰だ?」
初めての質問に驚くと、カラスは「あー」と言い辛そうに頭を掻いた。
「ドリーのヤツには内緒にしてほしいんだが、オレは生まれ変わりなんて信じてないんだ。お前さんもそうだと思ってるんだが?」
「……」
夜色の瞳はどこまでも優しいものだった。ボクが素直に頷くと、「だよなぁ」と頭を垂れた。
「どこまでドリーから聞いてる?」
「……『リィリ』はこの国の人じゃない。げんだいの人でもない。あとは、よく分からない。かぼちゃがきらいとか、ゆりがすきとか、そういうことしかいわない」
「お前さんのことは、どこまで訊いてる?」
「……ぜんぜん。ドリーはボクを『リィリ』としか、おもってない」
でもそれで良いと思ってる。死に場所を探していたボクが、こんなところで穏やかに生きているなんて滑稽以外のなにものでもないけど。
「ボクが『リィリ』じゃなくなったら、ころされるんでしょ? やさしくころしてくれるならいいけど、そうじゃなさそうだから」
嘘が暴かれるその時まで、ボクはボクを殺して生きていくしかないんだ。
「ばっかじゃねぇの?」
思いがけない言葉に目を見開く。
カラスの化け物は、悪いことをした子どもを叱る大人のような表情をしていた。
「お前さんが家に帰りたいならオレは連れて行く。迷子を家に帰すのがオレの役目だからな。お前さんがここにいたいなら、オレはなんもしねぇよ。ダチのためだからって、ダチを裏切るのが楽しいわけじゃねぇんだ」
「……なにが、いいたいの?」
黒い腕が伸びる。人の肌の色じゃないその腕は、ボクの頭を優しくなでた。
「オレはお前さんと友達になりてぇんだよ。リィリはリィリ、お前さんはお前さんだからな」
「と、も……?」
「おう。『リィリ』になりたいってんならなにも言わねぇけど、違うだろ?」
黒い腕は羽毛だらけの両手でボクの頬を包んだ。人で無しの手は、ボクに爪を立てたりしなかった。
「自分を殺さなくて良い。自分に嘘は吐くな。お前さんが生きたいと願うなら、オレはどこまでもお前さんを守ってやる」
――「どうして言うことが聞けないの!?」
――「男のくせにそんなもんばっか好みやがって」
――「レニー、ヘン。おんなのことおとこのこが、いっしょになってるみたい」
「っ、ボク、は……レニー――レオナードって、いうんだよ……!」
カラスの姿が滲む。目から熱いものが零れ落ちて、でも止められない。
「でも、やだ、こんななまえ……っ!」
だって、『レオナード』は男の子の名前だ。ボクは男の子じゃない。でも――女の子でもない。
「ボクは、だれなの……っ? だれになればいいのっ?」
それを教えてくれると思っていた両親は、男の身体なのに男になれなくて、でも女でもないボクを愛してくれなかった。森の奥に置き去りにして、獣の餌として、ボクを人で無しとして捨てた。
誰もボクの言うことを信じてくれなかった。男として扱われることに違和感があるということも、女として扱ってほしいわけでもないということも。
「やだよ、もうっ! それならボクは、ボクなんて……っ!」
――生まれなければ良かった。誰にも愛されないなら、生きていたって仕方がない。
「――バカだなぁ」
温かい温度に包まれる。滲んだ世界は、優しい夜の色に染まる。
「お前さんはお前さんだろ。名前がないなら探せば良い。自分で付けちまえ。誰かになれるわけないだろ。
お前さんは、お前さんでしかないんだから」
そうだ。ボクは、本当は、ボクはずっと――
「ごめん、なさぃ……っ……いいこに、うまれなくて、ごめんなさいぃ……っ!」
――「そのままで良いよ」って、誰かに言ってもらいたかっただけなんだ。
「――なーるほどなぁ」
ベッドに並んで座ってボクの話を聞いていたコクバは悲しそうに頷いた。
「そういう少数派の変わり者は生き辛いよなぁ。オレ達の界隈でも『変わり者は石を投げられても仕方ない』って考え方のヤツは多いからな。徒党を組みたがるヒトなら尚更だろうなぁ」
「……キミは、いろんな国にいってるんだよね? ボクみたいな人は、いなかったの?」
「いたよ。何千の子どもと会って、一人だけ。お前さんとはちょっち違ったけどな」
そんなに少ないのかと項垂れると、コクバは優しくボクの頭をなでた。
「隠してるヤツだって多い。『自分は違う。普通だ』と思い込んでるヤツだっているだろうよ。オレが会ったアイツが、変わってただけさ」
「……ボクと、どうちがったの?」
手が止まる。顔を上げると、コクバはどこかを見つめていた。
「アイツは……男だと言っていた。その時のオレは『男の側に立ちたかっただけ』『下に見られるのが嫌だっただけ』としか思えなかった。だからアイツはオレを嫌ってたんだろうな」
後悔しているような言い方だった。今でも会えるなら会いたいのだろう――会える“なら”。
「その人は、どういう人だったの?」
「長くは生きた。当時の寿命よりはずっと長かっただろうよ。それでも、“オレ達”と比べたら刹那だ」
「……」
コクバが誰のことを言っているのか、分かった。
「……その人は、生まれかわりなんて、しんじてたの?」
「……信じていたよ。アイツの国では当たり前の考え方だった。オレの国でも信じられていたけどな」
「長く生きてると、そんなことねぇなって思うわけよ」と続けたコクバは、どこか寂しそうだった。
「……その人は、どうしてドリーとくらしてたの?」
「他に誰もいなかったからさ。オレは帰りたがってる子どもをその場所に帰す。だがアイツには帰りたい場所も、アイツに帰ってきてほしいと望む人もいなかった。アイツに必要とされたのは、アイツを必要としたドリーだけだった」
「その人は……ドリーを、あいしてた?」
視線が下りる。夜色がボクを映す。
そばかすと、左目の泣きボクロ。なんにも変わらない、ただ夜色のボクが、ボクを見つめる。
「――どうだったんだろうな」
静かに降った声は、濡れているようだった。
友達
「今日はコクバとねたい」
三人での夕食後、ボクにそう言われたドリーは、初めての表情を見せた。
一気に変わった雰囲気に、空気が緊張で張り詰める。この家に来て初めて感じるドリーの鋭い視線に息が止まった。
「……っ、」
「止やめろ。コイツが怯えてる」
ドリーの視線を夜色の羽毛で遮られる。安堵の息を漏らすと、ドリーが心底嫌そうな声を出した。
「キミはコクバを嫌っていた。なのに何故、ここのところのキミはコクバを好く?」
「……」
知らない、そんなの。だってボクは――リィリじゃないんだから。
ボクが唇を結ぶと、コクバは呆れたように言った。
「リィリの時のことを思い出せてないなら、オレを嫌う理由だってないだろ。リィリを思い出せない『リィリ』が続いてるだけだって」
「だが、」
「それとも――オレがアンタから『リィリ』を奪うとでも思ってんのか?」
――「迷子を家に帰すのがオレの役目だからな」
――「ダチのためだからって、ダチを裏切るのが楽しいわけじゃねぇんだ」
ボクが「帰りたい」と望めば、この人でない生き物はドリーからボクを奪ってくれるのだろう。ボクより前の『リィリ』も、そうやって帰った子どもがいたはずだ。化け物に攫われた子どもに、わざわざ帰るための道しるべを教えてくれるのだから。
友達のために友達を裏切る、コクバの矛盾。それはなんだか――とても悲しく、切なく感じた。
「……ワタシはキミを信じているよ。たとえリィリがキミを嫌っていたとしても」
「だろうよ。オレだってドリーの親友でいたいんだよ」
コクバの言葉が、静かにボクの胸に突き刺さった。
ボクにとっては広いベッドでも、人でないモノと並んで横になると狭く感じるのが不思議で、困って目の前にあるカラスの後頭部を見た。思えば誰かと眠るのはこれが初めてだ。今日は初めてのことが続く日だと思った。
「……おきてる?」
「お?」
小さな声で、コクバにだけ届くように話す。ドリーに聞かれたら後悔する会話だと、分かっていた。
「ボク、『リィリ』になるよ」
「……そうか」
「でも、リィリ本人にはなれない。だってボクは……おとこになりたいなんて、おもえない」
「……ああ」
「だから……リィリじゃない『リィリ』に、なる」
ボクがドリーの『リィリ』になれば、二人は親友でいられるんでしょ?
「おねがい、コクバ――」
どうか、この優しい夜色のキミが、もう友達を裏切らずにすみますように。
「ボクと――リィリエと、ともだちになって」
手紙
ボクと友達になってくれた日から、コクバはドリーがいない時を見計らって遊びに来てくれるようになった。
「今日はなにを知りたいんだ?」
「きょうはね、コクバの国のことばをおしえてほしいんだ」
ボクに出来るなんて限られている。ドリーが支えにしている『リィリ』にはなれても、最も愛しているリィリにはなれない。老いないドリーやコクバのように永遠を生きられるわけもなく、生きたいとも思えない。
そんな、ちっぽけで弱いボクに出来ることは、たった一つ。
「コクバの国のことばで、てがみをかきたいんだ。いつかの『リィリ』は、コクバの国の子になるから」
『リィリ』となることを誓った翌日、嫉妬に駆られたドリーはボクを愛した。
気持ち悪くておぞましくて、この羊の化け物はどこまでも人の心が無いのだと思い知った。「『リィリ』はこんなことしたくない」と叫んでも聞く耳を持たず、ボクが気を失っても止まらず、舌を噛もうとしても止められ、化け物は自分が安心するまで『リィリ』を愛し続けた。
そのことはコクバには伝えていない。でもきっと、伝わってしまっているのだと思う。
次に目を覚ました時に、コクバが泣きそうな表情でボクの頬をなでてくれていたから。
そしてボクは羊の化け物を、心の底から愛することに決めた。
「オレの国のって、なんでそんなこと分かるんだ?」
不思議そうに訊くコクバに、ボクはわらう。
机から紙とペン、それから細長い小瓶を取り出すと、空を仰ぎ見た。
昔話はどこまで本当のことか分からない。でも逆に言うならば、全てが嘘であるとも言い切れない。初めてこの家に来た時、あの羊は自分を不老不死だとは言わなかった。
獣を殺すなら、火炙りか水責めか銃殺で。
人と分かり合う心が無い化け物を殺すなら、特別な想いが込められた、最高の贈り物で。
それが昔から伝わるお話の定石レーゲル。
「ドリーはボクをころさない。だってボクは『リィリ』だから。だからボクが死ぬまで、じかんはたくさんのこってる。そのあいだにじゅんびできることは、いっぱいある」
最高の贈り物の作り方を調べることも、リィリの国の言葉を学ぶことも。
ドリーにリィリエボクの『リィリ』を染み込ませて、リィリエボクの言うことを信じさせることも。
「コクバの国の子にすれば、ドリーはキミをたよらないといけなくなる。『リィリ』なんてもういない人より、キミの方がだいじだって、きっと思ってもらえるようになるよ」
村で一番長く生きた人は50歳だった。つまりボクにはまだ40年も準備期間がある。
振り向く。大好きな夜色を覗き込むと、その水面は揺れていた。
初めてボクを見つけた時の、森の奥で出会った黄金色を思い出す。
大切にしたかったのに、大切にしてくれなかった。
キミを見ていたかったのに、ボクを見てくれなかった。
――ドリーならボクを愛してくれると、思っていたかったのに。
“それ”を伝えてくれたのは羊の化け物じゃなかった。
――「お前さんはお前さんだろ。名前がないなら探せば良い。自分で付けちまえ。誰かになれるわけないだろ。
お前さんは、お前さんでしかないんだから」
「いつか、キミの国の子が、『リィリ』になるよ」
揺れる夜色に静かに語りかける。
夜色のボクは、『リィリ』を愛したドリーと同じ笑みを浮かべていた。
「ボクがそう“する”から、ね」
「リィリエ……」
コクバの掠れた声が部屋の空気を少しだけ震わせた。手を伸ばすと、怯えたように羽毛が小さく震えた。
「ボクはキミたちみたいに、ながくは生きられない」
背伸びして頬に触れる。傷ついた子どものような表情をしているカラスの心に、ボクはどれくらいいられるだろう。
「そんなボクにできるのは、一つだけ――」
ふとした時に思い出してほしい。それを願うことは、我が儘なことなのだろうか。
「――ドリーを、なくしてあげたいんだ」
永遠に一輪の花に囚われ生き続けることは、きっととても苦しい。
苦しくないのなら、それをも幸福だと言うのなら――リィリじゃない人に『リィリ』を押しつけたりなんて、しない。
でもそれは言い訳だ。ボクの本当の願いは、もうドリーのためのものじゃない。
「きょうりょくして、ボクの『友達』」
願わくば――消えることのない永遠の傷痕を、この夜色に。
標本
あれから何度、森に降り積もっていく雪を見たことだろう。
身長が伸びた。母国語以外の言葉も読めるようになった。料理も普通に出来るようになった。ボクが生まれた村は黒色の病気でみんな死に絶え焼却処分されたとドリーから聞いた。
変わらないのは、ボクの声。
そして、ボクの決意だけだった。
「――それじゃ、これをいつかの『リィリ』にたくしてね」
数年掛けてやっと書き上げられた手紙をコクバに渡す。
コクバはそれを受け取ると、長く深い息を吐いた。
「……もう、戻れないのか?」
掠れた声には疲労が多分に混じっていた。
申し訳ないとは思っている。一匹の親友と一人の友達に挟まれて、どちらかに傾けば壊れる均衡の狭間にいるのだから。
「もどらない。もどる場所だってない」
でも、ボクにはもう、ここしかなかったから。
キミを傷つけることでしか生きられなくなった自分に苦笑する。
ボクは最低だ。キミに永遠に覚えていてほしいのに、決定的に傷つけることは言いたくないなんて。
ねぇ――「ボクはキミとずっといっしょに生きていたい」と。
そう伝えられたら、ボクはどれほど幸せだろう。
でもそれは、キミの幸せを一つ奪ってしまうことになる。
親友に殺されるなんて悪夢も、親友を殺されるなんて悪夢も。
夢は夢のまま、叶わない方が良い。
「……出来ちゃったよ」
小瓶を机の上に置く。
「――植物標本か?」
コクバの言葉に頷く。
爪先で優しく叩くと、綺麗なガラスの音が静かに部屋に響き渡った。
「これが、ボクがドリーにおくれる、たった一つの最高のギフト」
小瓶の中、特別な液体に漬け込まれたユリの花は、花言葉を示すように白く透き通っている。
「ボクが良い子だったら、解放してあげられたのにね」
一緒に暮らして、同じ家で生きて。
何度も「この羊を赦せたら」と思った。
悪い性格じゃない。基本的にはボクが嫌がることはしない。ボクをわざと怒らせることなんて絶対にしない。悲しませることだって。赦すことさえ出来れば永遠に生きても良いとすら思える。
でも良い子にはなれなかった。
どうしても、一つだけ、赦せなかった。
本当に、心の底からリィリのことを想っているなら――ドリーの『愛し合う』行為は、本当にリィリのためのものなの?
目の前の存在を無視して、勝手に過去を重ねて。
自分の考えが、信念が、確固たるものと疑いすらしない。
未来はなく、現在も過去に囚われていて、そのことに気付きもしない。
人の心が分からず、人の心を分かろうとしない――人の心を見無みない、化け物の迷子羊。
「コクバ」
声を掛ける。ボクの名を呼ぶ声が震えているのは、きっとボクの思い込みなのだろう。
「初めて会った日、おぼえてる?」
雪が降り積もった日だった。村ではなにかを祝福していた日だった。
「その日以外、もう、ボクには会いに来ないで」
息を呑んだのが分かった。
「このおくりものを、いつかの『リィリ』に――そのためだけに、リィリエボクは生きてきたから」
解放なんてしてあげない。ボクをリィリだと思い込んだまま『リィリ』の死を見届ければ良い。次の『リィリ』を見つけるのは、きっとまた長い時間を要する。
愛していた『リィリ』を、何十年何百年も掛けて探し続ければいい。
その時間が、ボクからキミへの贈り物。
長い長い時を、苦痛に悶えながら過ごせば良い。
それが――ボクのキミへの、愛し方。
「どっちが化け物か分かんないね、これじゃ。
きれいに言ってるけど、結局ボクはここにしかいられないから、ここでしか生きられないから、ボクでコレをおくれないだけなんだ」
自嘲する。初めてここに来た時よりずっと、色々な表情が出せるようになったとしみじみ思った。
「ボクの最期、ぶじにおえるように祈っていてね」
でもこれで良いよ。どうせ森の奥で獣の餌になるはずだったんだ。
白羊にも黒羊にもなれない、何色にもなれない灰色羊は、群れの中では生きられない。
「ボクの友達になってくれて、ありがとう。さようなら」
とっておきの贈り物giftを渡す。
カラスは涙を零しながら、ボクを見つめた。
低い声色で、最期まで優しかった夜色に、告げる。
「また“オレ”に会いに来てくれよ。ドリーと待ってるからさ」
閉幕
「ドリーへ最高の贈り物を用意したんだ」
愛し合っている夜、そう告げると、ドリーは黄金の瞳をまん丸に見開いた。
「『次』、ちゃんと渡すからさ」
悪戯が成功した気持ちで笑い掛けると、ドリーは悲しそうに、でも少しだけ嬉しそうに、笑った。
「次を約束してくれたのは、最初の時以来だ」
「そうだったか? 悪いな、まだ思い出せなくて」
「いや、いいんだ。キミが思い出そうとしてくれることが嬉しい」
「やっぱり優しいな、ドリーは」
「そう言ってくれるのも、最初の時以来だ」
「ひどいな、今までの『リィリオレ』は」
「思い出そうとしてくれないリィリもいたが、ワタシから逃げ出すリィリも多かった。
だから愛し合って“あげた”。
自ら命を絶とうとするリィリは、舌を噛まぬよう舌を抜いてあげたり、手足を切り落としてあげたり、それは手が掛かった」
「……でも、そんなに拒絶されても、『リィリオレ』を愛したんだ?」
「ああ」
過去しか映さない瞳が虚空を見上げる。
「『ドリー』はリィリに愛されなければ、生きている意味がない」
胸糞悪くなってくる化け物の言葉に、「ここから逃げ出したい」とボクが叫ぶ。「死ぬまでこんなもののそばにいたくない」と。
そして友達に「助けて」と叫びそうになったボクを――ひっそりと、殺した。
「オレはドリーを愛してる」
そう言った“オレ”に、ドリーは花が咲いたように笑った。
「ワタシもだよ、リィリ。愛している。これまでもこれからも、ワタシはキミだけを、ずっと」
抱き締められる。
ユリの匂いに包まれ、ボクの死体は誰にも見つかることなく消えていく。ボクの死を分かってくれるのは、あの夜の色をした友達だけだろう。
「――……とっておきの贈り物なんだ。『次』はちゃんと渡すから、最後まで大切に味わってほしい」
ドリーが嬉しそうに頷く。
最期に流れ落ちたボクの涙は、誰に気付かれることもなく、どこかへ消え去った。
ドリー夢エンド
『愛し合い』が終わると、ドリーは優しくオレの頭をなでた。
「ありがとう。これからも、これまでも、ワタシはキミだけを愛するよ――リィリエ」
「――!」
初めて、ドリーから名を呼ばれた。
消え去ったはずの心臓が高鳴る。感覚を失っていた手足に体温が戻ってくる。
そしてボクは、思い出す。
オレボクを見ていた迷子羊の目が、常に寂しそうだったことを。
「こんな残酷な選択をさせて悪かった。この言葉をせめてもの餞はなむけに、安らかに眠ってほしい」
「ぁ――」
言葉の意味を理解するより早く、ドリーに強く抱き締められた。
「ワタシのリィリオン。
どうか『次』も、ワタシだけを選んでおくれ」
「――っ、」
声が、出ない。胸が、喉が、心臓が、焼け付くように痛い。嫌だ、助けて、こんな。
いつから? さいしょ、から?
心の底から愛そうと決めた日から?
オレとして生きようと、ボクを殺そうと決めた日から?
この羊はボクへの同情だけで、永遠の愛を囁こうと決めていたの?
ボクを苦しめながら永遠に眠らせるために?
――自分に都合が良い『リィリ』を用意するためだけに?
「――っ、っ――っ、」
ユリの匂いが、ボクの意識を塗り潰していく。ボクがオレに、違う、他の誰でもないナニカに、塗り替えられていく。
「――っ――――、」
いやだ、まって、そんな。
生きながらに内臓を食われていくような感覚に、ただただ絶望が広がる。
「っ、――っ、――――っ、」
ボクがほしかったのは、こんな、同情の言葉なんかじゃない。
それを敢えて口にしたのは、毒リンゴを詰まらせて眠っていた姫を起こす方法と、同じ――衝撃を与えたかった、ただそれだけ。
揺さぶって、強引に、無理矢理、起こしたかっただけ。
身体が朽ちるまで眠ろうと思っていたボクの心を、ボクが欲しかった言葉で。
ボクの心を、生きながらに、完璧に、殺すために。
「――っ――――っ、――っ、」
ボクが起きるならそれで良かった。なんでも良かった。
ボクの心を深く抉る言葉なら、なんだって良かったんだ。
「っ、っ――――、――――っ、――――、」
むねがいたい。こころがいたい。いたい。ここにいたい。いきたい。しにたくない。
――「コイツが今回の『リィリ』か?」
初めてボクに向けられたキミの言葉を思い出す。
キミは「コイツがリィリか」とは言わなかったと、今更、気付いた。
「――、――――、――、――――、」
たすけて、やだ、やだよぉっ!
ボク、きえたくな
さあ、リィリエの物語はここで終わりです。
あなたは一輪のユリの花。
もうどこへも行けません。
枯れ朽ち果てるまで、ずっと、羊の夢は続きます。
TRUE ENDです。
全エンディングをコンプするまで、物語は続きます。