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 翌日、私は金森くんの自宅へ向かっていた。土曜の朝、人通りの少ない住宅街を自転車で走る。送られてきた位置情報をもとに向かっていると、古ぼけたアパートが見えてきた。

 

「ええと……ここ?」


 白い外壁は薄汚れ、取り付けられているパイプが一本外れかけている。

 教えられた通り、一〇三号室のインターフォンのボタンを押しても何も鳴る様子がない。仕方なく本人に「着いたよ」とメッセージを送った。

 すぐに扉が開いて、寝癖がついたままの金森くんが顔を出す。

 

「インターフォン壊れてんだよね」


 ふあ、とあくびをしながら迎え入れてくれた。彼はかろうじてパーカーに着替えてはいるものの、もう十時だというのに明らかに寝起きだ。「まだ寝てたの?」と聞くと「昼寝」と背を向けたまま返される。


「出かける用意するから座ってて」


 座っててと言われても、と周りを見渡す。狭いワンルームで、椅子やクッションなんて気の利いたものはない。床に直接腰を下ろしたがどうも居心地が悪く、鞄になにやら物を詰めている金森くんを眺めた。

 

「インターフォン、直さないの?」

「必要性を感じないんだよね」

「今みたいに誰か来たら困るでしょ」

「来ないよ。この部屋に来たの香坂が最初」


 どうでもよさそうに彼が答える。

 親とか友達とか来ないのか、とかそもそもなんで一人暮らしなのか、とか聞いてみたいことは色々あったけれど、踏み込めるほどの関係じゃないよな、と蓋をする。

 ごそこそと金森くんが冷蔵庫を漁っている。

 

「何か飲む?」

「ううん、私は大丈夫だよ。お構いなく」

「オレンジジュースと麦茶、どっち?」

「どっちでも……ていうか別に要らないよ?」

「どっち?」

 

 要らないって言ったじゃん、と顔が引き攣るが、私の意見は二択以外認められていないらしい。有無を言わせず金森くんがコップを二つ出している。

 

「じゃあ麦茶でお願いします」

「はいよ」


 麦茶の入った容器からグラスに注ぎ、「ん」と手渡してくれる。多少強引だったが、気を遣ってくれたことはありがたい。礼を言って受け取った。

 麦茶で喉を潤すと、一気に涼しさを感じる。


「香坂、ちゃんと自転車で来た?」

「うん、言われた通り」

「じゃあ行こうか」


 用意が終わったらしい。腰を上げる彼に尻込みをする。

 

「……本当に行くの? 愛梨の家に」

「十年間の桜井の様子知るのに家族の話って必須だと思うけど? 遺書の話も聞きたいし」

「それは、わかってるんだけど」


 呆れたように金森くんに言われても、私は歯にものが挟まったような言い方をした。


「なに、嫌なの?」


 ――私が嫌なんじゃなくて。

 答えづらい問いに、えへへ、と曖昧に微笑んでごまかすと、はあ、とため息を吐かれる。彼は冷たい声色で、俺さあ、と言い放つ。

 

「察してもらおうとする人間大っ嫌いなんだよね。依頼やめていい?」

「……今すぐ行きましょう」


 私の中の葛藤は奥底に押し込んで、ひとまず見ないことにした。今の優先順位第一位は『愛梨がなぜ飛び降りたかを探ること』だ。そのためには確かに愛梨の家に行くのが一番だし、私ではきっと踏み込めないだろうから、ここで金森くんに降りられてしまっては困るのだ。その他は些末なことである。

 観念して駐輪場へと降りると、

 

「ん、漕いで」

「私が?」

「依頼主でしょ」


 そう言ってさっさと荷台に跨ってしまった。

 依頼主だから漕げなんてどう考えても理屈に合ってない。お客は神様なんて言うつもりはないが、体力差も考慮してほしかった。自慢じゃないが私の体育の成績は万年3だ。『金森くんが漕いでよって言うぞ』と息巻いて私は口を開く。


「金森くん、自転車持ってないの?」


 なんでだ私!と心の中で頭を抱えた。

 

「持ってないから香坂に持って来させたんだけど?」


 それどころか馬鹿にしたように返される。なんて暴君な言い草だろうか。お前のものは俺のもの、という有名なガキ大将のフレーズが頭をよぎった。

 いいから早く漕いで、と催促されて渋々自転車にまたがった。「これは敗北じゃない。戦略的撤退である」と自分に言い聞かせて、ぐっとペダルを踏み込む。二人分の重さを乗せて、自転車は走り出した。


 ◇


「帰って!」

 

 予想できていたけれど、娘が――それも確執のある娘が自殺未遂をしたとなれば、母親の憔悴ぶりは相当ひどいものだった。

 玄関から顔を出した愛梨の母は、髪の毛が乱れ、険しい表情でこちらを見据えた。

 

「大変な時に申し訳ありません。僕たち、愛梨さんとは仲良くさせていただいておりまして、いてもたってもいられず。僕は金森、こちらは香坂と申します」


 好青年のように爽やかな笑顔で挨拶をする金森くんを愛梨の母は胡乱げに見た。続けて、私を見て大きく目を見開く。

 

「……っ! 帰ってちょうだい」


 ああ、やっぱり。


 私は自嘲して足元を見る。下を向いていても、愛梨の母の動きはよくわかった。勢いよくドアを閉めて、私達を締め出すつもりのようだ。

 つもりの、ようだった。

 ドアの隙間に、金森くんが素早く足を差し込んで阻止した。愛梨の母が、あっと驚いて動きが止まる。

 

「少しでも愛梨さんの様子が知りたいんです。お話を伺えればすぐにでも出ていくのですが……」


 なるほど、こうやって自分の要求を通すのか、と私は感心した。金森くんは挟まれた足を主張するかのようにとんとん、と鳴らした。

 愛梨の母が、渋々扉を開けた。


「入って」


 玄関で靴を脱いで、整然と並べられた靴箱に並べた。家の中は薄暗かった。人の生活する音のない特有の静けさは、長く触れていると背筋が縮んでしまいそうだった。

 居間に通されて、向かい合わせに座る。

 

「愛梨なら、意識が戻らないままよ」

「何と言えばいいのか……。お母さまも大変だと思います。何かお手伝いできることがあれば力になりますよ」

「助けはいらないわ。ただでさえ、娘をいびって殺したなんて言われているのに、世話も他人にさせていたら周りになんて言われるかわからないもの」

「そんなことを言う人間がいるんですか?」


 金森くんは大袈裟に驚いてみせた。大袈裟に、と思えるのは私が普段の彼の様子を知っているからだろう。普段の彼を知らなければ、純粋な驚きと『そんなことを言うなんて』という義憤に駆られた好青年の言葉に聞こえたはずだ。

 愛梨の母は「いるのよ」と吐き捨てるように言った。そして、箍が外れたように髪を掻きむしる。

 

「私だって、好きでいじめてたんじゃないわよ。ああ、あの子が悪いのよ。あの子が本当のことを言わない嘘つきだから……!」

「大変だったんですね……」


 心配そうに、金森くんが彼女の手を取る。

 

「手にあかぎれが見えます。もう春なのに、倹約のために冷水で家事をされているのでしょうか。ああそういえば、入口の水も水量がしぼられていました。家事をお一人でされているように見えますが、玄関の靴は全員分きれいに磨かれていました。桜井愛梨のものと思われる、使われていないローファーまで全て。まめで、優しい方なんだと感じました」


 スラスラと出てくる言葉は、どこまでが本心なのだろう。

 

「嘘つきって、なんのことでしょうか」

 

 金森くんの優しい声を聞いて、全部嘘なんだとわかる。甘い言葉で、疲れ果てた女の心に取り入ろうとしている。

 

「他人だからこそ、楽になることもあります」

 

 悪魔の囁きに、愛梨の母親は陥落した。ぽつり、ぽつりと十年前の出来事を話し出す。


「十年前、愛梨がいなくなったことがあったの」

「十年前って、小学ニ年生ですよね」

「そう、行方を絶ったのはあなたたちの通う桜稜高校の麓の桜並木。でも、三日後愛梨が発見されたのはそこから数十キロ離れた場所だった。迷った子どもが歩いてたどり着く距離じゃなかったのよ」

「誘拐だったということですか?」

「さあね」

「さあねって……」


 困惑したように金森くんは言う。ふう、と愛梨母は疲れたように息を吐く。

 

「あの子、家出って言い張ったの。小学二年生が家出ですって、そんなわけないでしょう。だから嘘つきだって言うのよ。最初は同情してくれてた近所の人もしだいにあの家はおかしいとか言い始めて……。あの子のせいで私の人生めちゃくちゃよ」


 次第に彼女の声がどす黒く染まっていく。

 

「私には、あの子のことなにもわからないの。遺書にはよくわからないことが書いてあるし」


 そうだ、遺書があったんだ。何が書いてあったか知りたい、と私は拳を握る。愛梨母の前で初めて口を開いた。

 

「あの、遺書、見せてもらえませんか?」

「見てどうするの」


 冷たい声で問われる。

 

「何が書いてあったかだけでも知りたいんです」

「『あんな約束、するんじゃなかった』って。それだけ。意味わかんないわよ」


 私は息を呑む。愛梨母の語気が強まり、苛立つように机を揺らした。

 落ち着かせるように、金森くんが穏やかな声で質問する。


「愛梨さんの部屋を見せてもらえませんか?」

「……なんのために?」

「体育祭が近くて、愛梨さんの分の提出物がまだなんです。クラス委員に持ってくるよう頼まれてまして」


 そんなもの出す必要はない、と言われるかと思ったが、意外にも愛梨の母は納得したようだった。


「あの子がこれ以上迷惑かけるのは避けたいのよ」


 通された部屋は整っている……というよりも、まるでここで生活していた人なんていないように無機質だった。

 机とベッドがぽつんとあるだけ。かろうじて愛梨が暮らしていたとわかるのは、机上に置かれた教科書やファイル類のみだ。『提出するファイルを探す』という名目のため、金森くんと二人で机の上を漁る。


 私は何を探せばいいのか途方に暮れてしまって、惰性で手を動かした。黄色のクリアファイルを開くと、体育祭、という文字が目に入った。四月下旬に体育祭をするというただのお知らせだ。何気なく裏を捲ると、二本線と丸い印の落書きがあった。

 なんだろう、これ。首を捻っていると、「まだ見つからないの?」と愛梨の母の声が飛んでくる。私はその声に急かされるように、黄色いファイルを鞄にしまった。

 しばらくして、愛梨の母の我慢も限界が来たようだった。


「いつまでいるつもり? 見つからないなら帰ってちょうだい」

「ええ、わかりました」


 意外にもあっさりと、金森くんは受け入れた。


「でも、最後に教えてくれませんか」


 そう言って、彼は愛梨母の視線の先に立った。まっすぐと、彼女の目を見つめる。


「なんで桜井愛梨は飛び降りたんですか?」

 

 それは核心に触れる質問だった。教師の間では、飛び降りた原因は家庭問題だと専らの噂らしい。それに、愛梨の母親自身も確執があると認めていた。

 飛び降りた原因かもしれない当人にその質問をぶつけるのは、あまりに容赦がなかった。

 

「あんたたちも、私のせいだって言いたいのね」


 はあ、と彼女はため息を吐く。

 

「あの子のことはわからないけど――親子の確執が原因だって言うなら、愛梨はとっくに飛び降りてるわね」


 『だから違う、私が原因ではない』と最低の理由を述べる彼女に言葉も出なかった。金森くんは穏やかな顔を崩さず、名刺を差し出す。

 

「何かわかれば教えていただけますか? これ、僕の連絡先です」


 一瞥して、愛梨の母は受け取らなかった。

 

「何かって言われても、私には、あの子のことは何もわかんないわよ。十年前に、全部置いてきちゃったの」


 自嘲するようにそう言って、視線を金森くんから離した。視線を浮かせて、隣へと移した。

 

「まあ、当時のことはあなたの隣の子の方が詳しいかもね?」


 彼女は、金森くんの隣に立つ私を、ひたと見つめる。

 

「だって栞里ちゃん、愛梨がいなくなるまで一緒にいたものね」


 ああ。

 やっぱり私は、来るべきじゃなかった。

 愛梨の母親の瞳は真っ黒で、普通なら後ずさってしまいたくなるような迫力があった。でも、私は彼女から視線を逸らさなかった。


『なに、嫌なの?』


 愛梨の家に行くのを躊躇った私に、金森くんはそう聞いた。私が嫌なんじゃなくて、愛梨の母親は私のことが憎くて仕方ないのだ。

 

 ――十年前、愛梨がいなくなった日、最後まで彼女と一緒にいたのは私なのだから。

 

 愛梨が消えたとわかった後、『お前のせいだ』と口に出しても言われたし、ぞっとするほど憎しみをたたえた目で何度も見られた。


 ねえ、と愛梨の母親がうっそりと笑う。


「あの子があんな嘘をついてから、ずっと家族が元通りにならないの。栞里ちゃん、何か知らない?」


 『お前のせいだ』と記憶の中の声が追ってくる。


「ごめんなさい」


 私は決して視線を逸らさずに、ただ謝ることしか出来なかった。


 ◇

 

「なんで黙ってたんだ、十年前のこと」

「ごめん」


 愛梨の家から出て、自転車を押す。さすがに、男の子を乗せて走る元気はなかった。

 金森くんから問われるも、その声色になじるような響きはなかった。余計な感情はなく、単に依頼内容に関係しているから聞いていると信じられて、それが妙に心を軽くした。

 アスファルトの上を歩みながら、私は口を開く。


「十年前、私と愛梨が秘密基地って呼んでる場所があった」


 十年ぶりに人に話す。一度口に出してしまえば、誰にも話せなかった時間を埋めるように、あとからあとから言葉が出てくる。

 

「いつも遊んでた桜稜高校の麓の桜並木のことをそう呼んでた。でも、あの日私は別の場所にも行きたくなったの。彼女を引っ張る役割は私だったから、私が先頭になって奥の方を探検してた」

 

『もう、しおりちゃんつかれたよお』

『あいりちゃんったら、弱虫ね。わたしが先に行っていい場所見つけてくるから!』

『うん、わかった。見つけたら、迎えに来てね』


 そう言って笑う彼女の手を、離してしまった。


 私は、手を胸の前でぎゅっと握った。

 あの日に戻れるなら、つないだ手を離したりなんて、絶対にしないのに。

 

「迎えに行ったら、彼女はいなくなってた」


『……あいりちゃん、どこ?』

 いなくなった親友を探して、いないとわかるとすぐに周りに大人がいないか探した。泣きながら親友の名前を呼んだ。

 

「愛梨が真相を言わなかったからわからないけれど、あの頃色んな人が噂してた。きっと変な大人に攫われて戻ってこないんだって。私が愛梨を一人にしなければ、私の我儘で探検なんてしなければよかった」

 

 だから私は、自分のやりたいことを主張するのをやめた。もう自分の行動を後悔したくないのだ。これは、戦略的撤退である。もう二度と、間違いを犯さないための。

 

「私が攫われたら良かったのにね。どっかの幼女好きの変態が見つけたのが、私なら、愛梨は心の傷を負うこともなく、愛梨の家族も今も仲良しだったかもね。あの事件が起きるまで、愛梨のお母さん、本当に優しい人だったんだよ」


『栞里ちゃん、いらっしゃい』

 優しい声で私に声をかけてくれていた。それが一日にして変わってしまった。


『お前のせいだ』

 十年前に聞いた愛梨の母の言葉がこびりついて離れない。


「『あんな約束、するんじゃなかった』って遺書があったって、愛梨のお母さん言ってたね。私、愛梨と約束してたんだ。一緒の高校に行こう、って」


 愛梨の母親から約束という単語が出た時、息を呑んだ。愛梨が、約束を叶えにきた私を見て、どう思っているのかずっと不安だった。その答えが、今日分かった。


「それってつまり、あの約束をしたことを後悔しているってことでしょう?」


 愛梨は再会した私のことがさぞ憎らしかったことだろう。

 愛梨は私を許してはいないのだ、なんて当たり前なことを考える。

 

「だから私は、愛梨がこの十年で何を考えて、どんな気持ちで屋上から飛び降りたか、知らないといけないの」


 自転車を挟んで隣を歩く金森くんの顔は見えない。向こうからもきっと見えていないだろうし、なんなら興味もないだろう。それでも私は、背筋を伸ばして声が震えないように気をつけた。私は傷ついていない、と全身でアピールする。


「運良く助かっちゃったんだから、私の代わりに愛梨が攫われたんだから、せめてそれくらいは、知らないといけないんだよ」

 

 私に傷つく資格はない。これくらいの罰は受け入れなくちゃ、と私は微笑んだ。


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