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 昨日少しだけ言葉を交わすことができたから、これからはもっと話しかけてみようと、そう思っていた矢先のことだった。


「昨日、桜井さんが屋上から飛び降りました。今は意識不明の状態で、入院しています」


 綾瀬先生の固い声を皮切りに、教室がざわめく。私も、信じられないような気持ちで、空席になった愛梨の席を見つめた。なんで、大丈夫なの、やっと昨日話せたのに、ぐるぐると心配と疑問と後悔が頭を巡った。


 先生が「突然のことで心にダメージを負うこともある、一人で抱え込まないように……」と続ける中、私は、「なんで、」と口に出していた。唇を噛んで、その先の言葉を潰した。


 ざわざわとした生徒たちを強引に先生がなだめて、普段通りに授業が始まっても、私はノートも開かずに、ひたすらなぜ、を繰り返していた。


 ◇


「おーい、しおりん?」

「……あ、ごめん、吉川さん」


 放課後、今日は部活が休みなのだという吉川さんとともに帰路についているところだった。話しかけられたのに反応が遅れたらしい。ごめん、ぼーっとしてた、と笑うと気遣わしげな顔をする。


「大丈夫? まあクラスメイトが自殺未遂じゃ心配になるよね……」

「うん……」


 本当の理由は心配だけではないのだけれど、愛梨のことが原因なのは間違いない。曖昧に微笑んで誤魔化した。


「あんまり一人で抱えない方がいいよ? 私でよければ話聞くし、先生もいるし」


 ほら、それにさあ、と彼女はとっておきのように告げる。


「それに、うちには対価の代わりになんでも叶えてくれる悪魔もいるし。まあ最終手段だけどね」


 最近聞いたばかりの彼の評判に、少し興味が湧く。転校を繰り返してきたけれど、彼のような存在はこれまで見たことがなかった。


「金森くんって、そんなにすごいんだ?」

「うん、すごいよ。あ、でもね勘違いしちゃダメだからねっ――金森はね、困っている人を助けてくれるわけじゃないの」


 チッチッ、と指を横に振って吉川さんは顰めっ面をした。


「客がお金を差し出すから、その分だけ働いてくれるだけなんだよ」


 ん?と私は首を捻る。それってつまり、お金の代わりになんでも助けてくれるという意味とは違うのだろうか。

 ピンと来てない私に、吉川さんはあのね、と続ける。


「中学の時、いじめられてた女子生徒がいたの」


 「あ、私金森と同じ中学なのね」と彼女は付け足す。


「その子が金森に『助けて』って言ったの。もちろんお金を出してね。そうしたら『いいよ』って笑って、次の日からいじめっ子たちは来なくなった。その女子生徒は喜んだけど、そのいじめっ子たち、家にも帰って来ないんだって。ヤクザに半殺しにされたなんて噂が流れた。女の子は震えて、『そこまでしてって言ってない』って文句を言いに行ったら、金森はこう返した」


 すうっと息を吸って、突然彼女は表情を消す。そして、にいっと口角をあげた。


「『お前が望んだんだろ』って。嗤いながら」


 ……もしかして、金森くんの再現をしているのだろうか。どういう反応を取ればいいのか迷う。

 私のリアクションが薄いので、吉川さんは普段の調子に戻った。とにかく!とビシッと指を私に突きつける。


「金森に依頼するなら、カクゴがいるんだよって話」


 そうこうしているうちに、分岐路に来てしまった。じゃあね、と手を振ると、彼女も手を振りかえしてくれる。


「じゃあね、しおりん。また学校で」


 ◇


 私は、髪を乾かして、明日の用意をしていた。しん、と静まり返った我が家に、カバンを開け閉めする音が響く。一通り済んで、あとは朝思い出したら入れよう、とカバンを決まった場所に置いた。


 両親は仕事で忙しくて、帰りが遅い。いつからか帰りを待つという習慣はなくなっていた。一人の家で、部屋の電気を消す。

 ベッドに潜り込むと、ぐるぐると、今朝知らされたことを考えた。そして、再会した彼女のことを思う。ずいぶん様子が違っていた。もし、何か愛梨に踏み込んでいたら変わっていただろうか。というか、なぜ。


「なんで、」


 今日、教室で呟かなかった言葉の続きを唇に乗せた。


「なんで、『今』なんだろう」


 十年前、私は、決して許されないことをした。その時絶望するなら『わかる』のだ。それでも、別れの時まで彼女は笑っていた。どうして、なんで今、死を選ぶのだ。


 もしも、私が現れたことが彼女の引き金を引いたのなら。そんな考えがよぎって、私は布団を抱きしめた。もし、もしも――その考えの先はいつだって同じだ。


 もし愛梨が、私なんかと出会っていなければ、彼女は今でも笑っていただろうか。


 ◇


 その晩、また私は夢を見た。


 きっと、その日知らされた出来事や、吉川さんの話が関係していたのだと思う。どこまでも、自分に都合の良い夢だった。


 やはり十年前の桜の丘の光景で、私と愛梨の幸せな夢。ただ一つ違ったのは、愛梨の姿だった。別れのシーンで、彼女の姿は今の彼女になった。寂しそうに笑って、口を開く。


 十七歳の愛梨が「たすけて」と口を動かしていた。


 ◇


 目覚めた私には、とある決意があった。


 「たすけなきゃ」と呟く。なにを、なんて聞かれても困るけど、何か行動しなければいけないという衝動があった。

 意気地なしな部分を夢に助けられて、ベッドから転がるように立ち上がった。


 昨夜用意したカバンに思いつく限りのものを詰めていった。


 うちの学校にいるという、悪魔と契約するために。


 ◇


 逸る気持ちを抑えて、私は、落ち着け、と繰り返した。ああ、教科書をなぞる目線が行ったり来たりする。朝からずっとそうだ。なんの文字も頭に入ってこなかった。

 鐘が鳴って、今日の授業が終わったことを告げる。


「しおりん、ばいばい」

「うん、部活頑張ってね」


 吉川さんは、今日は部活があるらしい。しおりんと帰れなくて残念ー!と悶える彼女に、私もだよ、と笑う。

 金曜日の放課後ともなれば、誰もが足早に教室から去っていく。

 残っているのは私と、


「香坂さん、帰らないの?」


 金森遊馬(かねもりあすま)くらいのものだった。


「うん、ちょっと用事があって」

「へえ」


 隣の席の男の子は興味なさそうに呟いて、スマホに視線を落とした。ここで何をしているのか知らない。新たな依頼を待っているのかもしれない。とにかく、彼が今ここに残っていることは好都合だった。


 私は、席を立って、わざわざ彼の目の前に回り込んだ。


「何?」


 顔を上げた彼と、視線が合うようにして立っている私に、眉をひそめる。私は、そっと息を吸い込む。

 ああ、誰かに無茶な頼みをするなんて、自分の意思で行動するなんて何年ぶりだろう。勢いのままに、私は口を開く。


「金森くんは、なんでも叶えてくれるって聞いた」


 彼は「へえ」と今度は面白そうに言う。


「転校生の耳にまで届いてたんだ。あいにくだけど、俺が引き受けるのは条件付きなんだ」

「うん、知ってる」


 そう、何か契約するのなら対価が必要だ。それは悪魔とか以前に子供でも知っている社会常識だった。

 だから私は、自分のスクールバッグに手を突っ込み、対価を引き出した。ざあ、と風の音がして、風が、私の手から対価を攫っていく。


 ――何枚もの諭吉が、桜色とともにひらひらと舞った。


 窓から吹き込んだ風で、花びらとともに己の手から離れたのだと、少しして気づく。

 ゆっくりと、お札は私と金森くんの周りを落ちていった。私はそれを見届けて、対価を告げる。


「私の全財産。……足りないのなら、あの、奢るから」


 札束は家にあった現金をかき集めたもの。きっと足りないだろうから、通帳まで持ってきた。それでも不安になって保険のように言葉を付け足す。

 これが、私の精一杯だった。私は、通帳を金森くんに差し出す。


「だから、私の願いを叶えて」


 金森くんは、口角を上げた。


「依頼は?」

「桜井愛梨がなぜ飛び降りたのか――ううん、この十年彼女に何があったのか、全部知りたいの」


 私の真剣な願いを聞いて、彼は。


「アッハッハ!」


 盛大に笑った。ええ、と私は固まる。今笑う?


「交渉下手くそすぎるでしょ! 普通、最初から全財産示さないよ。もしかして転校生、バカ?」


 あーお腹痛い、と彼は腹をさする。私は、突然の暴言に身動きできずにいた。


「でも、気に入った。その依頼、叶えてやるよ、香坂」


 そう言って、悪魔は、私の通帳を手に取って実に楽しそうに笑った。


「よろしく、香坂」

「よろしく、お願いします」


 自分の名前から「さん」が消えたことに気づく。

 初めての挨拶よりもたどたどしく、私が返すと、彼はやはりおかしそうに笑った。この悪魔はよく笑うな、とぼんやりと思った。非日常に頭がついていかない。……あ、お金に囲まれて機嫌がいいのかもしれない。


 思考がまとまらない中、一つだけはっきりしていることがあった。愉快そうに落ちたお札を拾い集めている、よくわからない悪魔を眺めた。


 ――これから、歯車が動き出すのだろう。


 こうして私は、悪魔と契約した。十年前の契約に縛られたまま、新たな鎖を身にまとった。

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