2
「今日から桜稜高校に転校してきました、香坂栞里です。よろしくお願いします」
壇上で、シンプルだが淀みなく挨拶する。長年の転校人生でこの手の挨拶はお手のものだ。一礼して顔を上げると、パラパラとクラスメイトの拍手が響いた。
「香坂さんの席は、金森くんの隣だね。一番右の後ろの席」
「はい、綾瀬先生」
優しそうな担任教師の言葉に従って、指定された席へ向かう。確かに、わかりやすく空席が作られていた。隣の席の男の子が金森くんだろう。
「よろしくお願いします」
「よろしく、転校生」
小声で挨拶すると、にこっと金森くんが笑う。良かった、上手くやれそう、と肩をなで下ろす。微笑みを返してちらりと金森くんの机上に視線を向ける……机の上に置かれた郵便ポスト型の貯金箱が目に入った。
「……なにこれ?」
「ああこれ? 貯金箱」
「へえ……」
それ以上の説明は不要とばかりに彼はくるりと前を向いてしまう。
……郵便ポスト型の貯金箱から一万円札が入りきらず飛び出しているのが気になるが、悪い人ではないんだろう、うん。はみ出した諭吉と目が合ったが、私はすっと視線を逸らした。
その時、がらりと教室の扉が開いて、一人の女子生徒が入ってきた。
「遅刻だよ、桜井さん」
「……」
綾瀬先生が声をかけても、女子生徒は黙ったまま自分の席へと向かう。
私は、綾瀬先生の『桜井さん』という言葉に弾かれたように反応する。十年前の唯一の親友――桜井愛梨と同じ苗字だったからだ。
よく見ると、横顔に面影があった。ただ、十年前とはまるきり雰囲気が変わっていた。ひだまりのようだったあの頃とは違い、刺々しい雰囲気を纏っていた。
――彼女に、何があったんだろう。
この十年を、彼女がどう過ごしてきたのか、私は何も知らない。知りたい、という気持ちが膨らんでは萎んだ。
◇
転校して一週間が経ち、私もようやく新生活に慣れてきた。まだ隣の席の男の子とちゃんと話したことはないし、愛梨とも話せていないけれど、それ以外は概ね上手く行っていた。
現代文のポイントを黒板に書きつけていた綾瀬先生が、最後のポイントを解説したあと、生徒たちに告げた。
「今日の授業は早めに切り上げて、持ち物検査するから」
教室中が生徒達の不満の声で溢れる。その中でもひときわ大きな声が私の前の席からこぼれた。
「ええっ、聞いてない!」
「吉川さん、事前に言ったら抜き打ち検査じゃないでしょうが……」
呆れたような綾瀬先生の言葉もものともせず吉川と呼ばれた女子生徒は、はああ、と特大のため息をつく。振り返って私の方を向く。
「うちの学校って抜き打ちで持ち物検査あるんだよ。あ、しおりんって呼んでいい?」
「いいよ」
「細かく調べられるし、見つかったらしばらく戻ってこないし……まじでさいっあく」
「そうなんだ……」
「おーい吉川さん、先生まで聞こえてるぞー」
「あ、でもうちのクラスはちょっとだけラッキーかも」
綾瀬先生に咎められたのも気にせず吉川さんは会話を続ける。なんてマイペースなんだ、と慄きつつ、ラッキーってどういうことだろう、と私は首を傾げた。
「うちのクラスには、金森がいるから」
「金森くん?」
私は、隣の席の男の子をちらりと見た。端正な顔立ちに、色素の薄い髪。体格は男子高校生の平均くらい。いたって『普通』に見える。彼がいるからなんだというのだろう。「まあ見てなって」と彼女は声を顰めて言う。
「じゃあ金森くんから始めようか」
ちょうど、先生が金森くんから検査すると宣言した。
「どうぞ」
金森くんが鞄を堂々と見せると、逆に綾瀬先生が驚いた顔をした。
「今日はやけに素直じゃないか」
「別にやましいことはしてないですよ」
やれやれ、と金森くんが肩をすくめて言うが、先生の方は疑わしそうな眼差しを机の上に向けた。
「……まず、この貯金箱はなんだ? 隙間から諭吉がはみ出ているが」
「ああ、それは今日の分の依頼料です」
私は首を捻る。
「依頼料?」
吉川さんが、よく聞いてくれたとばかりに頷いた。
「金森はね、対価と引き換えにどんな願いでも叶えてくれるの」
「へえ……この学校の神様みたいな?」
「どっちかって言うと邪神や悪魔の部類ね。対価に要求するのはいつだって生々しい現金なの。クラスメイトから大金取る神様なんて嫌でしょ」
うわあ、と呻き声が聴こえて、私は声の主を見る。そこには、貯金箱をひっくり返して項垂れる綾瀬先生と、平然とお金を数える金森くんの姿があった。
「四万四千八百円あります」
「……お前の時給どうなってんだよ」
「賃上げ交渉の依頼なら金森まで」
「教師にまで営業をかけるんじゃない」
「この間校長が来ましたよ」
「何やってんだあの校長は……!」
ギリギリと顔を歪めて綾瀬先生が吠える。人好きのする穏やかな顔が台無しだ。
「あーもういい、後で職員室にくるように! この金は放課後まで預かっておく」
「そんな……休み時間にこれを数えるのが俺の楽しみなんですよ!」
「そんな陰気な楽しみは捨ててしまえ!」
そんなやりとりをしているうちに時間がなくなってしまったらしい。残りの生徒達は簡単に鞄を見せるだけで持ち物検査が終了した。
「ほらね、ラッキーでしょ」
悪戯っぽく、吉川さんが笑った。
◇
持ち物検査が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴ると、スピーカーから放送が入った。
『金曜日の集会を行います。校庭にお集まりください』
集会なんてやるんだ。ぞくぞくと校庭へ向かう生徒の集団に出遅れていると、ぼうっとしている私を心配したのか、また吉川さんが説明してくれた。
「金曜のお昼休みは毎週集会があるの。校庭で全校生徒が集まって、校長のペットの亀の話を聞くっていう有意義な時間がね」
「はは……」
オーバーなリアクションでやれやれ、という仕草をする彼女にどういう反応を返したらいいかわからない。
そうこうしているうちに、教室にはほとんど人がいなくなってしまっていた。
「皆もう行っちゃったみたいだね」
「本当だ! 私達も行こう」
「うん」
吉川さんの後に続こうとして、私はまだ残っていた愛梨に近寄った。ねえ、と呼びかけようとして、なんて呼べばいいのかわからないことに気づいた。愛梨?愛梨ちゃん?……それとも無難に桜井さん……?
結局、名前は呼ばずに声をかけた。
「行かないの?」
「……行く」
愛梨は小さく頷いた。じゃあ一緒に行こうよ、と言いかけた時、廊下の方から、吉川さんの大きな声が響く。
「しおりん、何してるのー?」
愛梨は、席を立つ様子もなく、ふるふると首を振った。
「先に行って、香坂さん。私は、あとから行くから」
『香坂さん』呼びに勝手にショックを受ける。私だって、呼び方を迷ったくせに。
「そっか……じゃあまた」
「うん、またね」
私は後ろ髪をひかれながら、吉川さんのもとへ向かった。
「しおりん、桜井さんと何か喋ってた?」
「あ、桜井さんも行かないのかなって」
「ああ……彼女、集会とかさぼりがちだよ。今日もさぼるんじゃない? 賢明な判断だよ。亀の話で昼休みが圧迫されるなんて私達は……ううっ」
「有意義な時間って言ってなかった?」
「有意義な時間とも言えるし世界で最も無駄な時間とも言えるね」
「なるほど……?」
つまりテキトーな発言だったんだなあ。吉川らしい、と知り合ったばかりなのにそんな感想を抱く。
校庭に出ると、同じ三年三組の面々が校庭の周りに埋められた桜の木のもとに集まっているのが見えた。
「お、まだ並んでないみたいだよ、しおりん」
吉川さんが集団の一人の男子生徒に話しかける。
「何してるの?」
「なんか落ちてたんだよ」
「へえ、落とし物?」
それを聞いて、違和感を抱く。ここは外で、それも目立つ桜の木の下だ。男子生徒の手にある『落とし物』は、手のひらくらいのサイズの巾着で、そんなものを落とせばすぐに気がつくだろう。
クラスの女子が、「見せて」と割り込んでくる。
「桜の木の下に落ちてるって、なんかロマンティックね」
「素敵なものだったりしてー」
きゃあ、と盛り上がっていた空気を霧散させるように、ぼそぼそと低い声が響く。
「桜の木の下には死体が埋まっている……」
「なんてね、ふふっ」何も笑えない冗談をぶち込んで去っていったのは、前髪で目元を隠した背の低い男の子だった。彼もたしか同じクラスだったはずだ。
「吉川さん、誰だっけ、あの人」
「文芸部の若草詩音よ……。ポエマーなの」
「クセの……個性の強い子が多いクラスなんだね」
「本当よ、もう!」
吉川さんも面白い人だよ、という言葉は飲み込んだ。
クラスメイト達は、まだ巾着袋に興味を抱いているようだ。
「落とし物なら事務室に届けなきゃ」
「いや、見ろよ。うちの教室が近いだろ」
「きっと持ち物検査前に誰かが隠そうと思って窓から投げたんだよ!」
「へえ、中に何が入ってるか当てようぜ」
「おい、遊馬! 何が入ってると思う?」
アスマ、と呼ばれたのは先ほど貯金箱で教師と揉めていた金森くんだ。
「それ、依頼?」
「ちげーよ、遊びだっつの」
話を持ちかけた男子生徒が一蹴する。金森くんは「そうだなあ」と一拍置いて答える。
「巾着の大きさからせいぜい数センチの物体、見つかったら没収されるかもしれないものかつ、そこそこ厚みはあるもの――恋人からのアクセサリーってとこじゃない?」
男子生徒が、巾着袋を開けると、真新しい指輪ケースが姿を現した。
「――正解」
おおっと小さく歓声があがる中、ぼそっと若草詩音が呟く。
「残念……死体じゃないのか」
若草詩音の残念そうな口ぶりに、「そんなわけないだろ」と冷ややかな反応がクラスメイトからあがる。近くにいた金森も、詩音の言葉に反応した。
「もし死体でも安心しろよ。俺に依頼すれば解決してやる」
「……へえ、いくらで?」
「二百四十三万円」
「たっか……」
たしかに高校生にとっては手の届かない金額だ。金にがめつい、悪魔の名に恥じぬ宣言だった。
「おい、三年三組! 早く並びなさい!」
いつまでも並ばない三年三組の面々が、教師に叱られて桜の木から離れていく。おいおい、と金森は放り出された指輪ケースを手にした。
「もとの場所に置いとかないと、持ち主が取りに来れないだろ……」
放り出された指輪ケースを開けて、中身が無事が確認する。金森は特に壊れてないことを確認して――あることが気になった。
「ん? 変だな、これ」
もっとよく見ようとしたところに、怒声が飛んできた。
「三年三組の金森! 早く並びなさい!」
学年主任の森田の声だった。仕方ない、向こうには貯金箱を人質にとられている。指示に従おう、と金森は指輪ケースをもとの場所に戻して、クラスの列へ向かった。
◇
夜九時。
森田は、職員室にかけられた壁時計を見て、はあ、とため息をついた。今日もしっかり残業してしまった。
「森田先生、ため息は幸せが逃げていきますよ」
「悪いな、綾瀬先生」
綾瀬先生は、森田の一つ後輩で気心の知れた仲だった。二人とも桜稜高校のOBだったため、打ち解けるのも早かったのだ。
「それにしても、金森はどうするかね……」
「悪いやつじゃないんですけどねえ」
「校内で商売はだめだろ」
「ですよねえ」
ハア、とまたため息を一つ。会話が途切れたその時。
どすん、と大きな音が聞こえた。
「今、何か変な音がしなかったか?」
「ちょっと僕、見てきますよ」
「じゃあ俺も行くよ」
明日の朝でもいいか、とも思ったが、ずっとデスクワークで鈍っている。どうせなら散歩したい気分だった。
校庭に降りると、すでに辺りは真っ暗で、スマホのライトを頼りに音の正体を探る。
桜の木の下にライトをかざした時、何かが映った。
「人……!?」
駆け寄ると、たしかに女子生徒が倒れている。
「誰か倒れてる!」
叫ぶと、綾瀬が寄ってくる。暗闇てもわかるほど蒼白な顔だった。恐らく自分も同じような顔色をしているだろう。
「早く救急車を……!」
呼びかけると、はっとしたように綾瀬がスマホを操作する。「もしもし、救急車をお願いします……」綾瀬の声が聞こえて、周りをぐるりと見渡す。
校庭から上を見ると、このご時世に柵もされていない屋上が見える。整備するべきだ、という議論はあったが屋上は常時施錠されていることから見送られてきた。
はっ、と森田は息を呑む。ある可能性に思い至った。
「まさか屋上から……」
この女子生徒は、屋上から身を投げたのだろうか。
飲み込まれそうな深い夜が、辺りを包み込んでいた。