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ざあ、と桜色の風が吹いて、私の意識は深く深く潜っていく。
――ああ、またあの夢だ。
誰しも、己の夢を俯瞰して見た経験があるだろう。夢だとわかっていても、抜け出せない。手も足も出ない。そんな状況に、今の私もいるようだった。
幼い私は、とある家の前にいた。手を額にやって、張り付く前髪を払った。春の陽気の中を走ってきたから、少し汗ばんでいるみたいだ。
あついなあ、ズボンじゃなくてスカートにすればよかった。そんなことを考えながら、自分の目線より少し上にあるインターフォンを押した。
インターフォンの向こう側で、はい、と可愛らしい声が聞こえた。私はうきうきと口を開く。
「――ちゃん、あーそーぼー!」
「はーあーいー」
返ってきたのは同い年の女の子の声だ。私とその子は小学二年生になったばかりで、後輩ができたことに浮かれている。周りから「もうお姉さんね」と声をかけられるのが、少し嬉しい。
しばらくすると、玄関のドアが開いて、二つ結びの女の子が笑顔で飛び出してきた。
「しおりちゃん、お待たせ!」
私は彼女の手を取る。
「行こっ、――ちゃん!」
「うん」
私と彼女は、何に追われているわけでもないのに、全力で駆け出した。彼女は足が遅いので、自然と私が手を引っ張るような形になった。どうしてか、彼女の手を離してはいけない気がして、ぎゅっと強く握る。
「どこに行く?」
「桜の丘!」
「えー、今日も?」
私は口で文句を言いながら、はやる気持ちを抑えられない。桜の丘は私達の秘密基地のような場所だった。
桜の丘の中腹には、桜並木が咲き誇り、ちょっとしたお花見スポットになっていた。でも、大人は休日しか来れないから、平日の日中は閑散としていた。
春休みの私達にとっては、二人きりで遊べる絶好の場所だった。
そこで、私達はお喋りをしたり、鬼ごっこをしたりした。遊び疲れたころ、鐘の音が響いて、丘の頂上から高校生達が降りてくる。
小学生の私達には、それがとても憧れで。その時だけは、お喋りをやめて、じいっと高校生達の列を眺めていた。
そう、憧れだった。だから、いつも通り遊んだその日、一つだけ特別なことをした。
『ねえ』と呼びかけられて振り向くと、友達は私の目をじっと見つめた。
「ねえ、しおりちゃん。大人になったらさ――」
彼女が真剣な瞳で、私に一つの提案をした。丘の上から風が駆け抜けて、彼女の言葉を運ぶ。
「うん、いいよ」
あまりにも真剣な顔だったから、私はその提案を受け入れた。叶ったらいいね、こういうのは大人の事情があるから叶わないかもしれないけど……なんて嫌に現実的なことを考えながら。
でも、願うだけなら自由だ。それに、うんと未来の話だ。そんなことで、彼女の真剣な提案に水を差したくなかった。
私が了承すると、彼女はぱっと顔を明るくした。
「ほんとっ?」
「うん、本当。約束ね」
私は小指を差し出す。それは、約束をしたときのお決まりの作法だ。彼女は微笑んで小指を私のものに絡めた。
「ゆーびきーりげんまん、うーそついたら……」
少女の声が桜色の空間にこだましていくのとともに、私の――香坂栞里の意識は浮上していった。
◇
ピピピ、とベッドボードで鳴っているアラームを止めて、私はため息をついた。
「嘘ついたら針千本飲ます、か。荷が重い契約しちゃったなあ……」
起きたばかりの掠れた声で、十七歳の私はひとりごちる。十年前から何度も何度も夢に見て、その度に『忘れるな』と言われているようだった。
眠りが浅かったのか、小さいあくびが出る。本当はもっと寝ていたいけれど、転校初日から遅刻なんてしたら目立ってしまう。
仕方なく、いそいそとベッドから降りた。視界の隅で、さらりと黒髪が揺れた。
洗面所で洗顔を済ませて、タオルで顔を拭く。鏡を覗き込むと髪が少し跳ねていることに気づいた。柔らかく垂れた目を細め、むっと眉根を寄せる。
「昨日ちゃんと乾かしてから寝たはずなのに……」
いつもはヘアアイロンしか使わないけれど、今日は一度ブロウしてからにしよう、と決意する。
転校初日のコンディションは完璧でなければいけない。少しでも好感度を稼がなければ……と邪なことを考えた。
ありのままの自分で勝負できるのは、とても限られた人だ。心が強くて、いつだって正しい行動ができる人。私はそうじゃないから、今日も自分のモットーを唱える。
「よし、今日も目立ちませんように……」
後ろ向きすぎるこの思考は、十年前に起こったとある事件のせいでもあったし、父親の転勤で七度転校を経験したことも原因だった。
これだけ頻繁に転校していれば、友達との関係性を深く作ることは難しい。
夢で見た彼女―― 桜井愛梨とも十年前に別れてしまったきりだ。
だから、十年前の約束は、果たせないとばかり思っていた。
『大きくなったらさ、一緒にあの高校に行こうよ』
桜の丘の上に見える高校は、そんな約束をしてしまうくらいには、少女達の憧れだった。大人びた高校生が、桜並木の中心を歩いて降りてくる光景を今でも覚えている。
この制服も随分可愛く見えたっけ、と私は腕を通したばかりの制服を見下ろした。紺色のジャケットに、赤いリボン。よくあるブレザーなのにねえ、と苦笑しながら、リボンのフックをパチン、と嵌めた。
リボンの角度を調整して、鏡の前で全身の身だしなみを確認した。夢の中で思い描いた格好が、そこにあった。
ぼんやりと、鏡を見ながら思いを馳せる。
――十年前の夢を見たのは、今日が約束を果たす日だからだろうか。
鏡の中には、ブレザーに身を包んだ平凡な女子高生が、不安げな表情で映っている。
約束をした相手はきっと約束を覚えていないだろうけれど、七度の転校を経て、私は確かにこの街に戻ってきた。
十年ぶりに、この街に戻ってきたのだ。