十九時の逢瀬と不明瞭な雰囲気
身辺がやっと落ち着いた。
『落ち着いた』というのは、周囲の心配や激励も含めてのことだ。
あれから半年も経ち、ようやくのことである。
久しぶりに暇になると、自分がいかに主体的ではないかを思い知らされた。
なにもやりたいとも、やろうとも思えなかった。
立ち直ってないとかではなくて、あの出来事以前からも流されて生きてきたんだろう。
だから、とりあえず山に登ってみることにした。
山と言っても特別なものではない。
地元にあるような、登るのに1時間もかからない山だ。
頂上らしき場所に到達すれば、頭上を遮る木々が一斉に避けたような夜空が現れた。
丸太と板だけで出来たベンチに腰を降ろす。
乱雑に物が詰め込まれたバッグから、丁寧に折りたたまれた手紙を取り出した。
「ベンチに座ったら、とりあえず空気を楽しんでください」
抽象的だとは思ったが、そうしろと言われたからにはせざるを得ない。
雰囲気、温度、風。
空気に含まれそうなものを肌で受け止めようとする。
しかし、せいぜい静か、肌寒い、風が強いくらいの感想しか浮かばない。
本当にこれでいいのだろうか。
「こんばんは」
目を閉じてしばらくすると、細身の男が現れた。
男は自分とは違う山道から登ってきたらしい。
「今日は寒いですね」などと当たり障りのないことを喋りながら、自然な風に隣に座った。
「珍しいですね。 ここに人が来るなんて」
「まあ、夜ですからね」
「あはは。 それもそうか」
中身のない会話は不快だ。
いまは手紙の通りにしなくてはいけない。
「どうです? ここの雰囲気は」
そんなことを考えていると、男はまさに手紙に書いてある雰囲気について聞いてきた。
「雰囲気、ですか? そうですね――」
たいした雰囲気を感じ取れていなかったため、あたかも不意につかれたような振りをした。
「あはは。 そうですね、そうですね」
正直に感じた雰囲気を伝えれば、男は貼り付けたような笑顔を浮かべた。
それもやはり不快に感じた。
別にここじゃなくても山の雰囲気は感じられるだろう。
そう思い、「失礼します」とだけ告げてベンチを立った。
「その手紙、なんですか?」
しまった。
ずっと手紙を握りしめていたのだった。
「この山の紹介状みたいなものです」
正直に話すことではない。
適当なことを言ってはぐらかそうとした。
「紹介状ってことは、登山仲間からですか?」
「ええ、はい。 そんなもんです」
さっさと男と会話を切り上げたいのに、無理やり話を広げてくる。
うんざりして、特に考えもせず肯定してしまった。
「あはは。 そんなわけないですよね。 あなたはよく登山をするような人には見えません。 そんな普段着みたいな恰好に、よれたエナメルバッグで山を登る人はいませんよ」
わかった。
この男は、自分にとって都合の悪い時に笑ったような顔をするのだ。
実際は腹の中では煮えくり返っているのだろう。
「半年前くらいから、ここの常連さんが来なくなったんですよ」
「それがなにか」
「この時間にここに来る人なんて、その人と僕くらいなものでした。 それが、同じ時間にあなたが現れた。 偶然なわけないですよね」
手紙には時間の指定もあった。
なるほど、これも手紙の主の狙いだったのだろう。
「死にましたよ」
恐らく彼女をよく知る人だったのだろう。
だとしたら、尚更気にくわない。
さっきまで以上に冷たくあしらうことにした。
「これは遺書です。 この時間にここに来るように言われたので」
「そんな……」
常連が半年もいなくなったのだ。
男だって予想してなかったわけじゃないだろう。
「もういいですか?」
今度こそ男に背中を向けて、来た道を引き返そうとした。
「待ってください!」
足は止めない。
「どうして彼女は亡くなったのですか!?」
「……病気ではなかったです。 理由は知りません」
正直、自分だって彼女が命を絶った理由はわからない。
だから信じられなくて、まだ死因を口に出すことはできなかった。
もう話すことはない。
男が追ってこれないように、早足になった。
「待ってください! もっと詳しくお話を! せめてお墓の――」
――あの男はなぜ彼女のことについて深く聞きたがったのだろうか。
ひとりになったアパートの部屋で、寝ころびながら考えていた。
親しかったのは間違いないのだろう。
もしかしたら、男は好意を持っていたかもしれない。
それに、もしかしたら彼女の方も。
棚に飾ってある写真立てには、もう見ることのできない彼女の笑顔があった。
あれは、彼女との五年目の交際記念日に撮ったものだ。
彼女がなぜ死んだのかなんて、僕の方が聞きたかった。
遺書には、ただあの男と会わせるためのことしか書いてなかった。
なんで。
ただただ亡くなった彼女に対してだけの思いが、執着が募っていく。
もしかしたら、生前以上かもしれない。
そう思ったとき、様々なことを悟ってしまった気がして。
そういう雰囲気を感じ取ってしまって。
ああ、きっと僕はまたあの山に行くんだろう。
そして、あの男にはちゃんと話さないといけない。
痛くなる程締め付けられた胸を押さえて、写真立てを伏せた。




