51 あと少し遅かったら
銀次の口の端から暗い色の付いた液体が零れているのが分かって、龍之介はその横に腰を落とすと「あぁ」と怯えた声を漏らした。
困惑顔の修司が指示を求めて朱羽を振り返ると、銀次が力なく瞼を開く。
「あぁ銀次。お前大丈夫なのかよ!」
「泣きそうな顔するなよ、リュウ。お前が勝ったんだろ? 俺、アホみたいに呆気なかったな」
「勝ってなんかいねぇよ。俺たちまだ戦ってさえいないじゃねぇか」
自嘲する銀次に、修司が「無理に喋らなくていいから」と声を強めるが、「話させて」という事を聞かない。
「銀次、お前ここで会った時から顔が青かった。最初から限界だったんだろう?」
「そんなことない。結果が悪かっただけだよ。こうなるのなんて、ほんの少しのリスクだろ? 俺は後悔してないよ」
「これで終わりみたいなセリフ言うんじゃねぇよ。いいか銀次、俺は朱羽さんに会って分かったんだ。キーダーじゃなくたって、アルガスではやれることがあるんだってな」
「お前、アルガスやキーダーに興味なかったじゃないか」
「そりゃ前の話だ。俺はお前より頭良くなって、アルガスに入るからな」
「お前が俺に勝てるのかよ。けど、俺でもまだ夢を見れるのかな」
「お前だって、素行が悪いって落とされるかもな」
ふっと笑って銀次の意識が遠のく。再び閉じた瞼に「銀次!」と龍之介が声を掛けるが、反応はない。
「そいつ死ぬのか?」
ふと背後から声を掛けてきたのはガイアだ。彼は傷と逆の腕を朱羽に腕を引っ張られながら、怪訝な顔を銀次に向けた。
銀次に触れて脈や呼吸を確認した修司が「生きてるけど」とガイアを睨む。
「お前たち、コイツにどんな薬飲ませたんだよ」
「薬は俺の力に興味を持った自称科学者って野郎が作ったんだ。世の中にはな、そんな奴がたくさん居るんだよ。確か解毒剤みたいのをシェイラが持ってたはずだぜ?」
「何?」と修司が声を上げたのと同時に、朱羽の平手がパチーンとガイアの頬を打った。
「痛ぇっ!」
「能力者なら能力者のプライドを持ちなさいよ。その自称科学者ってのは、これからたいそう吐かせがいがありそうね」
仁王立ちに構える朱羽に、ガイアは委縮して頭を下げた。
「お前に俺の気持ちがわかるかよ」
「分かるわよ。少し前の私と似てるもの。だからシェイラを諦めろって忠告できる」
「余計な世話だ」と呟いたガイアに、朱羽は鬼の形相から普段通りの笑顔を滲ませて、アルガスの方向を仰いだ。
「向こうで気配が止んだわ。終わったんじゃないかしら」
「シェイラ」と憂い顔で呟いたガイアに、朱羽は「あの桜の夜……」と言い掛ける。
「喧嘩っ早い貴方が、あの時どうして戦わなかったの? あの時シェイラは私を京子じゃないって言ったけど、貴方は気付いていたんでしょ?」
一升瓶を手にした朱羽を相手に、背を向けたガイア。
「確証はなかったからな。いや、そんなのはどうでもいい、あの夜は特別だったんだ。引き籠りがちなアイツが桜を見たいって言い出してよ。あの男との思い出だそうだ」
「見かけによらず、お人好しなのね」
「そうだな」と力なく零したガイアを横目に、朱羽は辺りの炎を見渡す。
「そろそろ戻らなきゃならないわね。けど、先にこれをどうにかしなきゃ」
炎がどんどん大きくなっているのは龍之介も分かっていた。焼かれていない建物はまだまだあって、メラメラと加速する炎に逃げ道の確保すら危ぶまれる。
「道路の封鎖で消防車が近付けないのかもしれませんね」
修司がゴホゴホと咳込んで口を腕で押さえつける。
一刻も早く逃げるのが得策だろうと龍之介が思い立ったところで、朱羽がふと腕組みをして修司に声を掛けた。
「ねぇ修司くん、キーダーってこういう時何してもいいのよね?」
突然の言葉に、ガイアを含めた男三人で見合わせた困惑顔を一斉に朱羽に向けた。
「いや、駄目ですよね? ちゃんと考えて行動しろって言われてますよ? それに、そういうのって俺より朱羽さんの方が詳しいんじゃないですか?」
慌てる修司から顔を逸らし、朱羽は海側を向いた。
「じゃあ、火の弱点は何か知ってる?」
「火って言ったら、水ですよね?」
「そうよね。けど、そこにたくさんある海水を私の力じゃ操ることができないの。だから」
「だから?」と男子が声を合わせる。あまり良い予感はしない。
「朱羽さん、何考えているんですか?」
横からそろりと尋ねた龍之介に、朱羽は地面を睨みつけた。
「これは緊急事態でしょう? 消防も来ないからって、燃え尽きるまで放置なんてできないわ。だから、ちょっとだけ悪いことをするのよ」
朱羽は小さく笑んだ唇に当てた人差し指で、龍之介の持つさすまたを指差した。
「修司くん、それってまだ使ってないわよね?」
「はい。俺の力は込めてありますけど、どうするんですか?」
突撃しようとしたところで銀次が倒れ、光が消えたままの状態になっている。
首を傾げた修司に「ありがとう」と言って、朱羽はガイアを離れて龍之介に近付いた。
「龍之介は私の助手なのよね。手伝ってもらうわよ」
きょとんとする龍之介に説明もないまま、朱羽の手がさすまたの柄を掴んだ。顔がすぐ横に来たが、龍之介にドキドキしている暇はない。
朱羽は「離れてて」と肩越しに他の男子へ指示した。彼女の手からさすまたへと強い光がキンと走る。
「龍之介は私にタイミング合わせて。辛かったら目は閉じていてもいいから離さないでね」
「えっ」と龍之介が彼女の視線を追って顔を落とすと、そこには硬いコンクリートがあった。
「いい? 突き刺すわよ」
「地面にですか? そんなことしたら、これ折れるんじゃ」
「無理ですよ」と手を振る龍之介を無視して、朱羽は上へと引き上げたさすまたをくるりと上下反転させた。
「そうかも。だから、ちゃんと掴んでて」
「ちょっ、朱羽さん!!」
勢いのまま腕を振り下ろすとズンと重い衝撃が全身に響いて、龍之介は驚愕に塞いだ目をこじ開ける。
折れてしまうと思った先端が、しっかりとコンクリートに刺さっている。一呼吸の沈黙を挟んで、急にわんわんと強い力が押し上げてきて、龍之介は慌てて柄にしがみついた。
「ちょっ、刺さってる! これって……」
「しっかり押さえて。修司くんも援護お願い!」
「はいっ!」
修司の声と同時に龍之介の手元が少しだけ軽くなったのは、彼の念動力のお陰だ。
龍之介には何が起きているのかさっぱり分からなかったが、修司が「まさか」と声を上げた。
「水道管破裂させるつもりですか? いいんですか? こういうの――」
「この辺りを戦闘で焼いたって何の罪にもならないけど、放っておくわけにはいかないもの。力でどうにかできるものなら、燃えないほうがいいに決まってるじゃない」
「それは……」
狼狽する修司をよそに、朱羽が「はあっ」と力を込めた。龍之介にはその気配を感じ取ることはできなかったが、修司とガイアがその凄まじさに顔を歪めて「うわあっ」と耳を塞いだ。
足元のコンクリートが地鳴りを響かせてバリバリと亀裂を刻んでいく。
砂のように脆く砕けた地面から突き出た水道管のパイプをホースのように操って、放水する朱羽。
何ヶ所からも水が吹き上げる様は魔法のようで、龍之介は「うわぁ」と歓声を上げた。
高く立ち上る冷たい水は、炎を覆いこむように広がっていく。
けれど感動も束の間、その数秒後には消防車のサイレンが幾重にも鳴り響いたのだ。